愉楽

高麗楼*鶏林書笈

第1話

 今日も主人は自室に籠ったままだ。

 夫人は気が気でなかった。

 本来、生真面目な人で都・漢陽にいた頃は仕事している時以外は読書や詩文を作ったりして過ごし、遊興に耽ることなど想像も出来なかった。

 それが、大守としてこの地に来てからというもの、女色に浸り仕事を全くしなくなってしまった。

「全てあの女のせいだ」

 この地に赴任した夜、官衙の人々は歓迎の宴会を開いてくれた。その席にあの女がいたのである。ここの新入りの官妓で宴席に出るのも初めてだそうだ。その割には妙に手慣れた感じで大守は一目で心を奪われてしまった。

 それからというもの大守は夜になるとその妓女を呼び酒宴をするようになった。やがて妓女はそのまま夜を共に過ごすようになった。まさに“此れ従より君王早朝せず”の状況になってしまったのである。

 夫人は困惑した。彼女が夫に従いて赴任したのは、夫が官妓の世話になるのを嫌ったためだった。普通は単身赴任で官妓の世話になる。世話の中には床を共にすることも含まれていた。生真面目な夫には耐えられないことだった。

 なのに、着任早々、このようになってしまうとは‥。

ーこのままでは夫ためにもこの地域のためにもよくない。

 遂に夫人は大守の留守を見計らって妓女を呼び出した。そして、夫から離れるよう説得した。妓女は応じず、逆に夫人を罵り始めた。

「‥大守さまは言ってたわ、夫人のようなつまらない女とよくこれまで一緒に暮らしていたって」

 一通り罵詈雑言を並べ終えた妓女は立ち上がると部屋を出ようとした。

「お待ちなさい!」

 夫人が妓女の下裳を掴むと彼女は転がり、そのはずみで傍にあった金火鉢に頭をぶつけてしまった。そのまま動かない妓女に驚いた夫人は揺すったり声を掛けたりしたが何の反応もなかった。

「まさか‥」

 夫人が青ざめた時、侍女が部屋に来た。

 この光景を見た侍女は一瞬驚いたもののすぐに官衙の人々数人を呼んで来て処理を頼んだ。侍女を始として官衙の人々はこの妓女を快く思っていなかった。

 妓女は官衙の人々によって何処かに運ばれていった。

 暫くして大守が帰って来た。さっそく妓女を呼ぼうとしたが姿が見えない。

「どこにも行ったのだ」

 夫人に訊ねると

「実は出て行ってもらいました」

と答え、これからは以前のように堅実に暮らすよう諭した。すると

「何ということを、お前こそ出て行け」

と夫人は離縁されてしまった。

 後ろめたさもあり夫人はその場で都の実家に戻って行った。

 その後まもなく夫人の家に大守の侍女が訪ねて来た。

「ご主人様が亡くなりました」

 夫人は驚いて死因を訊ねると侍女の口からとんでもないことが話された。

 あの後、大守が自室に入ると妓女の名前を呼び、いつものように戯れていた。侍女が不審に思いそっと覗くと骸骨が大守に抱きついていたのである。彼女は驚いて国衙の人々を呼んだ。彼らは部屋の戸を開けようとしたが開かなかった。

 それ以降、大守は部屋から出なくなり、そのうち気配も無くなった。その時、部屋の戸を開けてみると大守はやつれて息絶えていた。

「ご主人様はあの女に連れて行かれたのでしょうか」

 侍女は怯えた声で話を締め括った。


 その夜、夫人の枕元に夫と妓女が並んで現れた。二人とも幸福そうな顔をしていた。

「わしは、この女と会って人生の愉しみを知った。そして、こいつと一緒にいられるのなら全てを捨ててもいいと思った。だから、もはや、現世には未練はないよ」

 こう言い残して二人は姿を消した。

 夫人は腹が立ってきた。長い間、自分は夫に尽くして来た。なのにこんな扱いを受けるなんて。

 その後、夫人は一人寂しく人生を終えた。


 都から新しい大守が赴任して来た。

 歓迎の宴席に妖艶な妓女が現れ大守に酒を注ぐ。

「大守さま、人生は儚きもの、共に楽しみましょう」

 妓女は大守の耳元で囁いた。

 この官衙の古株の侍女は妓女の顔に見覚えがあった。かつて赴任した大守の奥方にそっくりなのだ。

「あの方は先日亡くなったと聞いている、他人の空似なのだろうか‥」

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愉楽 高麗楼*鶏林書笈 @keirin_syokyu

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