痛み
どうして君は
「
小さく呟きながら僕は恐る恐る後ろを振り向く。
――彼が、手を大きく振り上げていた。
刹那、僕の頬に重い衝撃が走り、それは瞬時に激痛に変わる。
「っ……」
口の中いっぱいに血の味が広がり、気持ちの悪い血の匂いに少しよろけたところにすかさず彼が僕の
「ぐっ……」
ついには住宅街の塀を背にして座り込んでしまった。
覇気を失った僕に、海斗…いや、糞野郎が物凄い剣幕で捲し立てる。
「てめぇ!なんで
言葉に出そうとしても、思うように口が動かない。そんな僕の状況を知ってか知らずか彼は激昂する。
「いいから言えって言ってるだろ! しゃべることすらできない無能なのか!? あぁ!?」
鳩尾にずしりと重い衝撃が走り、内臓と肋骨が悲鳴を上げる。
僕はそのまま前方向に蹲り、彼に頭を向ける形になってしまった。
「やめろ……やめてくれ……」
必死に肺から空気を絞り出し、かすれた声でそう言う。思うように呼吸ができなくなり、変にしゃくり上げるようになる。
「先に質問に答えろ! なんであいつといたんだ!?答えろ! 鬱陶しいんだよ! さっさと自殺でも何でもして消えちまえよ! いつもいろんな方法で死ぬ手助けをしてやってるのによォ!」
勢いよく右から左に頭を蹴り飛ばされ、横に転がると背中に蹴りを入れられる。背骨が軋み、口からは血が溢れ出してくる。
最早僕の肺は呼吸することを諦めかけ、体に入ってくる酸素の量が極端に減少する。
――もう、痛みすら感じなくなってきた。
酸素が欠乏し混濁する意識の中で、残されたわずかな力の一部を絞り出して
「どうして……どうして……君は、僕に……こういうことをするんだ……?」
ぴたりと、彼の暴力的な動きをする手足が止められる。
「あぁ? どうしてって? あれだよ。キモいんだよ。男のくせに女みたいな名前して、女みたいな顔して、男のくせに女みたいになよなよしやがって……それに、俺が一番許せなねぇのはなぁ、蒼空が……あいつがお前みたいな奴の傍に居るからだよ!どうしてお前みたいな奴なんかと仲良くするんだ……こんな……こんな……カマ野郎と一緒にいるんだよ……」
彼の口調の荒さはそのままだったが、一言一言を放つうちに彼の持つ覇気はだんだんと失われて行き、小刻みに震え、口を噤んで、目尻にほんの少し涙をためている。
「結局、そういう奴だったんだ」と訳も分からず心の中で嘲笑しながら僕は必死に乱れた呼吸を整える。カラカラになった喉が呼吸を阻害する。体を精一杯力を振り絞って起こし、塀にもたれかかる。塀には少しばかり、僕の血痕が付いていた。
「……畜生……畜生!」
頑張って起こした体を彼はまた思い切り蹴り飛ばし、走り去っていった。
道に横に倒れたまま、体がピクリとも動かない。こんなところ、誰かに見られたらただ事じゃ済まない。少し体の感覚が戻ってきたことを確かめて、塀伝いに立ち上がり、よろよろと覚束ない足取りで玄関へと向かい、ポケットにしまっていた鍵を取り出し、二回捻る。
ドアを開け、靴を脱いで、階段を時折扱けそうになりながら登る。
そして残された力を振り絞って自室へと転がり込む。
ぱたりとドアを閉めて部屋の鍵を閉めた途端に全身から力がすっと抜け、その場にへたり込む。
「なんだよ……結局、心配していたままだったな……」
頬に冷たいものが流れる。そしてドアを背にしたまま僕の意識は闇に葬られた。
「……っ!?」
唐突に襲い掛かる痛みに目を覚ました僕は、必死に痛みをこらえながら先ほどの僕に一体何があったのかを思い出す。
僕は蒼空と一緒にいて、二人別れた後にあいつと出くわして、殴られて、蹴られて…それ以降の記憶が思い出せない。たぶん死に物狂いで家に逃げ込んで、どうにか部屋に入ることができたのだろう。
とりあえず、応急処置だけは済ませておかないと傷口に何かしらの細菌が入ってもっとひどいことになってしまう。そう考えた僕はついでに風呂も済ませてしまおうと、痛みの残る足を引きずりがながらタンスからバスタオルを取り出し、そのまま壁伝いに風呂場へと向かう。
「結構、擦ってるなぁ……服が無事だっただけ、まだましな方か……」
着ていた服を脱ぐと、そこには大量の擦り傷があった。少し色白な僕の肌に、大きく斜めに擦り、赤い血が少し滲んでいる。
かなりひどく擦っており、かなり血が出ているところもあった。
「う~ん……傷は浅いから少し石鹸で刺激を与えてやれば痛みは消えそうだな…」
傷を眺めながら、そう呟いた。傷を見ても、大量の血を見ても、何も感じない。
――僕の感覚は、すでに麻痺し切っていた。
風呂へと続くドアの取っ手を下に下げ、中へと入る。
「少し痛いが、殴られるよりかははるかにマシだっ!」
そう喝を入れてから、勢いよくシャワーの握りを捻る。
しゃああああっとヘッドから水が放たれ、それは僕の身体中にある傷を的確に刺していく。
「痛ってえ! 痛い痛い痛いっ!」
シャワーを浴びながら一人悶絶する。次第に傷が痛みに慣れてくると、そのまま傷口の消毒と汗を流すのを兼ねて、ボディソープを泡立て、いつもより少し丁寧に体を洗った。
ひとしきり奇麗になったところで、シャンプーを取り出し頭を洗う。あの時あったことは本当に忘れたい。頭を洗うという一連の動きの中に記憶処理能力でもあればと考えてしまう。
一通りのことを終えると僕は早々に風呂から出て、軽く体を拭いてから洗面台の下の収納スペースに置いてある救急箱から大小の絆創膏を取り出し、かなりひどい傷と首や腕の少し目立つ傷にぺたぺたと貼る。そして少し大きめサイズの部屋着を着て、自室へと戻る。体の痛みは幾分か収まっていた。
がちゃりと自室のドアを開け、中へと入り、ドアを閉めて鍵を閉める。いつの間にやらあいつらからいじめられる前までにはなかった、鍵を閉めることまでがルーティンになってしまっている。
壁に吊り下げられた時計は八時半を指し、秒針だけが一人、チクタクと小さく鳴き声をあげながらぐるぐると回り続ける。
「もう、疲れた……」
ベッドに身を投げ出し、目を瞑る。そして僕の意識はだんだんと闇の中へと落ちていった。
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