雅等狗
ヘイ
試し話
「お前にゃまだ早い」
カラカラと老人が笑う。
少年は老人の背を追いかけて容赦なく拳を振るう。
「テメッ! このクソジジイ!」
「ほっほっほ……。あっぶな……!」
「ちょこまかと逃げてんじゃねぇ!」
「お前こそ何やっとんのじゃ! 罰当たりめ!」
「テメェ、俺の楽しみにしてた艶本をシュレッダーに掛けやがったな!?」
「まだ早いと言ったろうに……」
屋根の上に登った老人を追いかけて少年も屋根の上に飛び乗った。
「ふざけんなっ! 学生のなけなしの金を舐めてんのかクソジジイ!」
「なら、艶本を買うなと言っておこうかのぅ」
「よし、ブッ殺す!」
少年は正面にいる下駄を履いた時代錯誤の着物姿の男に向けて走り出す。
屋根の瓦を踏み抜いて。
「ば、馬っ鹿モン!! 神社の屋根を踏み砕くとは……!」
「クソジジイ……、俺の恨みを受け取れやァア!」
跳躍、そして殴打。
屋根を砕く。半径にして二メートル。まともに食らえば全身骨折の可能性がある。罷り間違っても人に向けるような代物では無い。
「相変わらずの馬鹿力! 骨が折れるわい」
「そうかい。首の骨折って、今から楽にしてやんよ!」
「……どれ、ちと儂も本気出すかのう」
さて、この凄まじい攻防。
原因は老人が少年の楽しみにしていた艶本、分かりやす言うのであればエロ本を勝手にシュレッダーに掛けてしまったことから始まったのだが、この戦闘行為は段々と規模が広がりつつあった。
少年は殺意こそあれどまだ本気を出しておらず、老人もまた本気などとはかけ離れている。
「『惑わせ霞』……」
「あ〜っ! くっそ、苦手なんだよなぁ。こう言うねちっこい奴……」
ガシガシと後頭部を右手で掻いてから、やがて息を大きく吸って吐き、屋根を全力で踏み砕く。
大気が震動する。
浮かび上がる瓦を砕き、砕いたカケラを絨毯爆撃の如く蹴り放つ。
「だからクソジジイとは気が合わねぇ……」
「そうじゃの、儂もお前とは分かり合えんと思っておったわい……。じゃからシュレッダーにかけた」
いつの間にやら足元に老人は居て、少年の足を引く。ガリガリ壁に擦り付けながら、投げ飛ばす。
「もうここまで来おったら神社の破壊など二の次じゃわい! 『
投げ飛ばされた少年の目には氷の花が咲き散る様相が映る。これが当たればまず間違いなく、身体はズタズタに切り裂かれる。
「何が純愛じゃ! NTRの良さに気がつかぬとは青いのぉ」
「回りくどい手ばっか使うから正面突破でぶち破られんだ────」
老人の腹元。
懐に少年の右足。その構え、通称ヤクザキック。破壊力は並大抵のものでは無い。
「────ぞっ!」
しかし、手応えがない。
「『擬似ダルマ』。初歩的な技だぞい?」
「〜〜っ!! ああ、ウッゼェ!」
「ほっほっほっ。当たったら死んどったわ」
「いい加減当たれ! そしたら楽になるからよォ!」
「まだ死ねんわい。せめて
「要らねっての! 変化技とか俺使わんし!」
少年、──雅等狗は老人の言葉にため息を吐く。互いの距離は五歩半。
「『擬似ダルマ』使えたら死ぬの?」
「いや、それはない」
「けっ……。んなこったろぉと思ってたよ」
「……『擬似ダルマ』、使えておったら、ここの神主はお前の親父じゃったろうて……」
「……チッ。んな話しても、どうにもならねぇだろ。今の神主は俺だ。……でも、最低『擬似ダルマ』は覚えてやる。そんでアンタの技術は残しておいてやるよ」
「楽しみにしておるわい」
雅等狗の父は死んでいる。
彼は死を見た事はない。
雅等狗にとって父は最強だった。目指すべき指針だった。
だが、死んだ。
慢心、故にだったのだろうか。
だから、雅等狗は父を反面教師とした。好きだった父を憎むように、嫌うようになった。自らは同じ轍を踏むまいと。
必死に。
「クソ親父に出来なくても、俺にゃ出来る筈なんだよ!」
深い夜になっても雅等狗は模索する。
何故出来ない。
出来るはずなんだと。
木に頭を打ちつける。
「雅等、狗────!」
「じ、ジジイ? な、何だよ?」
突然に声をかけられて隠れて修行をしている事がバレたのではないかと雅等狗は焦りを見せる。
「逃、げろ……」
「は?」
逃げろ。
逃げろとは何だ。
ニゲロ。ニゲろ。にげろ。
理解が蝕まれる。
雅等狗には、飄々とした祖父が命の危機に陥ると言うことを想像できていなかった。何がある。
なら、逃げろというのは。
「どういう事だよ。おい、どう言う事だって聞いてんだよ!?」
「雅等狗……!」
「ジジイ! お前が死ぬのかよ! あり得ねぇだろ! いつもヒョイヒョイ躱して、避けて! 今回も、今回もっ、同じだろ!」
「逃げっ……」
ヒョイと闇に飲まれて消えていく。
何が起きた。
理解はやってくる。奇妙で奇怪で、理不尽な怪物が闇夜の隙間から唾液と共に唇を血で濡らしてやってくる。
ぷつぷつとイボの多い男性器を股座から生やしている。腹には巨大な口。肥満体型の顔のない人型。
顔の無いと言ったものの、真っ赤に充血した巨大な目がギョロリと覗く。
手足にはイボガエルのように大きなイボが多く、怪物の背中には赤いイクラのような丸がビッシリと敷き詰められたかのように並ぶ。
身の丈三メートルはあるであろう巨体、横にも大きく膨れている。
「な、んだよ、お前……」
怪物がそこに立っていた。
雅等狗の脳を理解不能と気持ちの悪さで満たしていく。漂うかおりは性臭と血の匂い。どす黒い邪悪は腹についた口を三日月のように釣り上げて、弧を描く。
「ギャ、ヒャ、ヒャ、ァ!」
体型からは想像も出来ないほどの高速移動。時速八十キロメートル。
近づいた怪物により、張り手が見舞われる。
「いってぇ……」
逃げる。
あり得ない。
祖父を殺した怪物を野放しにするなど。
「それに、俺は神主なんだよ! クソ親父もクソジジイも超える神主になるんだ!」
吼えて、立ち上がる。
性に合わないと思いながらも彼は訓練し続けてきたのだ。
「ぁ、ァ、あ、ア……!」
化け物は雅等狗に迫る。
そして、巨大な口で雅等狗の身体を食いちぎってしまう。
「『縛り霜』! ……くそっ、こっちはまだ出来ねぇか! なら、こいつで死ねやァァアアアア!!」
雅等狗による全力の蹴りが怪物の背中から貫通し、口から足が生える。
「ギゲァ……?」
奇妙なものだ。
この怪物がこの程度で終わるとは思えない。まだ、何かが。
慢心はしない。
ボコッ。
「は?」
何の音だ。
足を引き抜き、怪物から距離を取る。音がしたのはすぐ近くだった。
「おいおい、嘘だろ……」
背中についた卵から次々と小さな怪物が姿を現す。嫌悪すべき生命の誕生。
現れた生命の紡ぐ音は何処か、彼の祖父の声を思い出させる。
「……趣味の悪りぃ、化け物共が!」
薄明の空の下、血に濡れた彼はただ一人怪物どもの骸の上に座っていた。
やり切ったような顔をして雅等狗は空を見上げたのだ。
雅等狗 ヘイ @Hei767
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