女神のお膝元で

第8話 女神様に謁見

 絶望の淵で、光が見えた。太陽が二つになったのかと思う程、眩しく輝いていた。


 窓から見えた彼方にある光は、とんでもない速さで馬車に近づいてくる、窓の外が見れない程の眩い光が降り注ぎ、目がくらむ。呆気にとられる程の光に包まれる視界の中、私の肩を抱いていたアンナさんの手が脱力し、滑り落ちていく。

「アンナさん!」

 私の最悪の予想は外れていてくれた。しかし、正常な状態ではないことは、その様子で一目瞭然であった。私の声になんの反応も示さずに、ふらふらと立ち上がり、何かに導かれる様に馬車の扉を開けようとする。

「アンナさん!」

 もう一度叫ぶ、それでも彼女は、何かに取り憑かれた様に外を目指し、扉を開け放つ。なんとか連れ戻そうと、腕を引っ張るけれど、非力な私ではびくともしない。小窓から差し込む数倍の光が、馬車の中に降り注ぐ。アンナさんは何を見たのだろう、腕を引っ張りながら見えた彼女の横顔は、大きく目を見開き、涙を流していた。

「あ…ああ…ああっ…!」

 アンナさんが声を上げ、馬車の外に飛び出す。彼女の腕を掴んでいた私諸共、雪の上に倒れ込む。

「ギャーッ!」

 間抜けな悲鳴を上げながらゴロンと一回転し、仰向けに倒れた私は、珍妙で不可思議な世界を目撃することとなる。

「ああ…女神さま…!この日を何度待ちわびたことでしょう!」

 膝を突き、綺麗な青い瞳からボロボロと大粒の涙を流し、歓喜の声を上げ、祈りを捧げるアンナさん。異様なその光景にギョッとする。それだけではなかった、他の騎士団の人たちも、団長のエルマチェンコさんでさえも、握っていた武器を落とし、呆然としている。

「え…なにこれ…何が起こってるの!?」

 理解出来ない状況に頭がパニックになる。

「ああ、リリーさん。貴女も共に感謝しましょう。私、いいえ、我々の女神様へ。」

 そう言って、混乱する私の肩を、ガシッとアンナさんが掴み凄い力で体を回される。半回転し、無理矢理膝を突かせられる。わけが分からず、アンナさんの方に首を回す。

「ア、アンナさん!どうしちゃったんですか!」

 私の叫びは聞こえていないのだろうか、彼女は涙を流しながら、うっとりと恍惚の表情を浮かべている。それは、決して十八歳の乙女、いや、女性が人に見せてはいけない顔だった。

 見てはいけないものを見てしまった気がして、咄嗟に顔を正面に向けた時、信じられない光景が広がっていた。


 強烈な光の中、宙に浮かぶ赤い軍服を纏った女神がいた。


 女神の背中越しに見える、馬車に襲い掛かろうとしていた巨大な熊は、服従を示すが如く、ゴロンと腹を見せてはいるが、己の死を悟っているかの様な、哀愁の漂う鳴き声を洩らしている。

 女神がそれに近づいていく、先程まで、あれ程恐ろしかった熊が可哀想になる程震えている。

「ここら一帯は我の縄張りだ。夕飯は熊肉にしようと思っていたが、興が醒めた。疾く失せよ。」

 巨大な熊を軽く撫で、そう言う。言葉が通じる筈など無いのに、本能でそれを察したのか、馬車を追いかけていた時よりも速く、振り向くこともなく全力で逃げ去っていく。

「エルマチェンコ、持って来た食料に菓子はあるか?」

 熊が去ると、女神はエルマチェンコさんへそう言い放つ。

「は、はっ!お持ちしております!」

 飛び跳ねる様に敬礼し、エルマチェンコさんがそう答える。

「ならばよい。…誰にも言うでないぞ。」

 荷馬車へ近づき、ゴソゴソと漁る女神、いや、何してんの?

「ア、アプロディタ様!私がお持ちしますので、どうかお待ち下さい!」

 エルマチェンコさんが止めようと叫ぶが、聞く耳を持っていないのか、

「おお、酒もあるではないか!」

 ほくほくと美しい顔に笑みを浮かべながら、お菓子の入った箱と酒瓶を手に振り返る。

「よいか、もう一度言うぞ、屋敷に着いても誰にも言うでないぞ。」

 あれー?なんか思ってたのと違うぞー。女神の容姿をした英雄アプロディタ様、私がイメージしていたその人は、強く、美しく、そして、女神の様に穏やかで慈愛の人だったのに、それが一瞬で崩れ去る。

 美しい顔に笑みを浮かべて、粉砂糖のたっぷりと塗されたクッキーを頬張るアプロディタ様。その口元にベットリと粉砂糖を付け、酒瓶のままその中身を煽る。そんな姿をポカンと見ていた私は、そんな彼女と目が合うと、何を思ったのか、

「なんだ小娘、これは我のだ、やらんぞ。」

 と手に持っていたお菓子の入った箱と酒瓶を、その豊かな胸にギュッと押し付ける様に抱きしめ、自分の物だと主張する。

「えっと…はい、大丈夫です。分かってますから。」

 盗ろうなど微塵も考えていない事を伝える。それよりも色々と言いたいことがあるけれど、そんな空気ではない。そんな私の返事を聞くも、それに一切反応することもなく、モグモグとお菓子を食べている。ホント、なんなのこの人…

 酒瓶を煽り、ふぅと一息ついた、アプロディタ様は箱の中を見つめ、蓋をする。

「気が変わった。くれてやる。」

 そう言って、私にそれを渡してくる。

「え?」

 突如渡された箱と酒瓶にどう反応を示せばよいのか分からない。とりあえず、隣で恨めしそうに、私を見るアンナさんの視線が痛い。

「さて、帰るか。」

 くるりと向きを変え、更に強い光を放ち、口の周りを汚したまま、ピュンと飛び去っていく。

 あの人は、何をしにここへ来たのだろう?私たちを助けに来たんじゃなかったの?それとも言っていたように、熊を狩りに来ていたのか、はたまたお菓子の匂いに誘われてきたのか?さっぱり分からかった。


 何とも言えない空気のまま、再び馬車に乗り込んだ。あれからずっと、アンナさんは妙なテンションのままだ。

 ソファーに座り、一息ついた私は、少しだけ冷静さを取り戻し、アプロディタ様に頂いた品を見る。お酒は飲めないし、どうでもいいけど、これ空っぽだよね…まあいいや、あの美味しそうなクッキーを一枚でも頂けるなら十分だ。ウキウキとしながら、蓋を開ける。

「空じゃないですか!」

 正確には、零れた白い粉砂糖が銀色の箱の中にパラパラとあるだけだった。あの人、私にゴミを押し付けただけじゃん!ウキウキと蓋を開けた私がバカみたいじゃん!

 ショックを受ける私に、アンナさんが上目遣いでこちらを見る。

「あのぉ…いらないのですか?でしたら私に…」

「え、只のゴミですよ。まあ、箱は洗えば使えそうですけど。」

 まあ、箱は綺麗な装飾があるし、欲しがる人はいるかもしれない。

「あ、そっちも欲しいですけど、出来れば酒瓶を…」

「へ?瓶って換金してくれましたっけ?」

 鉄や魔粉、木屑等、魔導具の製作中に出たそれらのゴミを、換金してくれる業者がおり、私はしょっちゅうそれらを持って行き、銅貨を数枚貰っていたが、瓶も引き取ってくれるんだ。

「な!なんと勿体ない事を言うんですか!いいですか、それは女神様の口がついた、言わば聖遺物!国宝、いえ、世界の宝ですよ!」

「ひぃ!」

 凄い剣幕で、こちらに詰め寄るアンナさんに恐怖を感じる。どうしちゃったの、この人!?

「わ、分かりました。分かりましたから、どうぞお引き取り下さい。」

 ズイズイとこちらによってくるアンナさんを、酒瓶で押し返す。

「うへへ、ありがとうございます。」

 アンナさんは、酒瓶に頬擦りをしながらそう言う。その酒瓶、どうするんですか?そんな問いは、なんだか恐ろしくて出来なかった。

 リリーヤ・ペチェノ、十歳、この日、世の中には、知らなくていい事もあるのだと、世界の真理、その一つを学びました。


 強くて、優しいお姉さん、凛とした顔立ちの格好いい女騎士アンナさんは、もういないのだ。遠い目をして嘗て女騎士アンナさんだったものを眺めていた。今現在、私の視線の先にいるのは、只の変態だ。「うへへ。」と乙女が出してはいけない声を出し、酒瓶を愛でる変態アンナさんは、突然キリッ、と覚悟を決めた表情になり、酒瓶の口に己の舌伸ばす。

 恐る恐るといった様子で、ゆっくりと舌を伸ばし、ペロン、と舌が触れる。

「~~~~!!~~~!」

 蕩けた顔でビクンビクンと痙攣を起こす変態アンナさんの姿は、教育上よろしくない。子供にそんなもの見せんないでよ…というより、何故私がいるのに、堂々と変態行為をするの?やるならせめて一人の時にしてよ。

 彼女の将来の為に、ガツンと言ってやるべきなのだろうか?いや、やめとこう。だって、目がヤバいもん。血走っているのに、トロンと蕩けた目をした変態アンナさんは、涎を垂れた半開きの口から舌を出し、ベロベロと酒瓶を舐めている。何故このようなモンスターが誕生してしまったのだろう…

 この人アンナさんはもうダメだ…


「リリーさんの瞳、少し女神様に似ていますね…」

 トリップしたヤバい目で、私の目を見ながらそんなことを言い出す変態アンナさん|に戦慄を覚える。

「ぜ、全然にてません!似てませんから!」

 プイッ、と顔を背けながらそう叫ぶ。退屈な旅路でのアンナさんとの会話は楽しかった。だけど、変態との会話はお断りだ!

「なんで顔を背けるんですか?大丈夫です。何もしませんから。ええ、何もしませんよ。ただ私に、その女神様に似た瞳を見せて頂くだけで良いのです。」

 ハァハァと息を徐々に荒くしながらそんなことをのたまう変態、嫌に決まっている。というよりも怖い。

「い、嫌です…」

「そう仰らずに…ああ、恥ずかしいんですね。大丈夫です、恥ずかしいのは一瞬です。さあ!こちらを向いて下さい、アプロディタ様!…失礼、リリーさん!」

「だから!嫌ですってば!」

 断固拒否の姿勢を示す。

「ならば、力づくでも…!」

 理性を失ったモンスターは暴走する。あの凶暴な熊よりも、この変態の方が、今は怖かった。


「ああ、アプロディタ様!」

 変態の力技で、その痴態を濁った瞳で見つめている。ゴリゴリと削られていく精神。もうどうにでもなれ…自暴自棄になり始めた時、馬車の揺れが止まり、馬車の扉を叩く音に変態が女騎士へと一瞬で早変わりし、扉を開ける。

「到着だ。リリーヤ嬢も…どうした、随分と疲れている様だが?」

 団長のエルマチェンコさんが、私の姿を見てそう言う。

「あのようなことがあった後です。致し方ないかと。」

 キリッ、とした表情で原因であるアンナさんが言う。

「それもそうだな。いや、我々が不甲斐ないばかりに多大な心労をかけてしまった。申し訳ない。」

「いえ、そんなことは…騎士団の方々が一緒で本当に心強かったです。」

 そう、貴方は何も悪くありません。悪いのは澄ました顔のまま、さらりと噓を言ったこの変態です。

「我々は積荷の引渡しと積載があるので、屋敷に入るのはまだ時間が掛かる。無理せず、体調が整うまで、そこで休んでくれ。それと、搬入作業が終了したらアプロディタ様へ謁見することになるので、着替えを済ませておいてくれ。エルモレンコ、頼むぞ。」

「はい、お任せ下さい!」

 何がお任せ下さいだ、洗いざらいぶちまけてやろうか。

 エルマチェンコさんが去り、扉が閉められる。またこの変態と二人きりかぁ…着替えって、そりゃそうか、こんな安っぽい防寒着じゃ駄目だよね。私の一張羅である安物のドレスを出していると、

「申し訳ございませんでしたーっ!」

 床に頭を付けてアンナさんが叫ぶ。

「私は、なんということを…」

 理性を取り戻したモンスターは、己の痴態と暴走を思い出したのか、乙女の顔で顔を赤くしている。酒瓶を舐め回していたモンスターとはもはや別人である。

「信仰心って凄いですね…」

 彼女の謝罪に、そう返して遠い目をして、窓の外を見る。盲信は人を狂わせる。有史以来、宗教戦争が延々と続き、終わりが無い訳だ。


 私に消えないトラウマを植え付けて、シャンバルへの旅路は終わりを告げた。

 


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「お嬢様、正直に仰って下されば、罪は軽くなりますよ。」

 自室のソファーに座らされ、我が屋敷の侍女長クレメンチーナによる尋問を受けていた。

「罪?なんのことだ?我は熊を狩りに行っていただけだ。」

 菓子と酒をつまみ食いした。とは言わない。言ったら夕食後のデザートを抜きにされてしまうからだ。

「そうですか、正直に仰られていたら、食後のデザート抜きだけで済ませようと思っておりましたが…三日程お菓子とお酒は禁止します。」

「な!何故だ!我は何もしておらぬぞ!」

 無慈悲なクレメンチーナの言葉に、抗議する。クレメンチーナは溜息をつき、

「ではお嬢様、口の中周りに付けておられる粉砂糖と、お嬢様から漂うアルコールの香りはなんでしょう?」

「な!」

 慌てて口を押える。

「その様にみっともない格好を騎士団の者たちに晒し、あまつさえ噓までおつきになられたのです。お嬢様、貴女は今おいくつですか?二十歳、成人されてもう四年も経たれているのに、ご結婚もされずに、口にするのはお菓子とお酒ばっかり、食べ物の好き嫌いは何一つ直っておりませんし、朝は起きれない、それに…」

「も、もうよい!我が悪かった!菓子と酒をつまみ食いした。正直に言ったのだから菓子と酒の禁止は勘弁せよ。」

 呆れた様に溜息をつかれ、

「はぁ、最初から正直に仰って下さいと、今まで何度申し上げてきましたか?」

「小言はもうよい。聞き飽きておる。」

「聞き飽きる程、言わせないで頂きたいものです。」

 そう言って、また溜息をつく。

「とりあえず、そのみっともないお姿をなんとかしますので、大人しくして下さい。」

 テキパキと湯とタオルを準備し、

「全く、いい歳こいた大人がこんなに口の周りを汚したままで、恥ずかしくはないのですか?そもそも…」

 クレメンチーナはブツブツと言いながら、口を程よく温かい濡れタオルで拭う。


「お酒を溢されましたね?折角の服にシミが…ついでなのでお着替えしましょう。」

 クレメンチーナはそう言うと、控えている侍女たちを呼ぶ。はて?溢した覚えはないが、知らぬ間に一滴程落ちていたか?それにどこにシミがついておるのだ?どこにもついていない様に見えるが…一礼し、我の自室へと入ってきた侍女たちに問答無用で服を脱がされ、生まれたままの姿にされると、その体をお湯で湿らせたタオルで隅々まで拭きあげられる。

「どうせこうなるのであったら、風呂に入りたかった。」

 肌に着いた水分を、乾いたタオルで吸い上げられながらそう言う。

「お見えになる騎士団の出迎えに間に合いません。ご容赦を。」 

「面倒くさいな…」

 別に騎士たちが悪いわけではないし、わざわざ物資を届けに来てくれたことへの労いの気持ちは有る。しかし、貴族家来騎士団という身分の違いがある以上、あの堅苦しく面倒な挨拶をいちいち聞いて、それから全く必要のないやり取りをせねばならないと思うと、溜息が出る。

「待て、そういうことであれば…」

 しまった、この着替えはクレメンチーナの罠か!

「ええ、ちゃんとドレスを着てお迎え致しますよ。」

 ガシッ、と侍女たちが私の手足を掴み、拘束する。

「おのれ!離せ!離さぬか!我の命が聞けぬか!」

「大人しくして下さい。コルセットを締められませんよ。」

 腹部に当てられるコルセットの感触に、ゾクリとする。

「要らぬ!不要だ!だから離せ!」

「お嬢様のコルセット嫌いも、いつになればお慣れになるのやら…」

 問答無用とばかりに締め付けられ、腹部が圧迫され、口から息が漏れる。

「ふぐっ…」

「あと一息です。さあ、息をゆっくりと吐いて下さい。」

 グググ、と更に締め付けが強くなり、否応なしに息が吐き出される。背中に伝わる紐を結ぶ手捌きで、ようやく終わったと分かる。終わったといえ、この息苦しさは未だに慣れないし、不快だ。

「コルセットなど、この世から消えてしまえば良いのだ…」

「致し方ありませんよ。当世の流行りですし、淑女として必要な身嗜みです。そんなにも御厭でしたら、お嬢様が世の流行りをお創りになれば宜しいのでは?そういう覚悟も無いのでしたら、大人しく受け入れて頂きたいものです。」

 つっけんどんにそう言われ、少しカチンとくる。

「簡単に言うが、流行を創り出すなど容易ではない。そもそも、我はそういったものに疎いのだぞ。その上で聞くぞ、どうすれば良いというのだ。」

「コルセットを使わないでも、魅力的なドレスでお嬢様が社交界に御出席なさればよいと思いますよ。流行とは憧れです。今や大陸中で最も注目されておられるお嬢様なら可能かと。」

 クレメンチーナがニッコリと笑ってそう言う。それに賛同するかの様に、侍女たちも頷いている。

「我が社交界が嫌いと知っていながらそう言うか…」

「社交界は貴族の嗜みであり、仕事であり、義務の様なものです。それをいつまでもお嫌いだからと、怠るのは如何なもので御座いましょう?」

 大っ嫌いなコルセットを付け、それ以上に嫌いな、あの陰険で、陰湿な腹の探り合いの場に行くと考えるだけで嫌気が差す。

「そうは言うが、そもそも、我が何故ここにるか考えよ。社交界など以ての外であろう。」

「失礼致しました。お嬢様に真っ当な淑女になって頂きたいあまり、お嬢様の事情も踏まえずに出過ぎた真似を致しました。」

 スッ、と深く頭を下げるクレメンチーナ。

「もうよい、それに、我はここの生活を気に入っておる。口うるさいベールナルド兄上や女共もおらぬし、面白い連中を囲い、退屈も無い。難点と言えば、自由に動けぬこと位だ。」

 シャンバルへ来て四年、人も住めぬ程過酷と言われたこの環境も、有り余る魔力を持つ我にとっては、なんの弊害も無いし、その魔力を持って築いたこの屋敷も、常に適温を保ち、この様に多くの使用人たちが暮らせている。

「堅苦しい貴族社会よりも、こうやって気ままに俗世を眺めて過ごす方が遥かに良い。お前たちには苦労を掛けるがな。」

 この広大な雪原には、この屋敷以外には牢獄と鉱石労働者の為の施設しか無い。娯楽が皆無なここで過ごす使用人たちには申し訳なく思っている。

「今更何をおっしゃいますか、お嬢様の御側に仕え十二年、苦労が無い日など御座いませんよ。」

 そう言ったクレメンチーナと笑い合う。


「そういえば、騎士団が面白そうな小娘を連れていたな。奴が例のアレだろう。随分と待たされたが、ようやく、ここにいなければならない一因を除ける。」

 物欲しそうに、私の菓子と酒を見つめていた小娘を思い出す。

「ベールナルド様からの書状にあった、ペチェノ家の養女ですか。あの頑固者が養女とは、余程の才能あってのものでしょう。」

 その言葉に、短い記憶を思い起こす。

「いや、その様な片鱗は微塵も感じなかったな…」

 だが、我と似た赤い瞳、噂が誠ならば…瘦せっぽちの小娘の姿が浮かぶ。

「しかし、しばらくここに置いておくのも面白そうだ。」

 

「物資の搬入、完了致しました。騎士団をお屋敷にお入れしても宜しいでしょうか?」

 侍女の一人がそう言う。

「ああ、構わぬ。我らも行くとしよう。」

 そう言って、立ち上がり、自室を出る。我の後ろには、クレメンチーナを先頭に付き従う侍女たち。

「食事は多めに作れ。それと、今日は大浴場を使う。」

「畏まりました。」

 クレメンチーナの指示で、侍女たちが割り当てられた仕事に向かう。あの小娘で遊ぶのも、愉快やもしれぬ。

 はっはっはっ、と笑いながら歩いて行くと、クレメンチーナに、はしたないと窘められてしまった。



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「うわぁ…」

 一面銀世界に鎮座する広大で、見るからに堅牢な、要塞の様なお屋敷を見上げていると、そんな言葉が漏れた。こんな場所に、こんな立派なお屋敷を建てるなんて、正直お金の無駄使いだとしか思えない。ここまで資材を運ぶコストに、これを建てる為の人件費、ちょっと考えただけでも、途方もない金額だ。

 凶暴な魔法生物が多いから、こんなにも堅牢な作りをしているのだろうか?そうだとしても、やはり無駄な出費の様に感じる。だって、ここにアプロディタ様がいるんでしょ?あの人さっき普通に魔法生物追い払ってたし。

 野生の動物というのは、凶暴ではあるが生き方は単純だ。弱い者を喰らい、強きに従う。あれ程完全な上下関係が成立しているのなら、あの熊が、アプロディタ様に今度遭遇した時は、絶対的な服従の姿勢を取るだろうし、そもそも近寄らない。

 あれだけ強そう(実際滅茶苦茶強い)魔法生物の力を上回るアプロディタ様に、こんな守り屋敷は必要なのだろうか?


 そんなことを考える余裕がある程度には、アプロディタ様に謁見することへの緊張は無かった。というか、さっき会ったしね。

 しかし、不安は大いにある。初めてお会いしたアプロディタ様の印象、想像通り、いや想像以上のとんでもない美人というのは別にいい。問題は、あの無茶苦茶な行動だ。淑女としてどうなの?というあの一連の行動で、グスタール様の言っていた言葉を思い出す。

『少し、いや、ちょっと変わっている。…違うな、かなり…』

 身内にそこまで言われる理由が分かった。というより、名門の大貴族なのに、何故誰か矯正しておかなかったのだろう…

 

 だが、今現在、そんなことよりももっと大きな不安材料がある。

「リリーさん、謁見時、リリーさんは団長の隣となりますの。リリーさんは騎士ではないので、普通の令嬢としての礼をして頂ければ大丈夫です。」

 謁見時の振る舞いを説明するこの女騎士アンナさんだ。あれ程の変態行為を見せつけられたら、不安しかない。いつあのモンスターが目覚めてしまうのか、ただただ、それが怖かった。


「お疲れ様です。奥で主人がお待ちで御座います。」

 高そうなメイド服に身を包んだ、若い侍女が重厚な扉の先へ導く。エルマチェンコさんを先頭に、侍女の誘導に従う。質実剛健な外見とは異なり、屋敷の中は、一度だけお邪魔したエルドグリース本宅の内装に少し似ている。

「第六騎士団並びにペチェノ様をお連れ致しました。」

 侍女の言葉で、両開き扉の両脇に立つ男性(アプロディタ様の護衛騎士かな?)二人がゆっくりと開け放つ。

「よく参った、入れ。」

 女性にしては少し低い、良く響く声。その声の主であるアプロディタ様は、豪奢な一人掛けの椅子に腰を下ろし、煌びやかなドレスに身を包み光を放っている。その堂々とした、本当に後光の差した威厳たっぷりの振る舞いに、あの時の様な子供っぽさは無い。というより、あの時も思ったけど、なんでこの人光ってんの?

「はっ!」

 エルマチェンコさんが返事をし、謁見の間へと進み、私と騎士たちもそれに続く。

 アプロディタ様の腰掛ける椅子の両脇には、メイド服の女性と、暗い藍色のドレスを身に纏う明るい茶髪をシニヨンで纏めた、顔色の悪い瘦せた気怠そうな女性。両の壁際に並ぶ数人の男性と侍女たち。まるで、王との謁見の様な物々しさだ。エルマチェンコさんが片膝を突き、首を垂れ、それに騎士たちも倣う。私は、ドレスの裾を軽く持ち上げ、礼を取る。

「第六騎士団団長、アガフォン・エルマチェンコ以下、三十八名、物資輸送及び、リリーヤ・ペチェノ護送任務、完了の報告を申し上げます。」 

「ご苦労。面を上げよ。」

 短い、だけど威厳の籠った返事。

「はっ!」

 漸く頭を上げる騎士たち。

「此度の働きを認め、褒美を取らす。クレメンチーナ。」

「畏まりました。」

 アプロディタ様の隣に立つクレメンチーナと呼ばれた侍女が一礼し、奥からやって来た別の侍女からエルドグリースの家紋の入った広蓋を受け取る。

「エルマチェンコ、近こう寄れ、許す。」

「はっ!」

 エルマチェンコさんが恭しく立ち上がり、一歩踏み出した。


「待ちなさい。リストと搬入された物品の数が合わないわ。菓子類の入った箱一つ、酒一瓶、何処へやったのかしら。」

 アプロディタ様の隣に立つもう一人の女性が、生気の籠っていない、ダルそうな声でそう言う。

「そ、それは…」

 困った様子で、言葉に詰まるエルマチェンコさん。アプロディタ様に言うなと念を押されている為、言えないのだろう。

「あら、言えないの?」

 何故一ミリも悪くないエルマチェンコさんが責められているのだろう…それらを盗み食いした当の本人は、先程までの威厳は何処へやら、ダラダラと冷や汗を流している。

 いやなんで?物資のリストがあるならこうなるって分かるでしょ!それともなんだ?こうやってエルマチェンコさんの忠誠でも量ってんの?だとしたら悪趣味過ぎるでしょ!

「ヤニーナ様、その件は私が伺っております。誰の仕業かも分かっておりますし、処分ももう下しておりますので、ご安心下さい。」

「そう、ならいいわ。」

 両脇に立つ二人は、アプロディタ様を見ながらそう言う。あんたら犯人分かっててやってるだろ。そんなすぐにバレるならなんで口止めしたんだろう?アプロディタ様ってアホなのかな?

「エルマチェンコ様、ご不快な思いをさせてしまい申し訳御座いません。お嬢様には私の方からきつく言っておきますので、ご容赦下さい。」

 いや、侍女さん、言っちゃってるから、犯人がアプロディタ様だって言っちゃってるから。

「い、いえ…」

 ほら、エルマチェンコさんもなんかいたたまれない空気になってんじゃん。あと、ヤニーナさんって人は謝らないんですね…


 クレメンチーナさんが、エルドグリースの家紋が入った革袋を、広蓋からアプロディタ様へ渡す。

「これで、部下たちをねぎらってやれ。」

 アプロディタ様が差し出した革袋を、恭しく跪き両手で受け取るエルマチェンコさん。あんなことがあった後なのに、アプロディタ様は、なんでこんなにも堂々と振る舞えるのだろう?やっぱアホなのかな?

 アプロディタ様とエルマチェンコさんに注目が集まっている間に、チラリとアンナさんの方を見る。なんでこの人はこの人で、あんな残念なポンコツ美人をうっとりとした表情で見れるのだろう?なんか特殊なフィルターでもかかってるのだろうか?

「おい、そこの小娘。」

 その声に、ビクッ!と肩が飛び上がる。小娘って私のことだよね…あの時もそう言われたし…

「ひゃ、ひゃい!」

 突然のことに、声が裏返ってしまう。

「お前、今何を考えていた?正直に申せ。子供の戯言、咎めはせぬ。」

 は?今考えていたこと…アプロディタ様ってアホで残念な美人って思ったこと?いや、駄目でしょ、死ぬ未来しか見えないんだけど。

「但し、噓、偽りを申した場合は、問答無用で首を刎ねる。因みに我は噓を見抜けるぞ。」

 ニヤリと意地の悪い笑みを浮かべてそんな恐ろしいことを言う。暴君だ!暴君がいる。

「ほ、本当に正直に申し上げたら何もしないんですか…?」

「ああ、我は約束を守る。我が約束を破ったことは無い。だろう、クレメンチーナ。」

「お仕えして以来、お嬢様が、私との約束をお守りになられた回数を数える方が容易な程、お破りになられておりますよ。」

 駄目じゃん!てか、本当にいたずら好きの悪ガキって感じじゃんこの人…

「うぐ…そ、それは過去の話だ。小娘が正直に申すなら、約束は守る。この場の全員が証人だ。」

 白い目で見る私に、そう言う。信用出来るかい!気が変わったとか言って、約束を反故にするでしょ、あんた!

「言わぬか…」

 口を真一文字に結び、何も言わないという姿勢を示す。こんな下らないことで死んでたまるか!

「ならば、後五秒以内に言わなければ首を刎ねる。」

 暴君は頬杖を突き、そう言い出した。

「ほれ、一、二…」

 動けない!カウントダウンを始める出すと同時に、首元に伸びる魔力のやいばと脚に絡みつく魔力の蔦。この人、本気だ!首元に伝わる魔力は、それこそ一瞬で私の首と胴を切り離すだろう。

「三、四…」

 あー、そうですか!分かりましたよ。どうせ死ぬなら、言ってやりますよ!

「アホ!バカ!ポンコツ残念美人!ゴミ渡しやがって!アレのせいで酷い目にあったんだぞ!絶対恨んでやるんだから!」

 エルマチェンコさんや騎士たちが真っ青な顔をしているし、壁際に立つ人々は、目を丸くしている。知ったことか、言えと言われたから言ったんだ。

 シャンバルへ行くことが決まり、暗殺と勘違いし、アホな想像で殺されると誤解してグスタール様の前で泣いた。死にたくないと泣いた。

 今だってそれは変わらない。死にたくないし、やり残したことだっていっぱいある。大金持ちや大貴族とは言わない、普通の人でいい。普通の人と結婚して、人並みの生活を送り、偶の贅沢で美味しい物を食べて、何人かは分からないけど子供たちに囲まれて過ごす、そんな普通の幸せでいいから、味わいたかった。

 そんな願望が実現することは無いのだろう。首に触れる刃が私の死期を悟らせる。この状況で言うだけのことは言った。悔いはあるし、やっぱり死にたくはないけど、どうせ逃げられないのだ、何も言わず、理不尽に殺されるよりはマシだろう。

 目を閉じた。


「くっ、ふっ、はっはっはっ!」

 あれ?何も起きない…目を開けると声を上げて笑うアプロディタ様。隣に立つ二人以外はポカンとしている。魔力の刃も蔦も消えている。

「流石、あの頑固一徹の礼儀知らずが養子に取るだけはある。我にそこまで悪態をつけるのは、小娘、お前とそのアホ親父、あとヤニーナとクレメンチーナ、兄上たちと義母、義姉上共だけだ。」

 いや、割といっぱいいますね。そんなアプロディタ様を両脇の二人は呆れた様に見ている。

「さて、夕餉まで時間がある、各々の持ち場へ戻れ。騎士団は部屋を用意している、各自夕刻まで休むなり好きに過ごすといい。小娘、お前は残れ。」

 アプロディタ様の言葉で、ぞろぞろとこの場にいる人が動き出す。私とアプロディタ様、両脇の二人を残し、閑散とする謁見の間。


「さて。」

 アプロディタ様が腰を上げた。それと同時に、今まで怒りしか湧かない、暴走していた感情が、一気に平常運転に戻る。迫り上げてくる恐怖や絶望感、そして安堵、全身から力が抜けた様に膝から崩れ落ちる。

「怖かったーぁっ!」

 ボロボロと溢れ出る涙は止まらない。わんわんと泣きじゃくる。 涙でふやけた視界に映るアプロディタ様は目を丸くし、驚いた様子。

「お、おい、泣くな。な、何処か痛いのか!?お、おい、どうしたらよいのだ!?」

 何故か慌てふためき、助けを後ろの二人に求めている。

「どうしたら?貴女が悪いのだから、貴女が自分で考えなさいよ。」

「ええ、全く同意見です。今回はお嬢様に全ての非が御座いますので、ご自分でご解決なさって下さい。」

 冷めた瞳と口調で、淡々とアプロディタ様を責めるヤニーナさんとクレメンチーナさん。

「わ、我が悪いのか!?」

「「当然(です)。」」

「す、少し度胸試しをしただけではないか!お、おい、泣くな。そ、そうだ、菓子をやろう。クレメンチーナ。」

「そんなことで機嫌を取れるのはお嬢様だけですよ。」

 この人、本当は使用人たちから馬鹿にされてるんじゃないの?

「度胸試しって、あれは子供相手にやる内容じゃないでしょ?貴女って、一度一般的な常識を学び直した方がいいわよ。」

「うぐっ…悪かった。我が悪かった。だから泣くのを止めぬか。」

「うぅぅっ…ひぐっ…」

 そうは言われても、自分の意思とは関係なく溢れ出る涙は、止めることが出来ない。

 

 ふわりと、優しい、嗅いだこともない様なとんでもなくいい匂いが鼻孔に入ってくる。それと同時に、ふかふかとした、とんでもなく柔らかい感触に顔が包まれる。

「頼む、もう泣くな。」

 あれだけ恐ろしいことをした人が発しているとは思えない程、只々優しいその声。なのに何故だろう、なんでこんなにも締め付ける力が強いのだろう。

「ん~~~~!!」

 柔らかいものに押し付けられ、呼吸が出来ない。ここになって、私の呼吸を妨げるそれが、アプロディタ様の胸だと気付く。え、なにこれ、超凄い…なんかもう、凄いとしか言いようがない。呼吸出来ない苦しさで、ジタジタと藻掻きながら私の手が、胸を押し退けようとして分かる。デカいとかだけじゃない、押し退けようとする手が跳ね返さえれる。

 神様って不平等だなぁ。薄れゆく意識の中、そんなことを思った。


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