1F 最期のひとときを笑顔のままで
午後九時前のオルタは、とんと静かである。
観光地としても有名なこの町は、観光客の浮ついた足音と地元民のたわいない会話によって、日中こそ盛大に賑わっている。しかし、夜になった途端、そのムードは一変する。自動車の往来も、人々の交流もほとんどなくなり、ただ潮の風だけが港の方角からサラサラと吹くだけだった。
規則的に並んだガス灯が、石造りの建物をほんのりと照らしている。ガス灯も、石造りの建物も、他の町ではあまりお目にかかれない。
オルタは、とかく古風な建物が多かった。
それは、その昔オルタが商都として栄えていたことに由来する。寄港地のひとつとして、流通を中心に活躍をみせていたオルタは、他の町と比べてより急速な発展を遂げていた。その途中で銀行や商社が次々と建造されたのだという。
それらの建物はすでに本来の役割を失っているものの、美術館やお土産屋といった具合に姿を変えて、今もなお残り続けている。
だからこの町は、どこかノスタルジックでレトロな情緒を漂わせていた。
目の前のコイン広場に、やはり人影は少ない。
オルタときけば誰しもが思い浮かぶスポットであるこのコイン広場は、その名の通り、コインの形状をかたどるように石畳で舗装されている。
そのど真ん中にひと際大きな噴水があるのだが、そのあまりに目立つ佇まいから、もっぱら待ち合わせの目印となっていた。
ときおり、出会いを求める者まで溜まっているとかいないとか。
とはいえ、今の時間帯だと、せいぜい残業終わりのサラリーマンが噴水の横を素通りするくらいしかみることはできなかった。
そして、コイン広場の周りには大小さまざまな建物が噴水を囲むようにしてずらりと並んでいる。洋菓子店、ワインショップ、ガラス工房、レストランなどバラエティも豊富だ。
私の職場はその集まりの中にあった。
ちょこんとしていて、こぢんまりとした建物……いや、本当は決して小さくないのだけれど、隣の建物が大きいため、相対的にそう見えてしまう。
職場となる建物の隣には、レンガ造りの巨大な時計塔がそびえていた。その高さ、実に50m。ビルに換算すると、およそ20階相当だ。
四角い柱が頭上高くまで続き、てっぺんはピラミッド状。時計の文字盤はコイン広場からみて正面に位置していた。
ゴーーゥン。ゴーーゥン。
突如、鐘の音が静かなコイン広場に響き渡った。実はこの時計塔、上部に鐘が備え付けられており、一定の時刻になるとその鐘が鳴る仕組みになっている。ゆるやかに耳へと届くその音は、いつまでも聞き飽きることはない。
そうか、ちょうど午後九時になったんだ……ってもう九時になっちゃった?!
うっかりのんびりとしていた私は、職場を目指して一目散に駆けだした。
はぁ……はぁ……、急いで着替えないと。
建物の中へと入った私は、壁掛けのスイッチをパチリと押した。室内中央にあしらわれているシャンデリアが暖色の光を一斉に放つ。
総ケヤキ造りの室内がパッと明るくなり、そして、棚やテーブルに所狭しと置かれているオルゴールがキラキラと輝きだした。
そう、私の職場はオルゴールショップなのだ。
可愛らしい小型のものから、極彩色のジュエルを嵌めたものまで、その形、その音色が千差万別のありとあらゆるオルゴールを揃えている。
精巧で緻密なつくりと種類の多さが評判で、オルタで有数の人気店となっている、らしい。
詳しい事情はよくわかっていない。
なぜなら私はこのオルゴールショップの店員ではないからだ。
私は室内の角っこにある木製のクローゼットへと一直線に向かった。
クローゼットを開け、中から制服を取り出す。
そして、着ていた服を何のためらいもなく次々と脱いでいった。
最初こそ、なぜ更衣室がないのだろうかと恥じらいを覚えたものの、今ではもうすっかり慣れてしまった。
手際よくあっという間に制服へと着替え終えた私は、次に姿見の前へ移動した。
オルゴールショップに姿見、である。
ブティックにあるようなこの姿見は、オルゴールショップに置かれているというだけで奇妙なオーラを放っている。しかし、この鏡は私たち従業員にとって必要不可欠なのだ。
姿見越しに、私は自分の制服姿を確認した。ローヒールのパンプスに汚れがついていないか、スカートやベストに皺がついていないか。私は、上体を左右に捻りながら細かくみていった。
身だしなみに問題がないことを確認した私は、続いてスカーフを首元に巻いた。スカーフのオレンジ色は、私の勤務先のコーポレートカラーである。スカーフを巻くことによって、会社の信頼を一身に背負っている思いがし、キュッと気が引き締まった。
私はもう一度目だけを動かして全身をみてから、姿見のもとを離れ、再びクローゼットまで歩いた。クローゼットの中から丸みを帯びた制帽を取り出す。
自分の吐く息の音くらいしか聞こえないほどの静けさに包まれたその場所で、私はゆっくりと制帽を被った。
その瞬間の感覚は今でも新鮮だった。
音が変わり、空気が変わり、光景が変わる。
制服を全て身につけた瞬間に訪れるこの感覚は、まるで異世界へと飛ばされたようだった。
私はすぐにあたりを見渡した。先ほどまで目に余るほどたくさんあったオルゴールはすべてなくなっており、代わりに二人分のデスク、そして来客用のテーブルと椅子が出現している。
いつもであれば、奥のデスクに座っているはずなのだが、どうやら今は事務所自体にいないようである。
まだ出勤していないのだろうか……。いや、あの人に限ってそんなことはあり得ない。
もしかして、遅刻してしまった私を見かねてもう仕事を始めてしまったとか……。
焦りを募らせた私は急いで事務所の外へ出た。
目の前に広がる景色は、閑散としたコイン広場、ではなくなっている。
はしゃぎながら走る子どもたちに、ベンチで肩を寄せ合う若いカップル、テラス席でスパゲッティを頬張る恰幅のいいおじさんや、自由気ままに楽器を演奏する男女のグループまで、実に様々な生活をしている人たちで賑わっていた。
一方で、空はまだまだ暗く、時計塔の針も数分しか動いていない。噴水も相変わらず広場のど真ん中に鎮座していた。
異なっていないようで、たしかに異なっている世界。
私は今、オルタではなく、ミナタにいるのだ。
「こんばんは、ヒカリちゃん」
不意におっとりとした声で自分の名前を呼ばれた。
私はほぼ反射的に声のする方を向く。
「お、お疲れ様ですメグミさん!あ、あの、遅れてすみませんでした!」
私は深々と頭を下げた。
「そんな、頭を上げてヒカリちゃん。まだお客様もお見えになっていないし、次から遅れないように気を付けてくれれば、全然大丈夫よ」
「あ、ありがとうございます……」
そう言いながら私はおそるおそる体勢を元に戻す。
メグミさんは目尻を下げて柔らかく微笑んでいた。
ああ、女神様が存在するならば、それはきっとメグミさんのことではないだろうか。私は自分の行いをろくに反省もせずそんな風なことを思った。
目鼻立ちが整っていてスタイルもよく、さらには温厚で頭も切れる。非の打ちどころがまるで見つからないし、それでいて慎ましやかで謙虚なのだ。同性である私でさえ油断しているとドキッとしてしまうし、さぞメグミさんファンは多いことだろう。もちろん、私にとってもメグミさんは憧れの上司だ。
「そんなに見つめて、私の顔に何かついてる?」
ゆるくウェーブのかかった長い髪を揺らしながら、メグミさんが私に尋ねた。
「い、いえ!ちがいます!」
見惚れていたんです、とは到底いえるはずもなく、私はただただ挙動不審な態度をとってしまった。
「そういえば、今日のお客様はまだ来ていないのですか?」
私は話題を変えようと、先ほどのメグミさんの発言で気になったことについてきいてみた。
「ええ。予定ではもうそろそろいらっしゃるはずなんだけれど」
どうやらメグミさんはお客様がまだ来ていないことを心配して外に出ていたらしい。
「えっと、今日のお客様は……。私、事務所からCVを持ってきますね」
「それなら大丈夫よ、ヒカリちゃん」
私が後ろを振り向こうとしたタイミングでメグミさんが引き止め、小脇に抱えていたフォルダから一枚の紙を取り出し、私に差し出した。
「これが今回のお客様のCVよ」
「ありがとうございます」
私はメグミさんから受け取った書類に目を通した。
「お名前はトク子様……、ん?この方、さっきどこかでお見かけしたような。あ、やっぱり」
私は書類に添付されている写真と、コイン広場の噴水付近でキョロキョロしている人を見比べて、こくりと頷いた。
「メグミさん、あそこにいらっしゃいますよ」
「あら、本当ね」
「私、声をかけてきます」
「ありがとうヒカリちゃん、よろしくお願いね」
「まっかせてください!」
どんな些細なことであれ、憧れのメグミさんに頼られたことが嬉しくなり、私は胸を張って噴水へと向かった。
「遅れてしまってごめんなさい。まだこの町に慣れていなくて……いや、慣れているはずではあるんだけどねぇ」
メグミさんのいる場所までやってきたトク子さんは、ゆったりとした口調で謝った。
「いえいえ、とんでもないことでございます。この度はご足労いただきありがとうございました。本日、ご案内をさせていただきます、オフィス・コーギーのエレベータガイド、メグミと申します」
メグミさんが一言一句丁寧に述べた後、ちらりと私に目配せをした。
「ア、アシスタントのヒカリと申します」
「本日はどうぞよろしくお願いいたします」
最後の挨拶で、私とメグミさんの声が重なった。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
トク子さんの広角が上がり、目尻に皺が寄る。
「では、さっそく事務所の中でヒアリングをさせていただいて」
「あ、ヒカリちゃん。今回はトク子様のご意向もあって、ヒアリングはないの。このあとすぐに出発する予定よ」
「そうだったんですね」
通常の流れとは異なっていたため、私は少しだけ戸惑ってしまった。
「ちゃんとした手順じゃなくてごめんなさいねぇ」
私を見ながら申し訳なさそうにトク子さんが言った。
「この世界に来たのはつい一昨日のことなんだけれど、ほら、私はこの歳でここに来てしまったわけだから、あまり楽しめないと思うの。もうゆっくりしたいなってねぇ」
「トク子様からそのようなご相談は昨日伺っておりましたので、この後すぐにご搭乗できるよう、エレベータのご用意もできております」
メグミさんが目を細めて微笑むと、トク子さんもほっとしたように笑みをこぼした。
「ヒカリちゃん、トク子様を搭乗口まで案内してもらえる? その間に私の方も最終チェックを済ませるから」
「はい!大丈夫です!ではトク子様、こちらへどうぞ」
私はまだぎこちなさの残る所作でトク子さんを先導した。
「到着いたしました」
「あら、意外と近いのねぇ。というより、ここは……」
トク子さんが驚きながら顔を上げた。トク子さんがそのようなリアクションをとるのも無理ない。先ほどの話によると、トク子さんはミナタに来てからまだ数日しか経っていないのだから。
「オルタでは巨大な時計塔であるこの建物ですが、ミナタでは内部がエレベータとなっております」
私もトク子さんと同じように時計塔を見上げながら言った。
「そうなのねぇ。でも、とてもあの場所と繋がっているようにはみえないけれど、本当に大丈夫かしら……」
トク子さんは不安げな表情を浮かべた。
なんとかしてトク子さんの気持ちを和らげないと、私はそう察したものの、これといった名案はすぐに思いつかなかった。どうやらメグミさんもまだ確認が終わっていないらしい。
「トク子様は、ここミナタでやり遂げたいことはなかったのですか?」
結局、私は話を逸らすことにした。質問の内容も、私自身少し気になっていたことである。
「そうねぇ……」
「生きている間に達成できなかったことにもう一度挑戦したり、叶うまでずっと待っていたり、ミナタにはそういった思いを抱えながら暮らしている方が多いと思います」
「私はそこまで未練を残したまま死んだわけじゃないのよ。十分に生きて、老衰によってあの世を去った。てっきりそのままあの場所へ行くかと思ったんだけど、なぜだかこの世界に来てしまった」
「たしかに、まさか死後の世界が存在するなんて普通は思わないですよね」
「そうよねぇ。だから、私はおとなしくすぐにあの場所へと行こうかなって。まぁ、心残りがあるとすれば、死ぬ直前に、子どもたちの笑顔がみたかったわねぇ」
「子どもたちの、笑顔……」
「えぇ。私が死ぬ直前、みんな悲しい顔をしていたから」
トク子さんは遠くの方を眺めながらしみじみと言った。
私なら、トク子さんにどのような最期を届けることができるだろうか。
「お待たせいたしました。ご出発の準備が整いました」
気づけば私のすぐそばにメグミさんが立っていた。私と目が合ったメグミさんは、いつもの柔らかい笑みをみせた。
「それでは、エレベータ内部へとご案内いたします」
トク子さんに声をかけた後、私は再び時計塔を目指した。
「はぇ、本当にエレベータになっていたんだねぇ」
トク子さんは感心したように周りを見渡していた。
時計塔の隅に入り口があり、そこから入って中央まで進んだところに、私たちの乗るエレベータはあった。
エレベータの扉はガラス張りの外扉と蛇腹式の内扉の二重になっていて、今はほとんど出会うことのない、アンティークな装いである。しかし一方で、エレベータの壁、床、天井は全て透明なガラス張りになっており、現在の階数も備え付けのモニターに表示される。目的の階もボタンで指定するようになっていた。
「では、改めまして」
メグミさんがすっと小さく息を吸い込んだ。
「この度は、数ある中からオフィス・コーギーを選んでいただき、誠にありがとうございます。トク子様の最期のひとときが、素敵なものになりますよう、私たちエレベータガイドが心を込めてご案内させていただきます。どうぞよろしくお願いいたします」
私とメグミさんは、トク子さんに向かって丁寧にお辞儀をした。そして、エレベータ中央にいるトク子さんを挟むようにして、メグミさんは前方の押しボタンがある右端に、私は後方の左端へと移動する。
「それでは、これより天国へとまいります」
メグミさんは『100F』のボタンを押してから、『▶︎◀︎』のボタンを押した。
扉を閉めたエレベータが、私たち三人を乗せて、ゆっくりと上昇を始める。
「上がっている感覚はなんとなくあるけれど、真っ暗で何もみえないわねぇ」
エレベータが動き始めてすぐにトク子さんがつぶやいた。あたりが真っ暗なのは、エレベータの上昇と同時に、エレベータの内部を照らしていたライトが消え、さらにエレベータ自体が時計塔の中にあるため、周りがガラス張りになっているといえど、外部からの光が一切差し込まないためだった。
「ご安心くださいませ、トク子様。まもなく、このエレベータは時計塔を抜けます」
「時計塔を、抜ける?」
メグミさんの言葉に、トク子さんの理解が追いついていないようだった。
私だって、最初に乗った時は、かなり驚いたものである。
「わぁ、すごい」
トク子さんがその反応をしたとき、たしかにエレベータは時計塔を抜けていた。
瞬く間に暗闇が開け、視界いっぱいにミナタの夜景が広がった。色とりどりの光が地上の随所に散りばめられており、それは言うまでもなくミナタで過ごす人々の生活によってもたらされているものだった。
そして、ここミナタでは、天気がよければ満天の星も望むことができる。
今まさに見えている景色は、まるで夜空の星を浮かべる透き通った湖面の真ん中にいるかのように、どこをみてもきらめきでいっぱいだった。
ロケットのエンジンみたいな豪快な音も、立っていられないほどの揺れもないままに、エレベータは上へ上へと上昇していく。建造物は少しずつ小さくなっていき、モニターに表示されている数字は刻一刻と増えていった。
このエレベータがどのような仕組みで動いているのかは気になるものの、それはすべて魔法だと言われてしまえばきっと納得してしまうだろう。
だってそもそも、ミナタという世界の存在そのものが不思議なのだから。
「天国へ行く前にこんな絶景を見られてよかったわぁ。ありがとうね、メグミさん、ヒカリちゃん」
トク子さんは満足げにお礼を言った。
「ご満足いただけてよかったです。ですがトク子様。トク子様に本当にご案内したい景色はここからなのです」
「えっ?」
メグミさんがそう言って微笑んだ直後、今までみえていた光景はすべて消えてなくなり、分厚い雲の中に入ってしまったかのように、あたり一面真っ白な空間が広がった。
そう、ミナタの夜景をみせることもお客様をもてなす演出のひとつではあるのだが、それだけでは他社と大して変わらないし、別にメグミさんではなく私にだってできてしまう。
ここからが、エレベータガイドの腕の見せ所なのだ。
「あれ、あそこに、誰かが……」
何かに気づいたトク子さんが、白い空間の一点をじっと見つめた。その先にはぼんやりとした人影がみえており、徐々に徐々にその全貌が明らかになっていく。
「お前さん、もしかしてヨシエなのかい……?」
トク子さんがそう発したころには、人影が一人の女性へと鮮明に変わっていた。
「トク子様、ヨシエ様だけではございませんよ」
「えっ……、あ、タカノリにケイコ、ミッちゃんまでいるじゃないかい」
気がつくとエレベータの周りには十人以上もの男女が集まっていた。それぞれ年の差はあるものの、どこか顔が似ているようだった。
「どうして、私の子どもや孫たちがここにいるんだい」
トク子さんが不思議そうに尋ねた。
「昨日、お電話でトク子様が話してくださった心残りの内容を覚えていらっしゃいますか?」
そう聞き返したのはメグミさんだった。
「えぇ、たしか最後に子どもたちの笑顔がみたかった、と」
「はい。トク子様がお亡くなりになったのは病室でした。息を引き取る直前に見えていたのは、ベッドの横で悲しみに暮れているご家族のお顔だったかと思います。トク子様はその光景がどうしても気がかりだった。ですが、ご家族が悲しんでいたのは、それだけトク子様を愛していたからです。トク子様は誰にでも優しく、慈しみに溢れていました。トク子様が今見ているのは、ちゃんとトク子様に向けられたものですよ」
メグミさんは穏やかに、そして芯の通った声で案内した。
この真っ白な空間は、通称、
エレベータガイドは、お客様からヒアリングした内容を元に、
トク子さんの周りに集まっていた人は、みんな笑顔を向けていた。トク子さんに感謝するように、トク子さんを愛するように。
私の角度からはトク子さんの後ろ姿しかみることはできない。しかし、一瞬だけわずかにみえた横顔は、なんとも幸せそうだった。
「ありがとう」
トク子さんがそう言うと、周囲にいた人々の姿がだんだんと薄くなっていき、やがてふわりと消えていなくなった。
そして、チンと目的地の到着を告げるベルが鳴った。モニターは『100F』を表示している。
蛇腹の扉が横に開き始めると、隙間から眩い光が差し込んだ。
エレベータがぬくもりで満たされていく。
「天国まで到着いたしました。本日は、ありがとうございました」
メグミさんが、開ききった扉の外へと手を向けた。
「とっても素敵なひとときだったわ。本当に、ありがとう」
トク子さんが、扉の外へと進んでいく。
まもなくして、トク子さんの姿はあたたかな光に包まれた。
「それじゃあ、私たちも帰りましょうか」
メグミさんが『1F』と『▶︎◀︎』を続けて押す。
扉が閉まり、エレベータが下降したことがわかったときにはもう、私は我慢の限界だった。
「トク子さん、よかったです、よかったです」
「あらあら、ヒカリちゃん泣いているの?」
私の両目からは大粒の涙がこぼれていた。実のところ、途中からずっと危なかったのだが、お客様を無事天国まで案内できたことに安堵してしまい、堰を切ったように止めどなく涙が流れた。
「この前は途中で泣いてしまっていたけれど、今回は最後まで頑張ったのね」
メグミさんはそう言いながら私をそっと頭を撫でてくれた。
「私、メグミさんのようなおもてなしをできる気がしないです」
私は尊敬とちょっぴりの嫉妬心を込めてつぶやいた。
泣き虫で、これといった取り柄も見当たらない私に、果たしてエレベータガイドが務まるだろうか。
「そんなことないわ。お客様にとって大切なこと、幸せだと感じることを一生懸命に想像して、とっておきのおもてなしをする。ヒカリちゃんなら、きっとできるはずよ」
「うぅ、メグミさん……」
メグミさんに励まされ、私の目からしずくがまたひとつ落ちていった。
「エレベータガイドを務める上で大事なことをヒカリちゃんに教えてあげる」
「大事なこと……」
「それはね、お客様が最期のひとときを笑顔のままで過ごせるようにするには、私たちも笑顔でいなきゃいけないの」
メグミさんは私に対してニコリと笑ってみせた。
心の底から相手を想っているからこそできるその笑顔は、とても優しく、美しい。
気づけば私もついつられて笑ってしまっていた。
人は死ぬと、天国へ行く。
それはおおよそ間違っていない。
けれど、どうやらそれだけではないらしい。
人によっては、天国へ行く前に、ここミナタへと誘われるのだとか。
私の仕事は、ミナタから天国へ行きたい人に、舟を出してあげること。舟に乗っている時間、その最期のひとときが、この上なく素敵なものになるようにおもてなしをすること。
今の私はまだまだ未熟だけど、いつかメグミさんのような立派なエレベータガイドになってみせる。
それが、生きている私の目標のひとつだ。
そして、もうひとつだけ、私にはどうしてもやり遂げたいことがあった。
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