ヤシとカニ、時々ヨット

紅茶党のフゥミィ

旅立つ

 「旅」と聞いた時、あなたはワクワクするだろうか。それともドキドキするだろうか。そして、何がキッカケで、あなたは旅に出ようと思うだろうか。

 私が海の見える街を目指そうと思ったキッカケは匂いだった。買い物好きの姉から貰った異邦のお菓子、その包みに描かれたヤシの木と赤いカニ。そこから匂いを感じた。

 遠く海の匂い。

 海へ最後に行ったのはいつだったろうか。もう忘れた筈の海の匂い。それが脳内で揺蕩っている。匂いは思い出すのが難しい、と誰から聞いただろうか。だが、この時の私は間違いなく海の匂いを、潮の香りを嗅いでいた。

 海に行きたい、そう思いながら悶々と過ごす日常は、その感情を連れて足早に去っていく。

 ある日、肩を叩かれた。理由は簡単、私が役に立たなかったからだ。インドア派で内気な私に接客業なんてムリ。なのに店頭に配置して「自信を持ってもっと笑顔でハキハキと」なんて土台無理な話だったのだ。

 失業後の手続きを終えた私に待っていたのは時間だった。時間がこんなにあるものだと初めて知った。毎日が休日。朝から晩まで自由、というよりもずっと自由、文字通りのフリーダム。

 時間があると人はやりたかったことを不意に思い出す。

「そうだ、海に行こう」

 思い立ったが吉日。私は電車に乗って海沿いの街へ行くことにした。

 下り電車に乗って海を目指す。働いていた時は上り電車を使っていたから、これだけでも新鮮な気持ちになる。

 ブランチを食べたくなる時間帯、車内は空いていた。ガラガラと言ってもいい。一目散に席へ座る。乗客は他には居ない。適度な冷房が心地良い。

 電車の席に座れたのなんて何日振りだろうか。上り電車は常にギュウギュウ鮨詰め状態、触り触られ不愉快不快、降りようとして降りられなかったこと数回……電車にはイヤな思い出ばかりだ。なんで社会人は好き好んで乗るのだろうか。一本後じゃ駄目なのか。もう少しルーズさにも寛容な社会であってほしい。プロ意識は大切だと思うけど、給料の出ない出勤のスペシャリストにまでなる必要はないんじゃないか。重役出勤バンザイ!!

 ふと、窓の外に目をやる。大きな河が流れていく。河原で釣りに没頭しているおじさんは余暇を過ごしているのか、無職で時間を潰しているだけなのか判別付かない。今の私は後者だが、他の人からはどう見えているのだろう。昼間から遊び歩いている学生、それとも……何?

 河を過ぎるとしばらく住宅街が続いた。色とりどりの家々は皆同じ形だ。酔っ払いが隣家に突撃する光景が目に浮かんで苦笑する。おっといけない、一人で笑っている光景は他人からは異様に見えるらしい。特に私の場合は「くけけっ」と怪鳥の様に笑っているらしく、姉から何度注意されたことか。くけけっ。

 ドアが開いた。降りる駅は次の次だが、何故かここで降りたい衝動に駆られる。海を見に行くんじゃなかったのか、と自分を叱咤するも時既に遅し。ホームに降り立った私の後ろでドアが音を立てて閉まった。


 ――ああ、やってしまった。やってしまいました。どうしましょう……。


 冷や汗がピィィィっと背中を伝いました。

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