分岐店
あさぎ
分岐店
その夜、ベルがカランと音を立てて、少女の来店を告げた。
濃淡の違う黒い飛沫模様が施された漆黒のドレスが美しい。首には黄金の首飾りが掛けられている。
編み上げブーツで一歩店に入ると、ギシリと木組みの床が軋んだ。
「……店を間違えたのかい?」
喧騒の中、入口の壁で
少女はきまり悪そうに頷いた。
「道を間違えたみたい。迎えが来るまでここに居させて」
少女は酒瓶の並ぶカウンター席に腰掛けた。「いらっしゃいませ」と頭を下げた店長に、少女は林檎酒を注文した。
城下の裏通りにひっそりと建つこの店は、いかにも少女には似合わない。
「「こんばんは。あなた、どこから来たの?」」
年若い姉妹が興味津々で少女に声をかけた。胸元の大きく開いた、色違いのドレスを身に纏っている。
「川向こう? それともお城側?」
「お城側よ」
そう答えた途端、姉妹は手を取り合って目を輝かせた。
「「なんて羨ましい!」」
二人はうっとりと目を閉じる。
「お城にはさぞお金持ちの殿方が……」
「贅沢な生活ね、きっと……」
それから夢想に耽り始めた姉妹に、少女は返す言葉もない。
するとワイングラスを持った優男が、無遠慮に話に割って入った。
「結局金目当てじゃないか」
姉妹は口を尖らせる。
「「こんな美女がお相手するのよ。ただじゃ虫が良すぎるわ」」
「しゃぶり尽くして捨てるくせに」
「「春を買うのもお金次第だもの」」
「……男の人を騙して稼ぐということ?」
目を瞬かせる少女を男は片頬で笑った。
「そういう商売もあるのさお嬢さん」
だが、少女はへぇ、と姉妹に身体を向けた。
「詳しく聞かせて」
その言葉に、姉妹は
「この仕事の良いところは、男の人に可愛がってもらえるところ」
「悪いところは?」
姉妹は肩をすくめた。
「「ないわ」」
「ないの?」
「強いて言うなら純粋な恋愛ができなくなったことかしら。でもそんなことはどうでもいいのよ、どうでも」
じっと姉妹を見つめる。くびれた柳腰で、つくべきところに肉がついている。きっと簡単に男は引っ掛かるのだろう。
しかし装飾品は首元にしかなかった。それも安物。
少女は頷いた。
「教えてくれてありがとう」
今度は男に話しかける。
「あなたのお仕事は?」
男は片眉を上げた。それからふんわり微笑んで、少女の頭を撫でた。
白ワインを口に運ぶ、その所作が繊細で美しい。
ふと、少女は首元の違和感に気がついた。触れてみると、何も、ない。
すると男はズボンの脇に手を差し入れ、黄金の首飾りを取り出した。
「それは!」
「はいどうぞ」
そのやり取りを店主が
「店のルールをお忘れですか」
「わかってるよ。返しただろ」
少女は聞き逃さなかった。
「ルール?」
「この店のルールさ」
一つ、面倒を起こさないこと。
二つ、代金は一年以内に必ず払うこと。
三つ、店で商売はしないこと。
「これがこの店の三箇条だ」
少女は首を傾げた。
「店で商売はしないこと、って?」
「僕達が仕事をしたら収拾がつかなくなるからね」
優男はテーブルのひとつを指さした。
「一番端の体格の良い男。あいつは暴れ者でね。拳を振るわれたらひとたまりもない」
少女は息を飲んだ。
「その隣のヒョロっこいのは密輸業社の幹部。向かいの白髪は嫌がらせが大好きときている。あいつに泣かされた人間は星の数ほどいるだろうね」
「……」
「まぁ、この店にいる間は大人しいよ」
楽しげに酒を酌み交わす彼らは、普段どんな顔をして外を歩いているのか。
「これで分かったかい? ルールの三つ目は、店の秩序を守る為だってこと」
「面白いのね」
「何が?」
「だって、外では無法者のあなた達が、この店の中では規則に従っているなんて」
少女は底に残った僅かな林檎酒を飲み干した。
「きっとこのお店が特別なのね」
男はそれに答えず、後方のフロアを見渡した。そこにはテーブル席がいくつもあり、気の合う者同士のシマが出来ている。そしてその間を、例の姉妹があちらへこちらへと蝶のように行き交っていた。
「みんな同じ穴の
ややあって、どこからか楽器の調べが流れてきた。
見れば、先ほどの白髪がヴィオロンを鳴らしている。その横ではくだんの暴れ者が縦笛を吹き、密輸業者は手風琴を抱えていた。
「意外な組み合わせ」
「ああ、音楽であいつらは繋がっている」
程なくして人だかりが出来た。姉妹が、踊りましょうよと他の客の腕を引っ張っている。
宮廷音楽とは違う、一癖ある俗なメロディ。ここでは不協和音もあちこち跳ねるリズムも魅力になった。
「面白い」
「お嬢さんが知ってる音とは違うだろ」
「でも、味わいがある」
「そうだな。さて」
男は少女の肩に手を乗せた。
「僕も近くで聴くとしよう。楽しかったよ、お姫様」
しかし少女は彼を呼び止めた。
「一つ教えて。あの人は誰?」
優男は少女の視線を追うと答えた。
「人買いだよ」
この店に入って来た時に、壁に背を預けて佇んでいた男だった。
「踊って頂ける?」
少女は男に歩み寄り、宮廷風にお辞儀した。
「なぜ俺に?」
「最初に話しかけてくださったから」
男は鼻を鳴らした。
「あいつらと楽しんでたんじゃないのかい」
「ええ。今度はあなたと」
少女は手を差し延べた。
「俺は踊らないし踊れない」
「合わせて揺れてくださればいいわ」
男は少女の瞳を見返した。最後にこんな風に見つめられたのはいつのことだったろう。
「無理だって」
舌打ちするも、勝負はついていた。
少女のブーツが右に左にステップを踏む。
彼の革靴もまた滑らかにそれについていく。
天井から吊るされた赤や緑のグラスランプが影絵のように、踊る二人を壁に映した。
「みんなあなたを見てる」
「お嬢さんをだ。俺じゃない」
「普段は踊らないの?」
「そんな趣味はないからな」
それにしても、と男は思う。自分の記憶が正しければ、このステップは王族の──。
「もしかしてお嬢さん……」
ぎゅっと男の腕をつまみ、言いかけた核心を少女は遮った。
「──それ以上言ったら、困るのはあなたよ」
しかし男は怯まなかった。
少女の腰を引き寄せる。
「わっ」
ブーツが床から離れ、とっさに少女は男にしがみついた。
そうして少女を抱き上げると彼は優雅なターンを決める。
ドレスの裾がふわりと開き、豪奢なペチコートが翻る。
すとん、と地面に下ろされた時、少女は複雑な表情をした。
「なんだよ」
「あなた本当に、人買いなの?」
男は少女のほつれた髪をすくい上げ、その小さな耳にかけなおした。
「さあな。少なくとも俺はもう、あんたと同じ世界の住人じゃない」
冷たい指が耳たぶを掠め、少女に甘い痺れをもたらす。
それきり二人は、お互いの秘密を飲み込んだ。
踊り終えた少女を、店主の林檎酒が出迎える。
「お見事でしたね」
「恥ずかしいわ」
少女の鼻腔を林檎の香りが通り抜ける。その芳香を胸いっぱいに吸い込んで、少女は美味しい、と呟いた。
「お城の庭と同じ品種の林檎です」
少女は目を見開いた。
「最初のものとは違うと思ったら……。でも、なぜ?」
老人が衛兵式の敬礼をしてみせるのを、少女は苦笑の面持ちで見つめた。
「いつから気付いていたの?」
「最初から」
「……国王付きの近衛兵」
少女の指摘にも、店主の表情は変わらない。彼は袖から覗く白く滑らかな義手を、残った右手でそっと撫でた。
「私の話で最後といたしましょう」
国ざかいの村で、私は生まれました。
六つになったばかりのある日、隣国に攻められ村は戦場になりました。
畑は荒らされ、家には火が放たれ、兵士だけでなく村人までもが虐殺され、私の父も頭を撃ち抜かれ死にました。私は母妹と共に逃げましたが、遂には敵軍に追いつかれ──危機一髪で助けてくれた兵士は私の生涯の英雄です。
その後、私も兵士になりました。
新しい王の政治手腕は素晴らしかった。月日が平和に流れる中、やがて王は妃を娶り姫が生まれた。運良く謁見の機会があり、姫様のあどけない表情を見た時は、私はこの方をお守りするのかと武者振るいをしたものです。
そんな幸せに終止符を打ったのは、再発した隣国との戦でした。
はじめは快進撃を続けた我が王も、流行り病で後遺症を負ってから、すっかり変わってしまわれた。
気力を振り絞って戦う兵士も、無茶な作戦に疲弊して統率を失っていきました。王に反旗を翻す者も現れて、士気は下がる一方でした。何度目かの戦いで私の左腕も吹き飛んでしまった。かの私の憧れであった英雄も、謀反の罪で首を刎ねられました。防衛側であったはずの我が国は、いつのまにか侵略国となっていました。
長い戦の果てに戻った時、母も妹もこの世には亡く、待っていたのは荒廃した国。多くの貴族が没落し、ゴロツキ達が練り歩き、裏路地には死体が転がっている。
私は何の為に戦っていたのでしょう。
何もかもが虚しくて退役した後、この店を始めました。そうしてなんとか暮らしが回り始めた頃、一人の飢えた少年が戸口に立っていたのです。彼は指名手配犯でした。凶悪犯の筈なのに、まだほんの年端もいかない子どもだった。
彼は泣きながら言いました。「やりたくてやったわけじゃない」と。気付けば私は彼に食べ物を与えていました。どうしても彼のことを、完全な悪人だとは思いきれなかったのです。
この店に何か変わったところがあるとしたら、それはこんな私の半生が、私にそうさせているのでしょう。
「姫様が
店主の話が終わると、少女は居住まいを正した。
「今日の夕方、王はその生涯を終えたわ」
ピタリと、店主は林檎の皮を剥く手を止めた。
「今、何を?」
少女は
「王は殺された」
店主は少女のドレスを見た。豪奢な模様だと思っていたが……。
視線に構わず、少女は店をぐるりと見回した。
「話を聞いて分かったわ。なるほど、ならず者達が従うわけね。彼らはあなたに救われている。善人と悪人にきっぱり分けられるほど、残念ながら人間は単純じゃないから」
少女は店主の手から果物ナイフを抜き取った。思うは、もう亡い王。
「だから私は迷子になってここへ来た。私のしたことは許されないもの。でも」
ナイフをかざす。光る刃に、次の女王の顔が映っていた。
「人の道に外れても、あの時の私はそうしようと思ったの。私はわがままな子供で、人生に妥協なんて許さない。もういいか、なんて絶対に。あなた達と違って。だってこの国を背負うのよ」
お姫様はもういない。
「この店を開いてくれて感謝するわ」
罪ある者を受け入れる、この店を。
王女は林檎酒を飲み干すと、「迎えが来たようね」と立ち上がった。
さぁ、殺戮の責任を負う時がきた。血塗られた手だとしても、この国を治める覚悟と誇りはあるか否か。
「彼に売られるのも良いかと思っていたのだけれど、やめるわ。私にはまだなすべきことがある」
紫煙を振り切るその眼差しは、刃のごとく鋭く。
店長は剥きかけの林檎を、彼女が置いたグラスの縁に載せた。
「……では、あなたの身が朽ちるまで、私はここで待ちましょう」
その言葉に女王は振り返り、悪戯な笑顔で彼の
よろしく頼む。くるしゅうない、と。
分岐店 あさぎ @asagi186465
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