狡猾
女心と秋の空という言葉をご存じだろうか。
女の男に対する愛情は秋の空模様のように変わりやすいという意味だ。
ここにほぅとため息をつき、空を仰ぐ男が一人。
鱗雲で覆いつくされた真っ白な天井から視線を落とし、また大きなため息をつく。
どうやら相当参っているようである。
彼の名前は川崎敏人。
特にこれといって特筆すべきこともない普通の会社員である。
26歳、一応二年付き合っている彼女がいる。
現在の彼の悩みの種とはまさにその彼女との関係なのである。
彼は最近の彼女の様子がおかしいことに気づいていた。
なんというかいつもより距離を取るようになった。
一緒にいる時間ももはや恋人なのかと疑うほどには減ってきていた。
いずれしっかり話し合う必要があると彼はそう思い始めていた。
「そんな大きなため息をつくと幸せまで一緒に逃げちゃうよ。」
ふと鈴を転がしたような声が耳朶をくすぐる。
思わず声のした方に視線を向ける。
「山瀬さん!?」
「やあ。久しぶりだね、敏ちゃん。」
おどけるようにひらひらと片手をふる女性は山瀬美雪。
彼の隣に住んでいた3つ年上のお姉さんだ。
陽気で活発な性格でその性格を更にイメージしやすくする肩までで切りそろえられた艶のあるキャメル色のショートカット。
学生時代は陸上に精を出していたため、それから得た線の細い、引き締まった体は女子垂涎のものだろう。
慎ましい双丘も彼女のスレンダーさを見事に表現していた。
「どうしたの?そんな変な顔して。」
「へ、変な顔。」
「そう。変な顔。」
爽やかに笑みを浮かべる山瀬。
見ほれるような笑顔に思わず顔をそむけたくなるのを何とか抑えて彼は口を開く。
天は二物を与えずとはどこに行ったのか。
真ん丸の人懐っこい瞳に高い鼻。
蠱惑的で艶やかな紅い唇。
全体的に暖かく、柔らかな雰囲気をまとっているがその内には鋭く冷たい謎がある。
そんなどことなく掴みどころのない女性だ。
「それよりも!久しぶりですね。」
「そうだね。何年振り?4.5年くらい?」
「そうですね。俺が大学一年の時に山瀬さんが四年なんでそのくらいになりますね。」
見惚れるような笑顔を向けられ、思わず顔を背けてしまう。
別に彼と山瀬は昔深い仲だったというわけではないが年が離れている割には仲が良かったというだけだ。
久しぶりに会った山瀬は非常に魅力的だった。
彼が大学1年の時山瀬と同じ大学に通ってはいたが話すことなど全くなかった。
大学内で山瀬は相当人気があった。
陽気な性格、相手への気遣い、そしてその美貌。
何人もの男性からアプローチを掛けられるのは至極当然だろう。
しかし数年後に会った今の山瀬はあの時よりも更に大人びていて以前の雰囲気は少しなりを潜め、大人の落ち着きと色香が合わさっていた。
「ねね!せっかく会ったんだからさ、一緒に飲みに行かない?」
「え?えっと——」
「なんか悩み事があれば聞くよ。お姉さんに言えばすっきりするかもよ。ね?」
「・・そうですね。じゃあご一緒させてもらいます。」
「うん!そう来なくちゃ!じゃあほら。行こ?」
「は、はい。」
山瀬は彼の手を引いて歩き出す。
秋の夕暮れが生暖かいアスファルトに長い影を落としていた。
「大体あいつの方も俺のことを気に掛けなさすぎなんだよ~。俺何かやらかしたんですかねぇ~~。」
「いいぞー!もっと吐き出せ~!!」
結局彼らは近くの居酒屋に入ると日々ため込んでいたものをここぞとばかりに吐き出した。
「いや、事情は話したでしょ、教えてくださいよ~。」
「そんなこと言ってもな~。」
いくら顔なじみといっても今日出会った異性にここまで砕けた物言いができる程彼は世慣れしていない。
これも山瀬という女性の凄い所だ。
彼女と話していると多くの人間はなんとなく心を開いてしまう。
言葉では形容できない天性の穏やかさと優しさを持っている。
彼もそれに当てられてすっかり気を許しているのだった。
「頼みますよ~。このままじゃ俺達別れるかもしれないじゃないですか~。」
もう何杯目とも知れないジョッキを空にしながら彼は投げやり気味に話しかける。
「ていうかさ、別れてもよくない?」
「え~、なんすか?」
「だからさ、発想の逆転だよ。別に別れてもいいじゃん。」
「でも——」
「でも何?散々彼女の愚痴言ってたじゃん。何か困ることでもあるの?」
そりゃあと言いかけてふと固まる。
これといって理由が出てこなかったのだ。
確かに今の恐らく俺への愛がなくなった彼女とこれ以上一緒にいることは果たしていいものなのだろうか。
山瀬は彼のことを心配してくれているのかもしれない。
(だめだ・・・。)
酔った頭ではそれ以上考えることができずに腕を組んで頭を伏せる。
「そっか・・・それじゃあ仕方ないね。これは伝えたくなかったんだけどな。」
「?」
どういうことだろうか?
首をかしげる彼に山瀬は下げていたバッグからあるものを取り出す。
「それは?」
「あんまり見せたくないんだけどね。こればっかりはしょうがないか。」
彼は山瀬からそれを受け取り、目を落とす。
「え?」
「落ち着いてね。私だって信じられなかった。」
彼は信じられないといった顔で立ち上がってしまっていた。
そこに写っていたのは彼の彼女だった。
それだけならいいのだが場所が問題だった。
場所はここから少し離れた歓楽街。
彼の彼女は彼以外の男と腕を組んで、今まさにホテルに入るところだった。
今までの酔いが一気に引いていく。
一瞬眩暈がし、ふらつく。
「大丈夫!?」
「え、えぇ。」
気持ちを落ち着かせるために大きく息を吸い込み深呼吸する彼。
「こ、これをどこで?」
席について尋ねる。
「仕事仲間からさ、彼氏が浮気してるかもしれないって相談受けてさ。」
ビールなど当然飲めるはずもなく更に続ける。
「ほら、探偵ってさ、割とお金かかるじゃない?その子私の大切な友人でさ、ほっとけなかったから私がその代わりを引き受けたの。」
「つまり、山瀬さんが探偵役を?」
「そういうこと。まさか相手が君の彼女だとは思わなかったけどね。」
「そ、そうですね。」
そういえば彼は先ほど山瀬に相談する最中に彼女のことを伝えていたことを思いだした。
「でさ、改めてなんだけど私はやっぱり彼女とは別れた方が良いと思うの。こんな尻軽な子と一緒にいたらだめだよ。じゃないと君が駄目になっちゃう。だからお願い。ね?」
「・・・なんでそんなに俺のことを。」
彼の発言にぽかんとした表情を見せる山瀬。
その後おどけるように笑う。
「君は本当に駄目だねぇ。いくら年を重ねたって君は私の友人なんだよ?昔のよしみってやつだよ。友人が不幸になっていく様を止めたいって思うのが人情なんじゃない?」
「ありがとう・・ございます。」
「はぁ、これはそうとう参ってるね。ほら!これ。」
山瀬はカバンから紙を取り出すと持っていたペンで何やら書き、それを彼に手渡した。
「これは?」
「私の連絡先と住所。」
「え?」
「君をこんなにしたのは写真を見せた私の責任でもあるからね。謝罪の意味もかねてってことで受け取ってよ。」
「いけません。個人情報なんて、誰かに知られたらどうs——」
「信じてるから。」
「え?」
「言ったでしょ。少なくとも私は君のことを友人だと思ってる。だから君にこれを渡したんだよ。それとも何かい?君は私のそれをばら撒こうっていうのかい?」
「いいえ!そんなことは絶対にしません!」
「ならよし!それじゃあもう遅いし今日はここらでお開きにしようか。」
「そうですね。」
代金は半ば強引に彼女が出し、彼はそのまま自宅へと戻った。
彼の頭には帰り際に山瀬に言われた言葉がいつまでも残り続けていた。
『いつでも連絡をしてほしい。私は君の見方だから。』
その夜、高級住宅街のある一画で一人の女性が電話を掛けているところだった。
ワンコールが終わることなくつながる。
「もしもし。聞こえてるかい?」
「あぁ、聞こえてる。」
聞こえてきたのは低く、野太い男の声。
「よくやってくれたね。感謝してるよ。」
「あぁ、それよりもあのデータは消してくれるんだろうな。」
「まだ駄目だ。」
「はあ!話が違うだろうが!あの女を堕とせばデータは消してくれるって——」
怒りに震える声を耳に山瀬はあくまで冷静に口を開く。
「勘違いしちゃいけないよ、君。私は彼を私のものにできるまでといったんだ。確かに私は彼に連絡先を渡した。しかし、まだ交際も結婚も出来ていないんだ。条件を満たせていない以上まだ消せない。・・それと言葉には気を付けた方が良い。私はいつでもあれをばらまくことができるんだよ?」
たじろぐかのように男からくぐもったうめき声が聞こえる。
「また脅すのか。」
その言葉に山瀬は口元を隠し、実に愉快気に笑う。
その瞳には煌々と煌めく見事な夜景が映り込んでいた。
「とんでもない。私は君と‘いい関係‘でいたいと思ってるんだ。」
グラスの中の氷がカランと小気味良い音を鳴らす。
「もう少し、君はあの売女と関係を続けてくれればいい。もう彼の下に戻りたくないって思うまでね。そうしてくれれば約束は守るよ。」
「・・・本当だな。」
「あぁ。約束するよ。」
「それにしてもあんたもひどい女だな。」
「そうかい?」
「あんな普通の男一人にここまでするとはな。あんたならもっといい男がいくらでも手に入るだろうに。」
吐き捨てるように男が言う。
「!!」
一瞬驚いた表情を見せるがすぐにそれは内側へと隠れていく。
そして、そういう挑発文句を聞き流しながら山瀬はにっこりと笑う。
「今日の私は機嫌がいい。本来なら君の人生を終わらせているところだが、誉め言葉として受け取っておくよ。それじゃあ、少し急ぎの用ができてしまった。それじゃあ、引き続き頑張ってね。」
そう言って電話を切った後、彼女はスマホを取り出し通話ボタンを押す。
山瀬は頬を薄く朱に染めながら、非常に嬉し気に話し出す。
その表情は恋する乙女そのものだった。
「やぁ、君かい。連絡待っていたよ。敏ちゃん。」
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