心の遭難~非実体の指針~

豊科奈義

心の遭難~非実体の指針~

 本来なら星々が空一面に光り輝くはずだというのに、コンクリートジャングルを照らす人工的な光によって僅かな星々が謙虚に輝くのみ。

 そんな不自然の極みのような場所にあるとある高層マンションのとある一室。スポーツ用品もなければアイドルのポスターも、漫画もない。ただ大量の参考書が整然と並んでいるだけの部屋だ。机の上には、フレームに飾られた写真が一枚置いてある。そこには、複数の人物に囲まれて万歳をしているスーツを着た中年男性が写っていた。男性の奥にある壁には、男性の選挙ポスターが数枚貼ってある。

 そんな中、少年が扉を開けて部屋の中に入ってきた。少年は一目散に鞄の中から一枚の紙を取り出すと、なにかに操られているかのような無機質な表情でその紙を見つめた。

 その紙は高校の進路希望調査表だった。少年は一瞬戸惑うもののその後は躊躇いもなく進学という太字をボールペンで丸く囲む。そして、志望大学の欄に国内最高学府とも名高い名門国立大の名前を書き、続いて法学部と記す。第二希望。第三希望にも名門大学と法学部の名を書いていく。だが、徐々に少年の書く文字が歪んでいった。


「あれ……?」


 少年の手に力がうまく入らないのか、ボールペンの掴み方さえもあやふやになっていく。必死に力を入れるも手に力は入らないどころか、急激な眠気に襲われる。紙にしわや汚れをつけたくがないために必死で紙の上で寝落ちすることを回避しようとするも、眠気に抗うことができずそのまま紙の上に突っ伏した。



 少年は目を開けるよりも前に、周りが浸水していることに気がついた。すぐに目を開き逃げるように立ち上がる。地面を見れば、真っ暗な夜空に光り輝く数多の星。そして、宇宙を張る天の川。数センチメートル程の水が地平線の彼方まで続き、美しい夜空を反射しているのだ。

 綺麗だ。少年が思ったことはそれだけだ。

 抽象的な表現を一言思った後、すぐに辺りを探す。すると、すぐ近くに盛土されたような道があった。湿ってはいるが、水に浸ったままよりはましである。

 少年は隘路に乗るとそのまま前後を見回す。突然こんな世界に来て、普通の人ならもっと狼狽えるだろう。しかし、少年は特に狼狽えるようなことはしなかった。前後どちらも道が地平線の彼方まで続き、どちらを行けば良いのかわからずじまいだった。


「そこの君、ちょっといい?」

「え?」


 少年は再度辺りを見回す。人の姿なんてどこにもないのだ。少年は顔を顰める。


「ここだよ。ここ」


 声は自らを主張しようと足踏みをしたのか、湖面が大きく揺れ波動が伝わった。だが、少年の進んでいる隘路に到達してもその波動は一切動かなかった。

 とはいえ、湖面は波打っていれどもそこに人の姿はないのだ。少年は心霊スポットに行くような気持ちのまま固唾を呑むとゆっくりとその湖面へと近づく。幸いにも隘路のとなりだったため、少年は隘路から身を乗り出して波のあった湖面を弄る。すると、少年の指がなにかに触れた。

 すぐに引っ込めてしまうももう一度指先で湖面に近づけると、たしかに何かがそこにあるのだ。


「なんか僕、透明人間みたいだ」


 自分自身が透明人間になっていたら、それこそパニックになるだろう。だが、その声──透明人間も特に狼狽えた様子はない。

 透明人間は差し出された少年の手を掴むと、そのまま少年によって隘路に引き上げられた。


「ところでここ、どこだろう? それにこの道、どっち行けばいいんだろう」


 少年は透明人間に話しかけた。


「さぁ? でも、この道が正しいという保証もないよ」


 透明人間は答えた。

 その通りだと少年が思った途端、透明人間に若干の色がついた。


「あれ? 僕色ついてる? なんで?」


 遠くから見ればわからないが、間近に見れば目の前に何か物体があると認識できる程度だが透明人間ではなくなったことが嬉しいのだろう。


「謎だ……」


 少年は元透明人間の体を見回した。身長は少年と同じくらい。体格も同じくらい。似た体格の持ち主が送られる場所なのかと探ってしまうくらいに二人は似ていた。


「なんだか僕たち似てるね。どこに住んでるの? 僕は東京だよ」

「僕も東京だよ」


 少年は言い残すと、ふと写真のことを思い出した。自然に俯いてしまう。


「どうしたの? 悩み?」


「いや、そんな問題じゃないよ。僕、政治家にならなくちゃいけないんだ」


 そんな思い問題ではないとばかりに作り笑いに表情を戻した。


「願望じゃなくて強制?」

「それが家のしきたりなんだ。曽祖父も祖父も父親も、みんな国会議員。だから僕も将来は国会議員さ。そのためにはいい大学を出ないとね。だからこんな場所でゆっくりしてないで勉強しなきゃいけないのに」


 少年はゆっくりと仰向けになった。

 少年はこの光景を見たことがある。ウユニ塩湖という場所で条件が整ったときに見ることができる景色だ。実際にボリビアまで行ったことはないが、地理の参考書にコラムとして乗っていたのだ。


「君はそれでいいの?」


「いいよ。だって予め道が決まっていたら悩まなくて楽じゃないか。そりゃ楽しくないだろうけど」


 少年は幼い頃から自分も国会議員になると覚悟をしていた。今さら変えられまい。


「僕はね、世界中のいろんな場所を巡ってみたい。珍しいここみたいなウユニ塩湖もそう。火山、沼地、湿地、凍土。日本にないような場所だっていっぱいある」


 もし元透明人間の姿が具体的に見えていたのだとしたら、それはもう目を輝かして語っていただろう。


「いいね。僕も昔はそんな夢を持ってた。何から何までよく似てるね。僕たち」


「……似てないね」


「ええっ? 沢山似てるじゃないか」


 体格、身長、幼い頃の夢、居住地。何から何まで似ているというのに、元透明人間はそう断言した。さすがの少年もひどく驚いた。


「性格は違うね。僕は好きなことを追いかけたい。でも、君は使命感から人生を選んだ。僕は夢を追い求めて幸せになりたい。一方の君は好きでもない仕事につくんだ。まるっきり違う。君は僕よりも不幸になるのが決まってる。そう言われると悲しくならないかい?」


「まあ、そうだけど……」


 言い返すことができずに少年は口をつぐむ。

 確かに、少年は心の根底から世界を巡るのを諦めたわけではない。だが、その時点で先祖代々続く政治家の家系は終わる。政治家は給料がいい。もし自分が自由な道に進んだ場合、自分のせいで貧しくなるかもしれない。


「君は人の顔色を見て育った人間かい? 僕はそうさ」


「うん。僕も」


「一度くらい、親に甘えてみようよ。それとも、君の親はそこまでひどいのかい?」


「そんなわけっ……」


 赤の他人に親をけなされ、反射的に苛立ってしまった。そして、すぐに冷静になり少年は考える。父親は厳格な人であれど、決して少年に愛情を注いでいなかったわけではない。幼い頃は誕生日には祝ってくれた。急な用事で祝えない日も誕生日プレゼントと書き置きは絶対に用意していたのだ。


「あれ……?」


 何かが少年の中で引っかかった。そして、それと同時に元透明人間も徐々に色味を帯びていく。

 少年は記憶を探った。しかし、は一向に見つからない。


「……。政治家になれなんて、一度も言われてない……」


「やっぱり。君はいい両親を持っているね。少し位道を外したって叱ったりはしないさ」


 少年が気がついた。自分自身を追い詰めていたのは、紛うことなき自分自身だった。そして、それと同時に元透明人間が大分色を帯びてきた。


「なるほどそういうことか!」


 僕は隘路から飛び降りた。そして、改めて夜空を見上げる。


「……」


 声も出ないほどに、その光景は美しかった。地理の参考書に乗っている写真よりも何倍も、何倍も……。


「僕……地理を学びたい」


 その言葉と同時に、元透明人間は完全に色味を取り戻した。


「そうでしょ?」


 少年は振り返って隘路から降りようとしている元透明人間の手を引っ張った。


「僕!」


 色味を完全に取り戻した元透明人間。それは、少年本人だった。



「あれ……?」


 気がつくと、そこはマンションの一室。目の前には寝ていた影響で少ししわのついた一枚の進路希望調査表。夢を見る前の少年なら、しわがついたことにイライラしていただろう。


「ふっ……」


 思わず少年は吹き出してしまった。そして、何の躊躇いもなく進路希望調査表をしわくちゃに丸めると、そのままゴミ箱へと投げ入れた。 

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