第23話 「流れ」の手記

 ジョンと神父は、ランチェス・デ・タオスのプロブロ族のコミュニティに戻った。


 ジョンは、神父にお礼を言い、相棒の葦毛の馬が繋がれている教会の柵に歩み寄り、しっかり手入れされ毛並みが光沢のように輝いている馬の鞍に、あの「流れ」の手記を大事にしまい込んだ。


 神父は教会の扉を開き、中で帰りを待っていたコミュニティの人々にホイーラーピークの墓参りの様子をスペイン語で伝えていた。


 神父の話を聞き、涙を流す老婆や一生懸命頷く老夫の姿があり、彼等は積年の想いが叶った奇跡に感動していた。


 神父と神父を取り囲んだ一塊の人々は、そっとジョンの馬に近づき、ジョンの許可を伺うことなく、鞍橋にそれぞれ持ち寄った食料の入った袋を紐で括り付けていった。


 ジョンはそれら人々に対し、感謝の気持ちを十字を切りながら応え、人々が馬から一歩、二歩、後退りしながら離れると、皆に向かってこう頼んだ。


「皆さん、私の母の墓を作っていただき、また、それをずっと守っていただき、本当にありがとうございます。

 また、私は、必ず、このランチェス・デ・タオスに戻ってきます。

 そして、ホイーラーピークの母の墓に参ります。

 それまで、皆さん、お元気で。」と


 神父が別れの言葉を代表するかのように、こう答えた。


「ジョン、貴方の魂、貴方のアイデンティティはこの地にあり、この山の頂上に眠っているのです。貴方はいつでも、この地に帰ってくる権利を神から与えられているのです。

 また、逢う日まで、アディオス、アーメン。」と


 ジョンはカウボーイハットに手を当て、別れの合図をすると、馬をゆっくり前に闊歩させた。


 人々はジョンの後ろ姿が見えなくなるまで、手を振りながら、その旅の安全を祈った。


 ある一人の老婆が神父に問うた。


「あの奇跡の子は、何処に向かうのですか?」と


 神父は眼を瞑り、天頂を見上げて、こう言った。


「ジョンはオクラホマに行く。知らなくて良い事を知りに行くのだ。知らなくて良い事を…」と


 ジョンは、再び、リオ・グランデ川を降り始め、サンタフェを目指し、そこからルート40沿いをオクラホマに向かうつもりでいた。


 ジョンは、オクラホマへ向かう目的を当初の母の足跡を辿る事から浩子に逢う事へと変化させていた。


 ジョンは、ホイーラーピークの母の墓に参り、母の声を風の中に聴き、母の願いを知り、そして、母の哀しみを知った。


 ジョンは、母の哀しみに対して、それを癒すべく、母を喜ばすべく、浩子という愛する生涯の伴侶として想っている女性を母に紹介したい気持ちで、一杯となっていたのだ。


 ジョンと相棒の葦毛の馬の旅足は軽快にリオ・グランデ川を降っていた。


 夕陽が真っ赤な血を滴らせるようにメキシコ湾に入っていった。


 すると、辺りは急に夕闇が広がり、空気は冷気を帯び始めた。


 川沿いの石ころも全てが黒く見え始め、川の色も青色から黒色に変わっていった。


 ジョンは、馬が繋げる木を探しながら、今宵のキャンプ地を見分していた。


 やがて、川沿い近くに、樫木の大木が倒木し、その近くに巨岩がゴロゴロと転がり、川幅の一部をダムのように堰き止めている箇所を見つけた。


 ジョンは、そこを今夜の野営地と決め、馬に水を飲ませながら、ロープを樫木の大木の枝に括り付けた。


 ジョンは平岩に腰掛け、火を起こし、皆んなに貰った食料の袋から豆を取り出し、飯盒で煮立てた。


 ジョンは食べ終わると、食器類を川で洗い、そして、平岩に毛布を敷き、横たわると、天頂の星を見遣り、この場所の位置を確認し、あと半日でサンタフェに着けると確信を持った。


 ジョンは眼を瞑り寝ようとし、焚き火の方に寝返りを打った。


 その時、焚き火の炎の間に、ある紙切れが視界に入った。


 それは、枕代わりにしていた鞍のポケットに入れていた、あの「流れ」の手記の表紙の姿であった。


 恰も、その手記が読んでくれ!と言わんばかりに、丁度、鞍のポケットから飛び出しかけていたのだ。


 本当は…


 本当はジョンはまだ、その手記を読みたくはなかった。


 まだ、読む覚悟がなかった。


 まだ、母の不幸を知り尽くす覚悟がなかったのだ。


 過去の不幸より、早く浩子を母に合わせ、母の風色を明るくさせてあげたい気持ちで一杯だった。


 だから、ネガティブなものは避けたかった。


 ジョンは相談する相手が居ないことから、渋々、風に相談した。


 渋々にだ。


 風の答えは分かっていた。


「母の気持ちを読んでやれよ!」と言うに決まっていたからだ。


 ジョンは暗闇に向かって叫んだ。


「おい!お前ら居るかい?相談だ!この「流れ」の手記は早く読むべきかどうか、教えてくれ!」と


 風達は答えた。


「早く読め!」


「ちぇっ、予想どおりの答えだ。分かったよ、読むよ!」


「ジョン、早く読め!お前の為だけではなく、浩子の為にも早く読め!」


「えっ!、浩子の為にも?」


「そうだ!読めば分かる!」


 ジョンは風の強い声に素早く反応し、鞍ポケットから飛び出している手記を慌てて掴み取った。


 そして、ジョンは焚き火と満天の星光の灯り当てに、血で汚れている手記の表紙を捲り、その一頁を読み始めた。


 その手記には、古新聞の誌面のような紙質の写真が貼られ、その下にドイツ語で日記のような、詩のような文章が書かれていた。


 1枚目の写真は家族写真であった。


 三人の姿が見て取れた。


 真ん中の椅子に女の子が座っており。


 その両脇に両親と見られる大人二人が立っていた。


 ドイツ語が余り得意でないジョンは、その写真の文章を後回しにし、次の頁を開いた。


 そこにも古びた写真が貼られていた。


 今度も家族写真で、やはり三人であり、真ん中の椅子に座る女の子は明らかに成長していた。


 ジョンは前の頁に戻ることにし、捲り返し、1枚目の写真をまじまじ見入った。


 左側に立つ男性、おそらく、女の子の父親であろうと思われる男性は、白衣を着ていた。どうも医者のようであった。


 右側に立つ女性、おそらく女の子の母親は黒色の服を着ており、首元は白い布のような首巻きを纏っていた。


 父親の表情は、髪の毛は斜めに分けられ、口髭を生やし、彫りの深いはっきりとした顔立ちで、眼光は鋭く睨んでいるように見てとれた。


 母親の顔は、癖毛の赤毛のようにも見てとれ、優しい顔立ちで、眼は微笑んでいるようにも見てとれた。


 真ん中に座る女の子は、10歳ぐらいと思われ、黒色のワンピースを着せられ、髪飾りもされ、お人形のように椅子の上に座っていた。


 ジョンは下のドイツ語の文章に目を移し、ゆっくりと解読していた。


「今日はヒトラー様の再起記念日。父もナチス党に入党しました。これからのドイツはヒトラー様によって蘇ります。1928.9.1ベルリン写真館」


 ジョンは一瞬、得体の知れない冷気を感じ、身震いをした。


 次の頁の写真を眺めた。


 父親は白衣から明らかに軍服姿になっていた。母親は同じ服装のようであったが、前の写真と比べ表情は強張って見てとれた。


 女の子は美少女であり、大人び、化粧もしているかのように見てとれた。


 その下の文章は、


「今日は、ヒトラー様の就任記念日。ドイツ万歳、ヒトラー万歳、アーリア万歳。1933.6.5ベルリン写真館」


 ジョンは次の頁は開かなかった。


 開くのが怖くなった。


 ジョンは手記を鞍のポケットに直し込み、焚き火の反対側である川の方へ寝返りを打ち、じっと黒色の川面を眺めた。


 何も考えず、何も思わず、ただただ、川を見つめていた。


 すると、川面から一つの白い煙のような塊が出現した。冷気の塊のようであった。


 その塊が風に流されて、ジョンの顔を髪を靡かせた。


 その瞬間、ジョンは自然と寝落ちしてしまった。


 そして、次の瞬間には、ジョンは夢の中を傍観者のように眺めていた。


「私たちは紛れもないドイツ国民です。ずっと、先祖代々、ドイツ帝国に貢献してきました。ユダヤ人?ユダヤ教を信仰しているだけです。心配要りません。ヒトラー様は私達を信用してくださいます。」


「分かっておる。しかし…」


「どう?なさったのですか?」


「法律が出るんだ!ユダヤ人と結婚してはならぬという法律がな!」


「何ですって!」


「慌てるな!直ぐではない。ヒトラー様が大統領となった暁にはと仰っておった。

 しかし、それも時間の問題だ…」


「貴方様は免職にはなりませんよね?」


「分からぬ。ユダヤ人と結婚したドイツ人も迫害の対象とされておる。私も例外とは言い切れない…」


「何ですって!こんなにドイツに、ナチスに、ヒトラー様に尽くしてきた貴方様が更迭されるなんて、あり得ません!」


「ナターシャ、よく聞くんだ。私だけではない、あのフィリップ博士も更迭の対象となっているんだよ。」


「えっ、あのフィリップ博士、先の戦争の英雄でも…」


「ユダヤ人であれば、例外はないと…、そういうことなんだよ…」


「早く離婚しましょう!私さえ居なくなれば、貴方様は助かるのでは…」


「お前だけでは駄目だ。ユダヤの血が流れたエミリーも…」


「何ですって!エミリーまでも…、エミリーの婚約者はSS(ナチス親衛隊)のボーケンベルクなのに…」


「その話も無かった事になる。ボーケンベルクにも話す必要があると思っておる。」


「この話はボーケンベルクは知らないのね…」


「ナチス党の上層部までの情報である。当然、若いボーケンベルクまでは知らされていない!」


「貴方様、これから私達はどうすれば良いのですか?どうなるのですか?」


「いいか、ナターシャ、私の話を良く聞くんだ。

 ナターシャ、お前は義母と一緒にベルギーの実家に戻るのだ。しかし、そう長くはベルギーも安泰ではないと思われる。そこは覚悟するのだ。私も恐らく幽閉される…、そこは覚悟した上、ヒトラー様に最後まで忠誠を誓う!」


「分かりました…、エミリーはどうなるのですか?あの若く、将来に満ちたあの子の運命はどうなるのですか?」


「ナターシャ、私はエミリーだけは何としても助けたい!分かってくれるか!」


「分かりますとも!私はどうなっても構いません!エミリーだけは助けてあげてください!」


「エミリーは、アメリカに逃亡させる。」


「アメリカ!船はあるのですか?見つからないのですか?」


「私はSS将校だ。何とか伝手はありそうだ。だが、豪華客船に乗せてやる事は出来ない。」


「どうして出来ないのですか?伝手がお有りであるんでしょ?」


「豪華客船でのアメリカ渡航は既に満席となっておる。この情報に際したユダヤ人は我々だけの種類に留まらない。ヨーロッパ中のユダヤ人がこのきな臭いヨーロッパを捨て、エルサレム又はアメリカへと渡ろうとしておる。客船を取る事は間に合わない…」


「他にお考えがお有りなんですね!」


「一つだけ、残されたルートがある。それが最後の伝手だ!」


「……」


「奴隷船にエミリーを乗せる…」


「奴隷船ですって!」


「声が大きい!最早、私はSS将校ではないと思え!ゲシュタポの標的と思え!」


「分かりました。しかし、よりによって奴隷船とは…、エミリーが可哀想で…」


「奴隷として乗せるのではない!その逆の立場の白人として乗せるのだ。」


「奴隷船…、今だに続いていたんでんすね…」


「闇ルートで継続され、未だに多くの黒人がアメリカに奴隷として渡って行ってる。」


「分かりました。エミリーが助かるのであれば、何でも構いません。」


「分かってくれたか!明日朝、動き出そう。ナターシャ、お前は義母と一緒にヨセフの車でベルギーへ向かうのだ。私はエミリーをナポリの地中海ルート船まで連れて行く。そこに闇の奴隷船が停泊する予定だ。」


「分かりました…」


「エミリーはどこだ?」


「今日は恐らくボーケンベルクと逢引きしているかと…」


「……、分かった、エミリーが戻ったら身支度するように!」


「分かりました…」


 ゆらゆらと部屋の電灯が風に靡き消えそうで消えない灯りを保持している。


 ここは、いつもボーケンベルクとエミリーが逢引きを重ねる、SSの将校寄宿舎の空室である。


 ボーケンベルクは将校服に着替え直し、立ち上がり、部屋を出て行こうとしている。


 エミリーは髪を解かしながら、鏡越しにボーケンベルクに話しかけてる。


「戦争が始まるの?」


「まだ始まらないさ!もう少し先になると思う。」


「でも戦争になるのね…」


「あぁ!今度は、ドイツは負けない。ヒトラー様が居る限り、フランス何ぞに負けはしないさ!」


「……」


「どうしたんだいエミリー、ドイツが負けるはずなんてないだろう!心配するなよ!」


「貴方と離れ離れになりそうで、怖いだけなの…」


「俺は戦争になっても、戦場に行っても、死なないさ!」


「うん」


「分かってくれ!俺はSS将校なんだよ。」


「うん」


 ボーケンベルクがエミリーの額にキスをし、ドアを開け、帰っていた。


 エミリーは窓辺に立ち、寄宿舎を離れて行くボーケンベルクを寂しげに見送っている。


 そして、エミリーは窓を閉め、身なりを整えて、あのゆらゆらと揺れる電灯を自身の境遇と重なり合わせるかのように暫く見つめて、そして、灯を消した。


 ジョンはハッと目を覚ました。


 焚き火は既に消えており、身体中が冷え切っていた。


 ジョンは、何かに取り憑かれたように慌てて、枕元の鞍のポケットから、あの「流れの手記」を取り出し、3頁を捲った。


 その頁には、アメリカ・ニューオリンズ行きの貨物船の写真があり。先の2枚の写真とは違い日付も文章も記されていなかった。


 ジョンは一人言を呟いた。


「1935年のニュルンベルク法か…」


 ニュルンベルク法とは、1935年、ヒトラーのナチス政権の下、ドイツ人とユダヤ人との結婚を禁止し、ドイツ人の純血優生を保護し、


 そして、ユダヤ人への劣性差別、迫害、ゲットー、ホロコーストによる絶滅へと導く大きな柱となった法律である。


 ジョンは曙光が差込み、川沿いに風がそよぐのを待ち、一時の沈黙に浸った。


 間もなくして、光の胎児、純粋無垢な光、曙光が、どこからともなく闇夜に差込み始め、それを確かめてからのように、川面を風が揺らし始めた。


 ジョンはこの時を待ち侘びていた。


 ジョンは急いで風に問いかけた!


「このエミリーは、僕の…」と


 そう、ジョンが言いかけた瞬間、一筋の旋風が突風として、ジョンの口を封じるかのように、ジョンの身体を駆け抜けた。


 そして、ジョンの身体を駆け抜ける瞬間、こう囁いた。


「エミリーは、お前の祖母だ…」と


 いつの間にか曙光は朝日となり、ホイーラー山の方角から太陽が顔を見せ始めていた。


 ジョンはやっと我に帰り、そして、今度は落ち着いて、手記を読んでいった。


 そして、ほんの2、3分でジョンはこの手記を読み終えると、鞍のポケットに直し込み、それから鞍を馬に乗せ、腹紐を結んだ。


 ジョンは全てを察した。


 祖母はナチスの迫害から逃れる為、闇ルートの奴隷船に乗せられ、ニューオリンズに着いた。


 それから…


 ジョンの母を産み、そして、オクラホマに逃げ延びて、ダストボールに襲われ、西を目指す途中、ゴミ屑のように州道に捨てられた…


 かつて、ジョンがモニュメント・バレーの岩上で見た夢と繋がる。


 ジョンがそう悟った瞬間、ジョンの脳裏にあの文字が山焼きの大文字のように浮かび上がった。


「流れ」


 ジョンはそう呟くと、川に入り、冷たい川水で何度も何度も顔を洗った。


 そして、川水で涙を隠し、川から上がると、服を着替え、葦毛の馬に話しかけようとした。


 その時、ジョンは馬の綺麗な目を見て、そっと馬に話しかけた。


「お前の名前、まだ付けていなかったな。お前は牝馬だ。じゃぁ、お前は今日からローズ、ローズと呼ぼう。」


「ローズ、良いかい、良く聞くんだよ。これから東には行かない。南に行くんだよ。ニューオリンズに向かうんだ。」


「いいかい、ローズ。ニューオリンズだ。祖母の降り立った初めてのアメリカを見に行くんだ。初めて目にしたアメリカを…」


 ジョンはローズの頭を優しく撫でて、そして跨り、東から、ホイーラーピークから顔を見せる太陽を決して振り返る事なく、南を、ひたすら南を、リオ・グランデ川が消滅するメキシコ湾、ニューオリンズを目指し、南下を決め込んだ。


 二度と浩子に逢えない運命も覚悟し…、涙を隠して…、リオ・グランデ川を降り続けて行った…


 ジョンは自身の心に話しかけていた。


「浩子の為でもあるんだ。俺のアイデンティティを知らずに、どうして、浩子と一緒になれるものか!浩子と一緒になった時、俺は生まれ変わっていなければならないんだ…、そうだろ….、風達よ…、そうだろう、決着を付けないとダメなんだろう…」と



 それは、まだ残暑厳しい、初秋の頃、ジョンは、風に語る事なく、心に語り、そして、浩子に言い聞かせるように、ローズに物語を語り続けながら、覚悟の旅を再開していた…

 

 

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