第3話 私はシスター&カウガール
季節はめぐり、歳月も流れたが、久住山の麓には往古来今と綿々と続く季節の法則に従順な教徒であることを天にアピールするかのように草花の新芽が競って土の中から飛び出して来た。
浩子は家から徒歩とバスに乗り隣町の竹田市の高校に通っていた。
浩子はこの春で高校2年生となり、今年で17回目の春を迎えた。
「浩子、そろそろに牛舎も壊して、土地を売ろうかと思ってる。」と祖母が急に夕食の時、浩子に切り出した。
「浩子のね、大学の入学金を用意しておかないとね。」
「おばあちゃん、私、久住、離れないよ。ずっと、おばあちゃんとここで暮らすの。」
「ありがとう。でもね、お前の両親はそうは思ってないよ。お前の将来を考えていたと思うの。
今ならね、買い手があるの。
この前、神父様に頼んでみたの。」
「私は嫌だな。牛と馬の世話は私がするから。タックルも居るから大丈夫だよ。」
タックルとは浩子の飼い犬であった。
2年前、浩子があの楠木の木穴に行った時、穴の中から仔犬の鳴き声がした。
浩子が木穴を除くと、哀しい目をした仔犬が「クゥー、クゥー」と鼻を鳴らし、ブルブルと震えていた。
「君はどこから来たの。捨てられたの。迷子になったの。おいで。」
浩子が手を伸ばし仔犬を抱きかかえると仔犬は仕切りに浩子の口元を舐め出した。
「分かった!君はお腹減ってるだ。ちょっと待ってね」と浩子は言うと鞄から給食の残りの牛乳パックを取り出し、掌に注ぎ、仔犬に差し出した。
仔犬は遠慮することなく無心で浩子の掌の牛乳を舐め上げ、もうないのかと言うように舌を出し、浩子の目を見つめた。
浩子は牛乳パックの全部を掌に注ぎ仔犬に差し出した。
仔犬はシラ真剣に牛乳を舐めあげた。
その仔犬は柴犬の雑種みたいであった。
兎に角、元気は良さそうであった。
風達がやって来た。
「そいつ、捨てられたんだよ。」
「そっか…」
「お父さんとお母さん、覚えてるかな…」
「覚えてないと思うぜ。人間達に連れられて、この木穴に入れられたんだ」
「ひとりぼっちね、私と同じだ」
「浩子には俺たちが居るよ。」
「だねぇー、この子、仲間にして良いかなぁ?」
「婆さんに聞いてみな。」
「うん…」
浩子は家の隣の農機具が置かれている倉庫に仔犬を匿い、家に入って行った。
「浩子、お帰り。今日は遅かったね」
「お前の好きな団子汁を作ったよ。」
団子汁は大分の郷土料理で、味噌仕立てに旬の野菜、里芋、蓮根、にんじん、ごぼう、そして豚肉を入れ、小麦粉を長く伸ばした団子を入れる汁料理であった。
祖母は浩子が帰るのを待っていたかのように、囲炉裏の鍋の蓋を開けて、沸騰した団子汁に最後の工程の白ネギを入れて冴橋でゆっくりと汁を混ぜ、お椀に並々と団子汁を注いでくれた。
一口飲んだだけで松原家伝来の味噌の味が口中に広がった。
団子も手作りで小麦と強力粉と水を少々加え、十分にコネ、それをひとつまみ千切、両掌で回しながら伸ばし、汁が沸る直前に団子を投入する。
育ち盛りの浩子は調子の良い時は五杯はおかわりをしたもんだった。
今日の浩子はなんだか箸が進まないようであった。
それに気づいた祖母が浩子を見らずにこう言った。
「学校で何かあったのかい」
「ううん、違うよ。」
「言ってごらん。」
祖母は滅多に頼み事のしない浩子に逆に何かを頼んで欲しかったのだ。
「おばあちゃん、仔犬、拾ってきたの。飼っていいかなぁ…」
「浩子、おばあちゃん、犬が大好きなのよ、もちろん!」
「やったあー、おばあちゃん、ありがとう、おかわりー」
「はいはい」
それからは、浩子は毎晩、その仔犬と一緒に寝た。
3か月もすると成犬のように大きくなり、浩子より走るのも断然早くなった。
「そろそろ、君に名前をつけないとね。君は男の子、勇敢な男の子、どんな名前にしよっかなぁー」
丁度その頃、ラグビーのワールドカップが南アフリカで開催されていて、あの「奇跡の大番狂わせ」、日本が 優勝候補の開催国南アフリカを撃破した試合のニュースがどのチャンネルでも取り上げられていた。
「よし、君は今日から『タックル』と呼ぼう!」と浩子はインスピレーションで犬の名前を名付けた。
タックルは直ぐに風達とも友達になり、浩子が学校に行っている間は森の中、高原を駆け巡った。
タックルは牛舎の牛や馬とも仲が良く、100頭から20頭に減った牛の放牧時期には、浩子が教えることなく、牛達の誘導を上手くやってのけた。
浩子はタックルが居れば、今までとおり、牛達の面倒は見れると自信を持っていた。
しかし、生活費は山林の売払金と20頭の乳牛から取れる乳製品を道の駅に卸し売りするぐらいであり、祖母としては、牛を牛舎ごと売却して、浩子の大学の資金に当てたかったのであった。
そんなある日、浩子はいつもの日曜日、タックルを引き連れ、教会のミサに行った。
この教会の神父は、アメリカ人でこのエリアの巡回神父であったが、既に80歳を超えた高齢で今年限りでこのエリアを離れ、東京に移る予定となっていた。
浩子はミサのある日曜日は必ず礼服を着込み、教会のシスターとして、神父の手伝いをしていた。
聖水の準備、パンとワインの用意、そして、讃美歌演奏のためパイプオルガンを弾くのも浩子の役目であった。
「オハヨウ、ヒロコ。」
「神父様、おはようごさいます。」
「キョウモ、オネガイネ」
「はい。」
神父は急に大人びた浩子を嬉しく思っていた。
しかし、神父は既に引っ越しがこの夏に決まっていた。それをいつ浩子に伝えるか悩んでいた。
神父は意を決して浩子に伝えた。
「ヒロコ、ナツにオワカレ…」
「えっ、今年一杯でなかったんですか?」
「ナツにナリマシタ。デモ、アタラシイ者が、アキニハキマス。シンパイアリマセン。」
「そうですか。では、神父様とは後2、3回しかお会いできなくなるのですね。」
「イエスはイツモ、ソバにイマス。私のココロもイツモ、ヒロコノソバにアリマス」
「……、分かりました。」
その日のミサは午前10時から始まり、神父の説教の後、讃美歌が合唱された。
教会の中から響き渡る讃美歌は教会の扉を抜け、森の中の木々達にも安らぎを与えた。
とても清々しい初夏の日曜日の午前中であった。
讃美歌が終わり、パンとワインの他、教徒達が持ち寄った手作りの料理が振る舞われた。
猪肉の干し肉、玉蜀黍、茄子のつけもの、鶏めし、数種類の料理がテーブルに並んだ。
浩子は教徒達に赤ワインを注ぎ、神父が神への感謝の言葉を述べ、いつもの楽しい昼食会が始まった。
教徒の1人が神父に聞いた。
「神父様の後の方はいつ頃お見えになるのですか?」
「アキニハ、キマス。」
「どこから来るのですか?」
「アメリカのユタカラキマス。ワカイシンプデスヨ!、コチラにスミマスヨ!」
「そうですか、それで、裏地に平家を建てるんですね。」
「ハイ、コノチは、ワレワレのシュウハにタイセツナトコロデス。ホンブモ、スミコミニシマシタヨ!」
「それは良かった」
この地は隠れキリシタンの歴史が脈々と伝承され、人口の割に熱心な信者が多く、イエズス会としても重要視していたのだ。
「ヒロコシスター、ビューティフル、シスターイマス、モンダイアリマセン!」
「だなぁ、浩子ちゃんが居てくれれば、新しい神父様も安心だなぁ。」
浩子の祖母は作り笑顔で笑った。
その時であった、1人の男が教会に駆け込んで来た。
「やられちまった!柵から仔牛が逃げやがった。」
「何!早よ、捕まえねぇーと、車に跳ねられるぞ!」
浩子が尋ねた。
「何処の柵?」
「小径の先の小川の向こうだ!」
「そりゃいかん、県道が近いやん、トラックも多く走っとる。」
浩子は教会の二階に駆け上がり、礼服を抜き捨て、ジーンズとブラウスに手早く着替え、ブーツを履き、教会の裏口に周り、タックルのリードをはずし、
「ゴー、タックル、ゴー」と叫ぶと、タックルは全てが分かっているかのように猛烈に小径を駆け抜けた。
浩子も全速力で森を抜け、家の厩舎に行き、馬の紐を外し、鞍をつけ、腹帯を結ぶと、鎧に片足を乗せながら、ハミを噛ませ、馬を走らせながら、飛び乗った。
浩子が馬を走らせていくと、タックルの吠える声が聞こえ出した。
浩子は馬を杉の木に繋げ、鞍の後橋からロープを取り、タックルの吠える方に近づいた。
仔牛がいた。
仔牛は、県道と放牧地の境のガードレールの側で草を食べていた。
タックルが上手く、道路側から吠え立て、仔牛を県道から引き離した。
仔牛が小川の橋を渡り、広い放牧地帯に走り出した時、浩子は仔牛の前に立ち塞がり、ロープで輪を作り、「シュッと」輪綱を宙に浮くように飛ばした。
仔牛の首に輪綱が嵌った。
浩子は急いで、馬の鞍の後橋にロープを結び、馬に駆け乗り、仔牛が暴れないよう、綱を若干緩ませながら、飼い主達が集まっている放牧地に仔牛を誘導した。
「やっぱ、浩子ちゃん、親父さんの血を継いでるなぁー」と仔牛の飼い主が嬉しそうに浩子に礼を言った。
黒光した馬に跨り、後ろ髪をポニーテールで結び、胸元を開いた真っ白なブラウスをジーンズに入れ込み、長い脚を伸ばし、茶色の牛皮のブーツを履いた浩子の姿は、先程のシスターと打って変わって凛々しく見えた。
神父は思わず、両掌をポンポン叩きながら、浩子に叫んだ。
「ビューティフル、カウガール!、エクセレント!!」
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