2 杯目 啓蒙

SIDE 紘目ひろめ 茉奈まな


「その提案は面白いね」

 上司のその一言は、わたしの心の中にあった、何かの原動機を大きく始動させた。


紘目ひろめさんも入社から四年か。既存のマナーに対する知識を深めるうちに、新しい視点を持つ余裕が出てきた、というところかな」

 そう、まさに自分の周りを見渡すことができるようになり始めたのが、この頃だった。この提案は、今はわたししか気が付いていないけれど、これから社会に広く啓蒙していく必要がある。そう確信した。国を揺るがす程の大事おおごとになるとは、この時はちっとも思っていなかった。


 提案を思いついたのは、ある日の昼休憩の時だった。

 その日わたしは、午前の仕事を終えると、昼食を摂るため近くのうどん屋に入った。取り立てて特徴のない、ごく普通のうどん屋である。

 お昼時とあって店内は少々の行列ができていた。いつものことだった。精算待ちをしていると、前のサラリーマン達が何か話していた。

「ほら先輩、ここの麺はすごいでしょう。ちゃんと断面のエッジが立ってるでしょう。茹でたて且つコシがある証拠です。こんな高品質の麺にいつでも会えるのは、長年の経験を基にした職人技で作ってるからですよ」

「うーん確かに凄そうだ。その職人技を標準化できれば、もっと量産できるだろうなあ」

「それが、このレベルだと難しいんですよ。八割ぐらいの精度で良ければ標準化して量産できますし、その方針で全国展開しているチェーン店も既にあります。ですが、九割以上となると、現在の技術でも難しいんですよ。こういった個人経営の店舗でないと、安定した品質で提供することが難しいんです」

 ほほう、ともう一人は感嘆の声を上げた。


 なるほど、確かにわたしのうどんも断面の角がはっきりしている。毎週のように食べてきたはずなのに、わたしは気が付かなかった。今日たまたまこの会話を聞いていなかったら、永久に知らなかったかもしれない。


「麺の角か……」

 しばらく断面を見ているうちに、ふと、ある考えがわたしの中に浮かんだ。世の中の誰一人、その考えに至っていないのではないか、とさえ思われた。一刻も早く啓蒙すべく、わたしはそそくさと食べ終えると、オフィスへと急いだ。


「その提案は面白いね。うどんは角が立つからマナー違反だって?」

 午後一番で伝えたわたしに対し、上司の最初の一言がこれだった。

「はい、そうです! ですから目上の人と一緒に食べる食品としては、避けるべきだと思います。ただし角が取れて丸くなったものであれば、問題ないと考えています」

 どうしてこんなことに気が付かなかったのだろう。わたしだけでなく、世の中の誰一人気が付かないなんて。今となっては、むしろこれまで誰の目にも見えていなかったことが奇妙にさえ感じられる。

 そして上司が後押ししてくれたことで、一層その思いが強くなった。

 早く世の中の人に広めなければ。


 その日の夜、わたしは早速SNSで公開した。上司から褒められたのだ。きっと世間でも絶賛されるだろう。新しい視点だ、目が覚める思いだ……そんなコメントが山のように来てスマートフォンが鳴り止まなくなるに違いない。そう考えて、投稿してすぐに通知をOFFにした。

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