標本作家と人魚

旦開野

とある海辺

 どんよりとした黒い雲が広がる空。灰色を写した海は少々ご機嫌斜めのようだ。今にも荒波に飲まれそうな磯に佇む小屋は、そよ風でさえ防げそうにない程に頼りない。思春期を迎えているだろう短髪の少年は、小屋の、今にも壊れかけそうなドアノブに手をかけ、自身の体に引き寄せた。ドアにかかった鈴がチリンと鳴る。

 素材そのままの外見とは違い、小屋の中はムラがあるものの、真っ白なペンキで塗装されている。一つの小さな電球が照らすだけなのに、室内は外からは想像できないほどに明るかった。小屋の中にはたくさんの白い棚があり、大小様々な瓶が綺麗に並べられている。瓶の一つ一つを見ると、赤や青、紫色に輝く魚の骨が、透明な液体に浸されている。少年は瓶の中を一つ一つ覗き込んだ。まるで宝石のような骨格を少年は見たことがなかった。

「透明標本を見るのは初めてか、少年」

 いつの間にか少年の背後には老人が立っていた。痛んで伸び切った髪と髭には、清潔感のかけらもなかった。

 「これは何からできているの?」

少年は老人の姿に驚くことなく、まだ声変わりの済んでいない高く、透き通った声で聞いた。

「これは正真正銘、本物の魚の骨だ」

「でも骨はこんな色してないよ」

「特殊な液につけたり、色々するとこうなるんだ」

 少年は老人から目を移し、再び透明標本を見つめた。タツノオトシゴ、エンゼルフィッシュ、アオリイカ……どの生物も皮膚からは暖かさと色がなくなり、骨の部分だけが綺麗に輝いている。

「これ、おじさんが作ったの? 」

「他に誰がいるんだ」

「すごいね。こんな綺麗なものを作っちゃうなんて」

 よく見るとわずかにだが、老人の口角は上がっていた。その言葉、そして何より、先ほどから当たり前のように少年が接してくれることに気を良くしているように見える。

「美しさとは、無機質の中から生まれるものだ。俺からしたら生命の温かみなどは不要なものだ」

 呟くように老人が言う。その言葉には何か冷たく、狂気さすら感じた。しかし少年にはその言葉が聞こえなかったのか、黙って瓶の中を見つめている。

「そんなに気に入ったのか?」

 少年があまりにまじまじと、標本を見つめるので、老人は少年に聞いた。少年は笑顔で答えた。

「うん。僕、これすごく気に入ったよ」


 老人と少年はしばらく、話をした。少年は魚の種類には詳しく、骨の状態になったものでも、魚たちの名前を言い当てた。

 老人は人と話をするのは久しぶりだった。そもそも他人と馴れ合うことが嫌いな老人だが、少年といるのは居心地が良かった。自身の中に凶悪性があることを老人は分かっている。他人はそれを恐れ、気持ち悪がり、一切よりついてこない。それが当然だと思っていたし、別にそれでいいと思っている。しかし少年は老人を恐れることなく、フラットに接してくる。老人には今更人と馴れ合おうと言う気はなかったが、珍しく少年には、気を許してしまった。

 「そんなに海の生き物が好きならば、特別にいいものを見せてやろう」

 老人は部屋の隅まで行くと、床についている取っ手を引っ張った。ただの物置だと思っていたそこからは、階段が暗闇に伸びていた。老人は机の上にあったランタンに火をつけ、階段を降りていく。少年もそれに続いた。


 階段を降りると、そこには地下室があり、大きな水槽の中では魚たちは自身が透き通った骨になり、瓶の中に閉じ込められるとも知らず、優雅に泳いていた。

「どこにいるんだ……」

 老人は水槽の中を見渡す。しばらくすると、他の魚とは明らかに大きさの違う尾鰭が少年の前を通った。少年は驚き、どれだけ大きな魚なんだろうと頭の方をみる。しかし、そこには予想したような頭はついていなかった。水槽の中を優雅に泳ぐそれは、少年と同じようなすらっとした手を持ち、少年と同じ肌色をした顔を持っていた。

「にん……ぎょ……? 」

 少年の前には童話かお伽噺の世界にしかいないであろう、人魚がいた。茶色くウェーブのかかった髪は美しく、彼女はとても優美に水槽の中を泳いでいた。

「珍しいだろ?すぐ目の前に打ち上げられているのを拾ったんだ」

「人魚なんて本当にいるんだね」

「俺も見たときは正直びっくりしたよ。それと同時に、俺の近くに打ち上がってくれて本当によかったとも思っている」

「どうして?」

 少年は無邪気に聞く。

「どうしてって、こいつがいれば最高傑作ができるじゃねえか。こんなに珍しい生物を標本にできるなんて俺は運がいいとしか言いようがない」

「おじさん……人魚まで標本にしちゃうの?このままでも十分綺麗なのに」

「言っただろ?無機質な者こそ美しいんだ。魂なんて邪魔でしかない。人魚だって例外じゃないさ。骨の姿になった方が今よりも10倍、いや100倍も美しい姿になれる。こいつも醜い姿で生き続けるよりも、美しい姿になった方がいいだろう」



どん。


突然、老人の背後のあたりで鈍く、重い音が聞こえた。






「麗しい我が姫君。助けに参りましたよ」

 少年は梯子を使い、水槽の上から人魚の手を取った。

「……あなた、誰? 」

 水面から顔を出した人魚は大きな目を半分にし、不審そうに少年を見ていた。

「……へ? 」

「私……人間の知り合いはいないんだけど」

 人魚の一言に少年はショックを隠しきれない。

「え、いや、何言ってるの?僕だよ僕。足はついているけど顔の方は変わってないでしょ? 」

 そう言い終えるのと同時くらいに、少年の足は、人魚と同じ、魚の尾鰭に変化した。

 「ほらほら。今おばさまにかけてもらっていた魔法が解けたんだ。これでお前のかっこいいお兄様だってことがわかっただろ? 」

「本当だー。かっこいいかはさておいて、私のお兄様だー」

「どうしてそんなに感情がこもってないの!?もういいから、こんな汚い水槽から出て!!帰るよ! 」

「ていうかキャラ変わり過ぎ。さっきまでの純粋な少年はどこ行ったのよ」

「あれは可愛い妹を助けるための演技でしょ! 」

 そんなことを言い合いながら、人魚の少女は目の前にいる兄の手をとり、水槽から出る。少女はランタンに照らされた地下室を見渡した。

「私を助けるだけだったら、わざわざ殺す必要なかったんじゃない? 」

水槽の前にうつ伏せになっている老人を見て、少女は言う。背中には短剣が刺さっており、その刃物と茶色いベストは鮮血で染まっていた。

「なんで? こいつ、お前を殺してただの装飾品にしようとしてたんだよ?死んで当然でしょ」

 老人と負けず劣らず、少年の言葉には冷たさがあった。少女は鋭い目つきで遺体を見つめる我が兄を見てため息をついた。

「いつか私もあんたに殺されそう」

「何言ってるの?こんなに可愛い我が妹を殺すわけないじゃん」

少年は少女の後ろに回り、肩に両手を置いた。少女はすかさずその手を振り払う。

「気持ち悪い。離れて」

「ひどいこと言うな……まぁいいや。とにかく帰るよ。父さんも母さんも心配してるんだから」

 2人の人魚は薄暗い地下室から去っていった。後には冷たくなった老人と、いまだに水槽の中を優雅に泳ぐ魚たちだけが取り残されただけだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

標本作家と人魚 旦開野 @asaakeno73

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ