第170話 チョコレート・フォー・ユー 後半戦
時は少し遡り、二月一三日。
バレンタインデーの前日のこと、宮乃湊と一緒に帰宅していた白河明日香は、湊の要望でコンビニに立ち寄っていた。
「なにを買うの?」
鼻歌交じりにお菓子コーナーの前に向かった宮乃に尋ねる。
彼女はあれでもないこれでもないとお菓子を物色している。一つ分かったのは、そのどれもがチョコレートであるということだ。
ああ、そういうことか。
聞いてはみたものの、答えを聞く前に明日香はその答えを察した。
「明日はバレンタインデーだよ。チョコレートを用意するのさ」
「バレンタインデー用のチョコレートはあっちにあるけど?」
こういうときはコンビニであろうと特設コーナーがある。きちんとそれ用にラッピングされたものが並んでいた。
「いや、いいんだよ。八神にあげる用だし、あそこまで凝ってる必要はない」
「コータローに?」
八神幸太郎。
明日香は彼のことが好きだった。
修学旅行にて正式に振られ、今になってもどう接していいか分からずに避けてしまっている。
「うん。大事なのはチョコレートを渡すことだからね。これなら見て義理だと分かるだろ? 月島さんも安心するかなって」
そう言いながら湊が手にしたのはチロルチョコレートだった。この世にあるどのチョコレートよりも義理感がある。
もはやバレンタインデーのチョコレートだと思えないほどだ。
「男子は女子にチョコレートを貰うだけで嬉しいものさ。それが例えこんなチョコレートでもね」
「……そういうもの?」
「ああ」
ふうん、とそのときはその程度の返事で特に購入することもなく帰ることにした。
しかし、バレンタインデー当日の朝、白河明日香はコンビニでチョコレートを購入した。
「……」
しかし、渡すのが大変である。
これまで顔を見たら逃げ出していたわけで、突然何事もなかったようにチョコレートを渡すのもどうかと思う。
かといって、こちらから話しかけるのも変に意識してしまって難しい。
そんなことを考えていると気づけば放課後になっていた。
ぞろぞろと帰り支度を終えた生徒が教室を出て行く。
中には無意味に居残りを決める男子もいる中、明日香は未だに葛藤していた。
カバンの中に入れてあるチョコレートを見る。
もう、渡さなくてもいいかな。
そう思ったときのこと。
「八神なら教室にいると思うよ」
湊が話しかけてきた。
「……どういう意味?」
「まんまの意味なんだけど。いろいろあって変に気まずくなって、話しかけるタイミングを失った白河さんには持ってこいのイベントだと思うよ。バレンタインデーは」
しつこくは言ってくるつもりはないようで、湊は言いたいことだけを言って教室を出て行く。
いつもは一緒に帰ろうと誘ってくるくせに。
「……よし」
いつまでもこのままでいいとは思っていない。
恋人としては選ばれなかった。
けれど、それで終わりでいいとは思えない。
それに幸太郎とこのままということは、月島結ともこのままということになるのだ。
明日香は教室を出て、二年三組へと向かう。
到着し、中を覗くと幸太郎の姿が見えた。しかし、周りには談笑する男子生徒がちらほらと残っている。
他の生徒の前で渡すのは少し気が引けると思い、待つことにする。彼らも一段落つけば帰るだろう。
そう思っていたが、結局幸太郎以外の生徒が教室を出たのはあれから一時間後のことだった。
自分でもよく待ったと思うし、幸太郎もよく待ってくれたと思う。どうして待っているのかは分からないが、考えてみれば彼がさっさと教室から出てきてくれれば済んだ話だった。
緊張する。
もしかしたらこれまでのどの行動よりも緊張しているかもしれない。
これまでとは少し違うどきどきが明日香を襲う。
「コータロー」
彼の名前を呼ぶ。
すると、ぼーっとグラウンドを眺めていた幸太郎がこちらを向いた。
「お、おう。白河」
「何してるの、こんな時間まで」
極力なんでもないように、いつもと変わらない調子を装い、明日香は話す。
「いや、なんか宮乃が放課後帰らずに待っとけって言うから待ってたんだよ」
湊がそんなことを言ったのか、と明日香は彼女の様子を振り返る。
帰ったのかは分からないが、あの様子だと幸太郎のところへ来たとは思えない。
恐らく、自分のためにしてくれたのだろう。明日香はすぐにそう思い至った。
「それで、白河はどうしたんだ?」
幸太郎の方も変に緊張しているように見える。
無理もない。
こうして面と向かって会話をするのは修学旅行以来なのだ。
直接言われてはいないものの、振られてから初対面が今この瞬間となる。
彼的には振ってしまったという後ろめたさがあるはずだ。ここは自分がしっかりしなければ、と覚悟を決める。
「あの、これ」
カバンから取り出したチョコレートを幸太郎に渡す。
チロルチョコレートとも違う、けれどバレンタインデー用にラッピングされたものとも違う。
いつでも、どこでも売っている普通の板チョコだ。
「これって」
「バレンタインデーよ。一応、その、これまでのお礼的な。ほら! どこからどう見ても義理って分かるでしょ?」
もにょもにょと言いながら、これではダメだと思い後半はしっかりと力を込めて言う。
「……サンキュー」
幸太郎は受け取ったチョコレートを見ながら、口元を綻ばせる。
ちらとその様子を見る明日香。
彼は嘘のリアクションができるほど器用ではないことは知っている。だから、本当に喜んでいるのが分かる。
「一つだけ、聞いていいかしら」
「ん? うん」
言おうか言うまいか、今になって悩んだが、やがて意を決して口を開く。
「私からチョコレート貰えて、嬉しい?」
こう聞いて、どんな言葉が返ってきてほしいのかは自分でも分からない。けれど、どうしてか聞いてしまった。
幸太郎は少しだけ悩んで、明日香の目をまっすぐ見ながら頷く。
「ああ。すげえ嬉しい」
もしかしたら彼なりに気を遣ったのかもしれない。でも、多分きっと本心だ。
そう思えるのは、これまでに彼と築いてきた時間がそれを証明してくれるから。
この人を好きになって良かった。
不思議とそう思えた。
「そう。なら、買って良かったわ」
明日香は小さく息を吐く。
そして、出口の方に体を向けて歩き出し、後ろは振り返らずに、
「じゃあね。お返し、期待してるから」
なんてことを言う。
義理と分かるあんなチョコレートでも、こんなことをわざわざ言わずとも、きっと彼は来月には頭を悩ませながらお返しをくれるだろう。
冗談めかして言ってはみたものの、その光景が目に浮かび、明日香は思わず笑ってしまう。
「ああ」
ちらと、彼を横目で見る。
「結と仲良くね」
そう言い残し、明日香は教室を出た。
彼が最後にどんな顔をしていたのかは見ないことにした。
走って昇降口まで行こうとしたとき、階段の踊り場で人とぶつかりそうになる。
「ごめんなさい!」
「あ、いや、こっちこそ……」
咄嗟に謝ると相手も申し訳なさそうに言ってくる。その声が聞き覚えのあるもので、明日香は恐る恐る顔を上げる。
「……結」
幸太郎と同様に、結とも修学旅行以来話せてはいなかった。
このままではいけない、ちゃんと言わなければならない、そう思いながらズルズルと時間だけが経っていた。
会っても、どんな顔をして話せばいいのか分からずに彼女を避けていた。
けれど、今は不思議と言葉が出てくる。
「明日香ちゃん?」
結は戸惑いの表情を浮かべている。
幸太郎と同じで、彼女も明日香に対してどう接すればいいのか分からないでいたのだろう。
勝者が敗者にかける言葉なんてありはしないから。
だから、まず自分が言うんだ。
言いたくて、ずっと言えなかったあの言葉を。
「結。おめでとう」
多分、笑えていると思う。
だって、その言葉は本心で心の底から思っていることだから。
次の瞬間、結はぶわっと涙を流す。
「え、ちょ、大丈夫?」
「明日香ちゃん。一緒に帰ろ?」
いろんな感情があるのだろう。涙を流しながら、結はそんなことを言った。
これは自分が流させた涙だ。全て、受け止めなければならない。
「ええ」
元通りにはならないだろうけれど、それでもきっと、これで良かったと思えるような日々に戻れる。
いつの日か、この日のことを思い出して笑い合えるような関係になれる。
そんなことを思いながら、二人はゆっくりと帰路につく。溜まりに溜まった、いろんな話をしながら。
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