肯と鳴く猫、否と鳴く猫
綾乃雪乃
否と鳴く猫とわたし
陽の光を反射して輝く本を美しく感じるようになったのはいつからだろうか。
わたしは今日も書斎に籠り、輝く埃に飾られるそれらを見つめている。
思えば本は不思議なものだ。
読む道具として生まれたはずのそれらは、人々に大切にされて汚れたり、黄ばんだり、丁寧な装飾を施してほとんど読まれないことを良しとするときもある。
そして、それらの中身に至ってはさらに複雑怪奇だ。
架空の冒険譚やとある偉人の人生、優しい鬼の話や目も当てられない喜劇。
背表紙を見るだけで何度も読み直した物語が頭の中に響いて消える。
もう読む必要などないくらい鮮明に。
ずっとずっとまどろんでいたい穏やかな日々。
そう感じるときは大抵、ほんとうに大抵、平気な顔をして引き裂いてくる存在がある。
まさに今、耳に飛んできた金切り声のように。
「ああ!?クッキー!誰が食べたのよ!!」
「まーお」
ドタバタと響くのは木の床を叩く音。
間の抜けた猫の鳴き声が聞こえたと思えば、ばたりと音がして扉が開いた。
「うわ、この前片付けたばっかりなのに!」
「ああ、すまない。そういえばそうだったな」
「もうほこりが被ってるわ!」
はっとしてお気に入りの書斎を見渡せば、本が床に散らばっていた。
それは調べものをするために本棚から引き剥がすように取り出しては放置したのが原因であり、
間違いなくわたしがやったことなのだが、彼女はまるで自分のせいのように大きなため息をついている。
まったくもう、と両手を腰に当てるのは姪の
わたしのいる1人掛けソファの方を向いて睨んだ後に、はあともう一度ため息をついて頭を振った。
彼女は兄のひとり娘。
わたしの家からほど近い一軒家に住んでおり、時折出不精なわたしの様子を見に来る。
共働きの両親にとってわたしは丁度良い『保育園』だったようで、小さい頃からわたしの書斎に送られては読書や宿題をさせられていた。
……いや、『塾』と言った方が都合が良かったかもしれないな。
タダで、おやつが付き、わからないところは教えてくれる便利な『場所』。そこがわたしの家だった。
「マオ、まさかあなた……。
もう!あんたって子は!いつもぐうたら日向を探しては昼寝するだけのくせに!」
書斎の中央にあるソファには、彼女と1匹の猫。
名前はマオ。白と黒の不規則な斑点がある雌の老猫。ちょっと太い。
兄の家で飼っているが琴葉と一緒に預かるようになり、すっかり第2の住居として我が物顔で占拠する同居人である。
彼女はマオの胴を掴んで膝の上に乗せようとするが、マオは嫌だとばかりに必死に後ろ脚をソファから離さない。
ずいぶんと伸び切ったその身体と戦って数秒。
琴葉のすっかり強くなった力が競り勝ち、膝の上に乗せられた。
「私が作ったクッキー、食べたでしょ?」
「なーお」
いつもの間延びした声が静かな書斎に響く。
輝いていた埃はすっかり姿を消していた。
わたしは本棚の前にある大きな椅子に腰かけたまま、彼女たちを見つめている。
「なによその不細工な顔。ご立派な鼻をホームラン級のフルスイングで叩き潰されたみたいな顔したってねえ、私はあなたが犯人だって、わかってるんだから!」
琴葉は悪態をつきながらマオの顔をむにむにと撫でる。
声も出さずやりたい放題にさせているこの猫は、基本的におだやかで何をされても怒らない。
なにせ小さい琴葉にしっぽを掴まれたり背中を叩かれたりしても、怒ることなくされるがままだった。
「そのお口を見せてみなさいよ!どうせクッキーのかすだらけですぐにわかっちゃうんだから。
ふん、証拠を自分の身体に残すなんて犯人として失格ね。
どうせだからとっても大切なことを特別に、特別に!教えてあげるわ。
『犯行は指紋残さず身体に残さず』、ミステリーオタクのお父さんからの教えよ!覚えておきなさい。
ってことで、こら、みせなさい………あれ?」
猫によくわからないアドバイスをしながら動かしていた手を止める琴葉。
一瞬だけ日々の落ち着く情景が戻ると、彼女の声がかき消した。
「かす、ないわね……。ふーん。あなたじゃないのかしら」
「まーお」
「……待って、でもおかしいわ」
開放されたマオはすぐに琴葉の膝から飛び降りると、向かいのソファへ移動して欠伸をする。
そんなことにも気づかない様子で片手で顎に触れると、彼女はぶつぶつと呟き始めた。
「生地から型をとって焼き始めたのは朝から……焼けるまでマオと一緒にいたけどそれからは別行動……」
「なーお」
「クッキーを冷ますためにキッチンに放置したのが2時間前……丁度その間はマオのごはん……そうだわ!」
がたりと立ち上がる琴葉の茶色のおさげが揺れる。
黒い毛で覆われた両腕を前に伸びをしていたマオは、しっぽをふらりを動かした。
「お水よ!あなたいつもよりやたら水を飲んでたわ、それでうまいこと隠したってわけね!!
ちゃんと『身体に残さず』やってるじゃない、悪くないわ。
水でも飲んだのかしら、犯人の猫……いや、犯猫め!」
「まーお」
そうに違いないと疑うこともなく指をさして自信たっぷりな彼女を前にして、この猫はやっぱり気にせず丸くなるだけだった。
「さて、まだ余ってたし持ってこようかしら……」
さきほどよりもずっと落ち着いた足音が遠ざかっていく。
今さらだがわたしの家で勝手にお菓子を作ってたのか。
別に構わないが……片付けさえして帰ってくれれば問題ないだろう。
わたしはその場でゆっくりと、彼女の帰還を待つことにした。
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