空に墜ちる日を

香月読

空に墜ちる日を

 ぺた。

 また一段、上る。

 ぺた。

 もう一段、上る。

 足は勝手に次の一歩を進んでいる。嫌だと思っても停まってはくれない。

 冷たい階段を裸足で踏みながら、僕は足の裏が汚れてしまうとか、今伝わって来たのは埃の感触だろうかとどうでもいいことを考える。

 頭は冷静ぶってそんなことに思考を割くのに、それでも足は停まらない。薄暗い廊下に人気はなく、裸足で徘徊する僕を見咎める人間はいなかった。

 ぺた。

 ああ、もうすぐ。屋上の扉に辿り着く。


 きぃ、と音を軋ませて扉は開いた。建て付けが悪く鍵が壊れていることを、昼間どこかで聞いた。通常ノブを回して押せば開くはずが確かに扉は開かない。代わりに少し右側に力を入れて、持ち上げるようにして押してみれば、話の通り扉は開いてしまった。

 扉に鍵がかかっていれば何とかなっただろうに、こうなってはもう無理だ。僕はこの後にやってくる恐怖に耐えなければならない。

 屋上に出れば、まだ冷たい夜風が頬を撫ぜた。覚束ないまま歩けば、足の裏に微かな痛みが走る。確認することができないから実際どうかはわからないが、恐らく風に飛ばされ屋上の床に漂着したゴミの類だろう。痛みを感じても僕の身体に自由は帰って来ない。

 十数メートル先に背丈と同じくらいのフェンスが見える。よじ登ることだってそう簡単に出来はしないはずだ。

 相変わらず足も身体も言うことを聞かない。少しずつ、ゆっくりとフェンスが近づいて来る。傍まで辿り着いたら、『僕』はそれを見上げた。有刺鉄線などは付けられていないようで、登れさえすれば向こう側に行くことに支障はない。


 ほら、もう少しだよ。


 耳元に誰かの吐息が当たる。僕をここに誘った声だ。男か女かもわからない、中性的なその声は、とても楽しそうに続ける。


 フェンスを超えて、空を泳ごう。気持ちが良いんだ。


 空を泳ぐなんて、そんなことできるわけじゃない。そう思っているのに、囁かれているうちに「楽しそう」「気持ち良さそう」と考える自分がいる。

 抵抗したくても手は動かない。足は停まらない。身体の自由がない今、現状打破する方法が思い付かない。

 がしゃん、とフェンスが揺れる。両手でしっかりと金網を掴んで足を掛けた。靴を履いていないからか抵抗するものがなく、網目に爪先を入れて登ることができる。細く固い網が指に食い込もうが、身体は停まることなく動いている。フェンスが揺れる音は、吹く風の音に飲み込まれた。


 向こう側へ下り立つと、屋上の縁がある先に暗い闇が見えた。軽く三歩ほど踏み出せば真っ逆さまだ。この病院は六階建てだった。このまま落ちれば無事じゃ済まないくらい、今の頭でだってよくわかる。

 嫌だ。嫌だ、嫌だ、嫌だ。

 一歩。足に力が入らない。停まってくれない。

 二歩。足元にある闇が見えた。地上が見えないそこは、地獄の釜にすら見えた。

 三歩、目は。何も踏むことない足が空振り、バランスを崩した僕の身体は前に倒れ込んだ。


 ―――墜ちる。何も見えない闇へ、墜ちる。


 叫び声を上げる自由すら戻らなかった。僕の身体は風を切るような速さもなく、ふわりと浮かぶように……墜ちる。

 ああ、少しだけ。

重力が消えたようなその感覚は、泳ぐことに似ていたかもしれない。





 ピッ、ピッ、と何かの音が聞こえた。

 電源が入ったようにぱっ、と目を開ける。するとそこには白い天井があり、寝ていたベッドの周りには薄いクリーム色のカーテンがあった。

 右側頭部を押さえて身体を起こす。何か、とても嫌な夢を見ていた気がする。内容ははっきり覚えていないのだけど、嫌だ、と子供のように喚いていたような。


「お目覚めですかー?」


 カーテンの隙間から看護師さんが顔を覗かせた。昨日と同じその笑顔に安心する。

 肺炎を悪化させて病院に運ばれ、入院すること数日。処置のお陰で大分元気になった。医者からも、検査をしてみて問題がなければ退院できると聞いている。

 看護師さんに言われるがまま体温を測る。熱も引いたしそろそろ退院できるだろう……。


「それで、――」

「え?」


 不意に、耳に入る音にざざ、とノイズが走った。テレビをつけたままかと振り返っても、電源は落ちていた。聞こえたのは一瞬だけで、それ以上何も聞こえない。

 首を傾げたものの、病室の入口から「お食事お運びしますねー」という声に意識は遮られる。運ばれて来た朝食を見ると、不思議に思ったことなんてどこかに飛んで行ってしまった。

 退院したらまたいつも通りの日々だ。変なことを気にしている暇なんてない。





 退院手続きを終え、家に帰る頃にはもう空は真っ暗だった。自宅は少し古いマンションの五階だ。築数十年のせいか人気はそこまでないようで、同じフロアに暮らしているのは出張が多いらしいサラリーマンくらいだった。物音がまったく聞こえないので、今日も仕事で忙しいのかもしれない。


「ただいまー」


 玄関を開けて声を掛けたところで返事はない。一人暮らしに答えてくれる相手なんていないからだ。靴を適当に脱ぎ捨てて部屋に上がった。しばらく空けていたせいか、何となく埃臭い。

 そのせいかどうかはわからないが、室内の空気が淀んでいるように感じた。ここにいるだけで身体に余分な重力が圧し掛かる。

 退院して来たところだと言うのに妙に疲れているらしい。重い身体を引きずるように動かして、荷物をリビングに放り出した。力の入らない足でふらふらとベッドに向かう。


 ざざっ、……


 不意にノイズが聞こえた。同時に後頭部がずきずきと痛み始めた。

 頭の中を誰かに掴まれたような、表現できない不快感に襲われる。両手で頭を抱えたものの、それは拭えない。床に付けていた足からふ、と力が抜けて、ベッドに倒れ込む。

 砂嵐でも走ったように、視界が歪む。何が起きているのかわからないまま、意識が落ちていく。


 ねえ、泳ぎに行こうよ。


 耳元で、誰かの声がした。





 気が付けば、目の前に暗い闇があった。冷たい夜風が頬と髪を撫でていく。

 屋上に、いた。高いフェンスを越えた先の、縁の上に裸足で立っている。すぐ足元はもう何もない。半歩前に出れば空を舞うことができるだろう。

 どうして。どうしてこんなところにいるんだ。

 だって、僕が立っているのは病院の屋上だった。確かに家に帰ったのに、退院したのに、どうして僕はここにいるんだ。

 混乱する頭に答えは導き出せない。疑問を口にしようにも声が出ない。ただかたかたと歯を鳴らす音と、遠くから微かにピッ、ピッ、と電子音のようなものが聞こえた。


 空を泳ごう。気持ちが良いんだ。


 あの声だ。

 また、また耳元で囁かれた。

 本当に楽しそうな声なのに、氷のように冷たい気がした。母親が子供に言い聞かせるみたいに柔らかい声は、得体の知れない恐怖を連れて来る。


 泳ごう。泳ごう。行こう。行こう。行こう。


 嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!


 暴れようとしても、踵を返そうとしても、身体は言うことを聞かなかった。僕の意志に反して前に進もうと、空を泳ぎに行こうとしている。

 助けて、誰か助けて。

 声を上げようとして、僕は。足場のない空へ飛んだ。


 息苦しさと、ピッ、という高い音が遠くから聞こえた。





「まだ目覚めませんね」

「身体の怪我は殆ど治っているんだけどね。やはり頭を打ったのが良くなかったか」


 ある病院の隅、ある病室にて。看護師と医者は、そこで眠る青年の容体を確認していた。

 ピッ、ピッ、ピッ。心電図モニターは確かに彼が生きていることを示している。安定しているはずなのだが、目を開けることはない。

 看護師はぽつりと言葉を漏らした。


「肺炎の方も治りかけだったのに、どうして屋上に行ったんでしょう」

「さてね。私達にはわからないことだ」


 溜息を吐いて、医者は病室を後にする。

 残った看護師は青年の体勢を変えながら、彼が屋上から飛び降りる数時間前まで浮かべていた笑顔を思い出していた。



 彼はずっと、夢を見ている。

 何度も屋上に上って、空に墜ちる日を繰り返しているのだ。

 誰も知らない夢の中で、後ろにいる誰かの声に囚われたまま。

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