第166話 【修学旅行編⑪】答え
白河明日香は部屋にある掛け時計を見る。
時刻は八時、一分前。
約束の時間まであと僅か。
「……」
告白したときよりも緊張している自分がいた。
あのときは、自分のタイミングで一歩踏み出すだけだった。けれど、今は違う。
できることは、ただ待つことだけ。
これまで自分がしてきたことを信じて、彼が訪れるそのときを、待つことだけだ。
部屋の中は静かで、秒針が刻まれる音がわずかに聞こえるだけ。
もう一度時計を見たとき、時刻は八時を指していた。
約束の時間だ。
しかし、彼は訪れない。
「……」
自分は選ばれなかったのか。
白河明日香は、小さく息を吐く。それがどういう意味を持っていたのか、それは彼女にしか分からないことだった。
そのときだ。
ガチャリ。
部屋のドアノブが回された音が聞こえた。
気のせいではない。
秒針の音が聞こえるくらいに部屋の中は静まり返っていた。そんな中で、聞き間違えるはずがない。
ドアが開けられる。
そうだ。
あの男が時間ぴったりに来るとは限らない。自分ほどではないが時間にルーズな一面もあるし、ここに来るまでに何かがあって少し遅れた可能性は十分あった。
誰かが入ってくる。
こちらに向かってきている。
明日香はそちらを向いて迎える。自然とゆるむ口元。笑顔が浮かび上がる。
揺れる瞳が、その人物を捉える。
「……いやあ、財布を忘れちゃったよ。て、あれ、白河さん。用事があるんじゃ?」
瞬間、全てを察した。
綻ぶ笑顔は固まり、次第に破綻する。揺れる瞳には次第に涙が浮かぶ。
気づけば、頬を涙が伝っていた。
「て、え、なにどうしたの? 白河さん?」
人前で涙なんて流したくなかった。
目の前にいる宮乃湊はわけが分からないまま慌てふためく。
堪らえようと必死に目元に力を込めた。それでも、奥から奥から涙が溢れて止まらない。
「……そっか」
明日香の涙を見たことはなかった湊。そんな彼女が、どうしようもなく涙を流している。
湊は、おおよそのことを察した。
彼女は負けたのか、と。
湊は明日香に近づいた。
震えながら、溢れる涙を流し続ける彼女のもとへ。
「……っ」
「我慢、しなくていいんだよ。辛いときは泣いたっていいんだ」
そう言いながら、そっと彼女を抱き締めた。その瞬間、何かの枷が外れたように、涙はさらに溢れ出る。
湊の肩に頭を乗せて、明日香は悲痛に泣き叫んだ。
「……」
その言葉を、湊は黙って聞き入れた。
彼女の思いが、全て口からこぼれ落ちる。
これまでどんな思いでいたのかも、どれだけ不安だったのかも、どれだけ楽しかったのかも、
そして、どれだけ彼を好きだったのかも。
その言葉一つ一つから伝わってくる。
思いが実らない辛さを知っているから。
だから。
湊はただ、彼女の辛い気持ちを受け止めた。自分にできるのは、多分これくらいしかないだろうから。
明日か、あるいはもっと先になるかもしれないけれど。
彼女が前を向けるように。
大切な友達に、おめでとうと笑顔を向けられるように。
今は。
今だけは。
悲しみの涙を流していいんだ。
そう思いながら、湊はもう一度、彼女を抱き締めた。
* * *
ガチャリ。
ドアを開ける。
一歩一歩歩く度に心臓が高鳴っているのが分かる。
これまで緊張するシーンは何度もあったけれど、今この瞬間はそのどれよりも緊張している。
思いを告げるというのは、それだけ大変なことなのか。
橘涼凪も。
白河明日香も。
月島結も。
みんな、こんな気持ちだったのだろうか。
奥の部屋に入ると、そこに結がいた。
彼女は開いた窓から外を眺めている。きれいな月が出ているわけでもない、絶景が広がっているようにも見えない。
何を、見てるんだろう。
「……結?」
俺は彼女に呼びかける。
俺の声を聞いた結は、ゆっくりとこちらを振り返った。
俺は驚く。
どうしてか、彼女が泣いていたから。
「なんで、泣いてるんだ?」
俺が尋ねると、結はおかしそうに笑いながら頬を伝う涙を拭った。
「あはは、なんでだろうね。なんか、いろいろ思い出しちゃって」
「そっか」
何でもなくて良かった。
「こーくんの声を聞いて、安心したっていうのもあるのかも」
体もこちらに向ける。
じっと、彼女は何かを待つように俺の顔を見つめてきた。
俺は結を選んだ。
ちゃんと、告げないといけない。きっと、結もそれを待ってるんだ。
ずっと心の中にあって、けれど一度だって言葉にできなかった本当の気持ち。
まっすぐ、ぶつけないと。
「結。お前のことが好きだ。ずっと悩んだ。たくさん考えた。そして、出した答えがそれなんだ。誰よりも、お前が大好きだ。俺と付き合ってくれ」
この言葉を彼女に伝えるのに、どれだけの月日がかかっただろう。
けれど。
ようやく、言葉にした。
やっと、届けることができた。
「はいっ」
答えはすぐだった。
たたたと駆け寄ってきた結が俺に抱き着きながらそう短く、けれど力強く言った。
「ずっと、待たせてごめんな」
俺の胸に顔を押し付ける結が何かを言っている。が、何を言っているのかは聞き取れなかった。
胸の部分がじんわりと熱いので、涙を流しているのは何となく分かった。
だから、俺は彼女を抱き締めて、しばしの間だけ黙っていることにした。
ずっと長い間待たせていた。
彼女の気持ちを、言葉を、思いを蔑ろにしていた。
言ってくることはなかったけど、いろいろと思うところはあったはずだ。
それを一言謝って終わり、なんてことでは済ませられない。
俺にできることはこれまでの分も、これから結に笑ってもらえるように頑張るだけだ。
どれだけの間、そうしていたから分からないけれど、結がようやく顔を上げる。
「落ち着いたか?」
「う、うん。ごめんね、はは。自分でもわからないけど、泣いちゃった」
ぐしぐしと目をこすりながら、結が強がるように笑う。泣き顔を見られるのが嫌なのか、こちらを向いてこない。
だから、俺も見ないことにした。
「ずっと不安だったんだ」
ふと、結が話し始める。
俺は窓の外の、何でもない景色を見ながら相槌を打った。
「こーくん以外の男の人なんて考えられないから。だから、明日香ちゃんを選んだらどうしようって、ほんとはずっと不安だったの」
「……うん」
その気持ちにさせていたのも俺だ。
俺がもっと早くに結の気持ちを受け入れていれば、そんな気持ちにさせることもなかった。
「でもね、もしこーくんが明日香ちゃんを選んでも、ちゃんとおめでとうって言うつもりだったんだよ? きっと、いっぱい泣いちゃうだろうし、すぐには無理かもだけど、でもちゃんと言えるようになったとき、きちんと言うつもりだった」
「……ああ」
「明日香ちゃん、大丈夫かなあ」
こんなときでも、白河のことを考えているのか。
いや、もしかしたら自分が……って思うと、考えないわけにはいかないのかも。
「大丈夫だよ、とは確信を持って言えないけど」
「おめでとうって、言ってくれるかな」
結はやはり不安なようだ。
恋愛は時に友情を壊す。漫画とかでもあることだ。
結は白河のことが本当に好きらしい。性格とかはあんまり合いそうにもないのに、相思相愛なんだよなあ。
「当たり前だろ。白河がそんなやつじゃないってことは、結が一番分かってるんじゃないのか?」
「……うん。でも、やっぱりちょっとだけ不安で」
えへへ、と小さく笑う。
その後も、些細な話をたくさんした。
時間が許される限り、これまでできなかったことをたくさん話した。
それでもまだまだ全然足りなくて、俺達はついつい時間を忘れていた。
「あ、みんな帰ってくるって」
「え」
結がスマホを確認したときにそんな声を漏らす。
「じゃあ戻らないと」
「うん。そうだね」
さすがに鉢合わせるのも何か気まずいし。なんでいんの? 的な空気になったときの説明もかったるいし。
そう言って立ち上がると、結は少し寂しそうな顔をする。
まだ目元は赤く腫れているけれど、だいぶ落ち着いたように見える。
「そんな顔すんなよ。別にこれが最後ってわけじゃないんだから」
「う、うん。そう、なんだけど」
分かってはいるけれど、というのが態度に現れている。それを意図的にしているのか、無意識なのかは分からないが。
この時間を惜しむ気持ちはよく分かる。俺だって同じだからだ。でも、結局女子は帰ってくる。
俺はここを出ないといけない。
「……」
何か一つ、残すことができたならば。
そう思い、結を見たとき。
結も俺の方を見上げてきた。
目と目が合う。
タイミングを合わせたわけでもないのに、同時に顔を上げて、そしてお互いの顔を見た。
別れを惜しむように。
何かを求めるように。
だから、自然と俺は彼女に歩み寄る。
「……」
「……っ」
そして、唇を重ねた。
ほんの僅かな時間の、唇を重ねるだけの短いキス。今はそれが精一杯だった。
ゆっくりと、唇を離す。
「……こーくん」
何かを言いたそうにしている結だったが、言葉が詰まっているのか口を開いたまま声は出ない。
「じゃあ、またな」
だから俺はそう言って、出口へ向かう。
これで終わりじゃない。
これから始まるんだ、という気持ちを込めて言葉を伝えた。
俺達二人で、始めるんだ。
「うん。また」
結は小さく手を振って、俺を送り出してくれた。
名残惜しいと思いながら部屋を出ると、ちょうど女子グループが帰ってきたところで結局バッティングした。
「……おっす」
たまたま目が合った倉瀬にそう言って、俺は走ってその場を去る。
混乱している他のメンバーを倉瀬がどうどうとなだめている声が僅かに聞こえた。
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