私刑

 胸いっぱいに広がる彼女の温かさと甘い香りを溢さじと抱きしめ続けていると、不意にどこからか僕と彼女の名を呼ぶ声が聞こえた。なんだなんだと抱きしめる手の力を緩めて彼女を解放しその声のする方向を見てみると、そこには鬼のような形相を呈する海斗が立っている。

「……朔弥、何をしてるんだ? 説明しろ」

 彼は落ち着いた口調で僕らに話しかけてきた。しかし落ち着いているように見えるのは声色だけで、右手を見てみればそれは力いっぱいに握りしめられ今にもこちらに殴って掛かりそうなほどで、そんな彼に僕は

「何って、見たまんまだよ」

 そう返答する。すると海斗はまた拳に込める力を増し、一歩踏み出したがそこで踏み留まって

「貴様……寝取ったのか?」

 純度百パーセントの憎悪で作り上げられ放たれたその声は明らかに震えており、普段の強気な彼からは出るとは思えない弱気な声になっていた。

「いいや、寝取ってはいない。彼女の命令に従っただけだ」

「『命令』だぁ?」

 ぴくり、とそう僕に問う彼の身体が小さく震える。

「嘘吐いてるんじゃねぇぞ……?」

 そして僕たちを睨みながら拳を握り震わせる彼に僕の後ろに隠れるように立っていた蒼空が

「サク君に『抱きしめて』って指示したのは私。これだけで何が言いたいかわかるよね?」

 そう彼に向かって言う。すると彼はまたぴくりと体を震わせてから

「お前マジで殺してやる! よりによって浮気なんかしやがって!」

 『ずんずん』という効果音が似合いそうなほどの力強さで蒼空の目の前にまで接近すると、彼女の胸ぐらを掴んだ。彼女が小さく悲鳴を上げる。

「何してんだよ!」

 そう叫んで咄嗟に彼の足元を思い切り掬い上げるように蹴った。こちら側を全く警戒していなかったのか彼は見事に足元を掬われその場で大きく転倒する。彼の手から解放された蒼空は目に恐怖の涙を溜めながらその場にへたり込むように座っている。

「蒼空!大丈夫か!?」

「うん……なんとか……」

 

 立ち上がろうとする彼女を補助しようと手を伸ばしたとき、後頭部に重い衝撃が走った。

「ぐっ……あ゙っ」

 休日と言うのに周りにほとんど誰もいない広場に頭蓋骨が軋む音と僕の声とも取れない音が響いた。

「うおぉ……痛いっ……」

 頭を押さえながら悶絶する僕に海斗はさらに追い打ちをかける。

「おら、何してくれるんだよ! さっきのはこっち二人の話じゃねぇか! 部外者が関わってくるんじゃねえよ!」

 彼の爪先が僕の鳩尾に何度も何度も打ち込まれ、幾度もなく味わってきた吐き気が込み上げてくる。が、こんな場所でくたばってはいられないと必死に腹筋に力を込めて彼の攻撃に耐え続ける。



「……そろそろわかったか? この話には関わらないほうがいいって」

 数分間鳩尾、腰、背中、足と頭以外の全身を満遍なく蹴りつけた彼は、必死に痛みを堪える僕の顔を覗き込みながらまるで幼い子供に話しかけるかのようにゆっくり、ゆっくりと僕に話しかけ、痛みで言葉を出すのに苦労していたのを見てから

「……蒼空、よくもやらかしてくれたな。俺の女だってのに他の奴に……時に朔弥なんかに誑かされるなんてなぁ……『わからせて』やろうか?」

 棒立ちになっている彼女の前で海斗は片手で小さな丸を作りそこに人差し指を通す。

「わっ……わからせるって……君は犯罪もいとわないんだね」

 彼の行動に彼女は一瞬動揺の色を見せたがそれをすぐに抑え込み海斗を侮蔑するような眼差しを向けながらそう言う。

「あ゙ぁ? 何が犯罪なんだよ」

「君に無理矢理されたら交際関係であっても告発すればそれ相応のことができるんだよ?」

 声を荒らげながら威圧的な態度を取る彼とは裏腹に彼女は終始冷静を保ち彼と対峙していた。そしてその間に僕は痛みを堪えながら立ち上がり何かあった時のために彼の視界の外で待機する。



「なぁに、そう酷くはしないさ。だからよ……」

「触るな!」

 彼が彼女の肩に手を置いた瞬間、辺りに彼女の叫び声と乾いた音が響く。蒼空が海斗に平手打ちを見舞ったのだ。当の海斗は状況が呑み込めずに赤く火照った頬をさすりながら両目を大きく瞬きさせている。

「あっ……あんたが全部悪いんだからね!」

 そしてそう海斗に向けて指を向けながら言う彼女も思わず起こした行動だったのか動揺の色を隠せないでいる。そんな彼女を見てまずいと確信した時にはもう、僕の身体は動いていた。

「このクソアマがっ!」

 そう言って海斗は蒼空に向けて大きく振り上げた拳を振り下ろす。しかしその拳は蒼空には当たらない。

「ぐあぁ……痛ってぇ……」

 ずきずきと痛む手を庇いながら海斗と蒼空の間に挟まるように立ち、彼の攻撃を蒼空へ届かないようにする。

「貴様っ……なんで割り込んできやがるんだよ!」

「まあまあ、落ち着いて話そうよ、海斗くんや」

 拳を振り上げる彼は僕の言葉に冷静さを取り戻したのか、それとも演技なのかはわからないが拳を下ろす。




「……ここまでひと悶着あったけども、蒼空。海斗に言うことがあるんだよね」

 全員が落ち着きの色を取り戻したことを確認した僕はそう彼女に促す。

「うん」

 そう言った彼女は少し離れた位置で海斗と対峙して口を開く。

「本当に最悪。幻滅した。私言ったよね? 付き合う前に条件として言ったこと。言覚えてる? 私が君に出した条件。言えないよね、もういいよ、言い訳も何も。朝の時点で見切りはつけてたから。「もうだめだ」って」

「どういうことだ」

「理解力が無いのかな? 簡単な話だよ」

 到底人を見ているとは思えないような視線を海斗に向けながらそう彼女の本心を伝える。そして彼女は締めくくるように

「別れよう」

 そう言った。

「別れる……?」

 海斗はあからさまに困惑の表情を浮かべている。

「私たちの関係はここで終わり。いいね?」

「そっ……そんなの言い訳がないだろ!?」

「君が否定しようとも私の心は決まってる。これは『私刑』。後で公正な法の裁きも受けてもらうことになると思うから。朔弥のいじめの件でね。残念ながらこっちは起訴するには十分な証拠がそろってるんだ。君の送ってくれた映像と通話っていう言質がね。残念だったね、人間のゴミさん」

 彼女はそこまで言うとくるりとこちら側を向いて

「じゃあサク君、行こっか。この後どうするか一緒に話そ」

 笑顔でそう言い僕の手を取ってぐいぐいと引っ張る。まるで海斗に見せつけるかのように。「わかった」と返した僕は力強く引っ張る彼女にされるがままに広場を後にした。


 広場から出ようとしたとき、遠くで海斗が「畜生! 畜生」と叫ぶ声が聞こえた。ここまで後悔するならこんな事しなければ良かったのに……と彼に憎悪の感情を抱いているにもかかわらずほんの少しだけ憐れに思った。

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