第173話 温泉旅行①


 卒業式も終業式も終わり、ついに本格的に春休みが始まった三月某日。


 冬の寒さも薄まり、春の訪れを感じる暖かさの中、俺はリュックを背負い家を出る。

 

 マフラー手袋ニット帽などなど、防寒具が必須だった時期は終わったので服装はだいぶ軽装である。

 中でも暖かい日なのか、長袖であることがもう暑い。気持ち的には夏を感じてしまうまである。


 最近の温度設定はほんとに狂ってる。服装を調整しなければならないこちらの身にもなってほしいもんだ。


 待ち合わせ場所は例によって駅前である。集合時間は一〇時。現在その一〇分前なので仮に俺の方が遅くても遅刻とは言われまい。


 本日。

 俺こと八神幸太郎とその彼女である月島結は温泉旅行に行く。

 恋人同士になってから初めての大きなイベントと言っても過言ではない。

 学校の帰りに寄り道をしたり、休日に近場で飯を食ったりはしていたけど、がっつり遠出というのは初だ。


 まして、二人きりで旅行なんて人生でもしたことはない。そんな非現実的なイベントを前に、どこか高揚している自分がいた。


 バスやタクシーが停まるロータリーにある白い柵に腰掛ける。長袖のパーカーを捲って腕時計を見たところ、まだ集合時間にはなっていない。


 しかし、そんなとき俺の視界が黒に覆われる。


「だーれだ」


 そうだよこれこれ。これが本当のだーれだだよ。

 

 後ろから結の声がした。もはや正体バレバレであるが、この茶番に付き合うのも彼氏の務めだ。


「結だろ」


「そうです。こーくんの可愛い可愛い彼女であるわたしでした」


 ご機嫌な様子の結はにこにこしながら俺の方へと回ってくる。だーれだをする為だけに道路側に回っていたようだ。


 今度はそこも考えて待たなければならないのか。


「待った?」


 結が俺の顔を覗き込むように体を傾けながら訊いてくる。さっき来たとこなので俺はかぶりを振った。

 まあ、待ってても待ってないって言うんだろうけど。


「待った待ってないを気にするんなら家呼びに行くのに」


「わかってないなあ、こーくんは。デートと言えば待ち合わせ。待ち合わせといえば駅前なんだよ?」


 毎回言ってくる決まり文句だが、一向に納得できない。今後もその思考に至ることはきっとないだろう。


「この、待った? ていうのもデートっぽくない?」


「よく見るけど」


 改めて結を見るといつもより気合いが入っているように感じる。

 膝丈の黒いスカートと白のブラウス。髪は下ろしているがくるくると毛先が巻かれているのでいつもより大人っぽく見える。


 旅行といっても一泊二日なので俺はそんなに大荷物ではないが、結は大きなカバンいっぱいいっぱいに荷物を詰め込んできている。

 修学旅行のときも思ったけど、女子はいろいろと大変なんだろうな。


「持つよ、荷物」


 出発する際に俺がそう提案すると結がぶんぶんと首を振る。


「いやいや、いいよ。結構多くなったから重たいし」


「重たい荷物持たせたくないんだよ。嫌じゃないなら持たせてくれ」


 そう言うと、結は少しだけ悩んだ様子を見せたがおずおずと俺にカバンを渡してきた。


 それを受け取って思ったが、めちゃくちゃ重たい。中にダンベルでも詰めてんのか?


「めちゃくちゃ重たいじゃん」


「だから言ったんだよ。わたし持つよ?」


「こんな重たいの持たせらんねえよ。気にすんな」


 言って、俺達は電車に乗り込む。時間的に混んでる時間じゃなかったのが幸いで、空いてるところに座って荷物を置く。


 これから向かう場所もそこまで遠くではなく、電車に二時間ほど揺られて到着する。

 高校生の俺達からすれば十分な遠出だ。


 何度か乗り換えた後、最後に乗った電車が四人がけのタイプの電車だった。

 混んでる様子もないので、俺達は向かい合って座る。


「でもよかったよね、無事に決行できて」


「そうだな。天気も快晴で絶好の旅行日和だし」


 結が温泉旅行に行きたいと言い出したときにはどちらかと言うと夢物語のような話だったが、まさか本当に実現するとは。


 結の両親もよく男との旅行を許したもんだよなあ。自分で言うのも何だけど、相手が俺だからっていうのは少なからずあるんだろうけど。


 結はしゅぽしゅぽとスマホを弄っていたので、俺はぼーっと外の景色を眺めていた。

 電車のスピードが速いのでもはや景色を楽しむという感覚はないが、何となくこの時間は悪くないと常々思っている。


 そんなことをしていると、結がスマホの画面を見せてきた。


「なに?」


「混浴あるんだって」


「……へ、へえー」


 見せられたスマホの画面には確かにそんなことが書いてあった。しかし、まさかそんなことを言ってくると思わなかったので俺は分かりやすく動揺してしまう。


「嬉しくないの?」


「どうせ入んないし」


 ふいっとそっぽを向きながら答える。すると結が残念そうに唸る。


「えー、どうして? こーくんはわたしと一緒にお風呂に入りたくないの?」


「そりゃ、入りたくないわけじゃないけど」


 好きな女の子と一緒にお風呂に入るとか、そんなの男側が断る理由は一切ないだろ。


「じゃあどうして?」


「……混浴ってほら、別のお客さんもいるかもだし」


 俺はぼそりと呟いた。

 ちらと結の方を見ると、結は嬉しそうににやにやと笑っていた。


「ははーん! こーくんはわたしの裸を他の人に見られたくないわけだ?」


「彼氏なら誰もがそう思うだろうよ」


「ということは、逆に言えば他のお客さんがいなければいいということだよね?」


「……というと?」


「なんと、今回予約したお部屋には小さいけれどお風呂があるのです。露天風呂なんだって」


 シュッシュッとスマホをスライドさせてその写真を見せてくる。部屋のベランダ的なところにせっちされているタイプの風呂だ。


 旅館の予約とかは結が任せてと言うものだから一任した。相談されれば答える程度にしか触れていないので、実はどんな部屋なのかも全然知らないんだよな。


 こんな風呂がついている部屋なんて、結構いい値段するのでは? と少しばかり不安になった俺であった。


「すげえな」


「でしょでしょ? これなら、一緒に入ってくれるよね?」


 確かに周りの目もないし、ゆっくりできるけど、やっぱり普通に恥ずかしいな。


 以前、ハプニングで一度同じ湯船に浸かったことはある。しかし、あのときはお互いに羞恥心から背中合わせになり、ほぼ目も合わせていなかった。


 けれど、今回はそうではない。

 堂々と、面と向かって入ることができる。一見嬉しいような気もするが、それ以上に恥ずかしい気がする。


 自分の裸を見られることよりも、結の裸を見ることがだ。

 想像すると、変な気分になった。

 

「……気が向いたらな」


 なので、俺は精一杯表情には出さないように努め、クールにそう言ってみせた。


「こーくん、お鼻の下がいやらしいよ?」


「俺はいつもこんなもんだよ」


 伸びているらしい鼻の下を隠しながら、俺は再び窓の外を眺めることにした。

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