私に迫る謎の影

@yamakoki

私に迫る謎の影

「うーん……いい気持ち!」


 ベランダに出ると、春の爽やかな暖かい風が頬を撫でる。

 高校を卒業してもうすぐ二週間。

 もう少しで大学の入学式ということで、私は一人暮らしをすることになった。

 いくつもの不動産屋を巡り、ようやく大学の近くのアパートを借りられた。


 先ほどまで部屋に所狭しと積みあがったダンボールの開封作業を行っていたのだが、さすがに疲れてしまった。


「あっ、お隣さんに挨拶しておかなきゃ」


 こういうのはしっかりしておかないと、トラブルの原因になったりするからな。

 気分転換にもちょうどいい。

 室内に戻り、菓子折りが入っているダンボールを探す。

 

 この辺りは実家周辺よりも物価が高いので、引っ越す前に近所のスーパーで手頃な菓子折りなんかを買ってきていたのだ。


「えっと……ああ、あった。私ってばナイスよね!」


 昨日、食材を買いに行くついでに値段を調べてきたが、二倍近い差があった。

 つくづく買っておいてよかったと思うよ。

 自画自賛を挟みつつ、私は菓子折りを持って左隣の部屋のチャイムを鳴らす。

 ピンポーンという軽快な音が鳴ってから数秒後、男性の声が聞こえてきた。


「はい、どちら様でしょう?」

「あ、昨日隣に引っ越してきた者です。ご挨拶をと思いまして……」

「なるほど。少し待っていてください」


 それから十秒も経たないうちに扉が開かれ、柔らかい表情の男性が出てきた。

 怖そうな人じゃなくてよかった。

 会ったばかりだから人となりは分からないが、まずは一安心といったところか。


「こんにちは。君が隣に引っ越してきた?」

「はい、天野由梨です。これをどうぞ」

「ご丁寧にありがとう。僕は片山哲郎といいます。隣人としてこれからよろしくね」


 表札をチラリと見ると、確かに片山と書かれている。

 片山さんとは二、三分ほどアパートのルールなどについて立ち話をして、別れた。

 一旦自分の部屋に戻って菓子折りを補充し、今度は右隣の部屋へ。

 同じようにチャイムを鳴らすと、不愛想な女性の声が聞こえてきた。


「はーい、誰?」

「昨日隣に引っ越してきた者です。ご挨拶をと思いまして……」

「ああ、ちょっと待ってて」


 しばらく経って出てきた女性は化粧が濃くて、夜の街にいるような感じだった。

 面倒そうな目でこちらを見ている。


「あの、昨日引っ越してきた天野由梨といいます。よかったらこれをどうぞ」

「……どうも。私は大野美香。これからよろしく」


 それだけ言うと、大野さんは扉を閉めてしまった。

 廊下にポツンと取り残される私。

 よく分からないけど、トラブルになることはなさそうだと判断し、家に戻る。

 こんな感じで私の新生活はスタートした。


 

 引っ越してきてから二ヶ月が経過した。

 あれから片山さんとは何回か話したが、大野さんとは会うこともないままだ。

 今日も大学の帰りに片山さんと遭遇する。


「片山さん。お仕事お疲れ様です。もしよかったら、これ飲みます?」

「えっ、いいの? ありがとう」

「友達がくれたんですけど、私は炭酸飲めないので」


 片山さんにコーラを押し付ける。

 私は炭酸飲料を飲めないので、いらないと言ったのだが聞き入れてくれなかった。

 何でもその友達の働き先が発注ミスをしたらしい。


 店側は何とか処理しようと、店員に大量の在庫を押し付けていたのだ。

 だから友達の家にもまだまだ大量のコーラがあるらしい。

 捨てるしかないと思っていたものを引き取ってもらえるなら、ありがたい。

 隣人付き合いを円滑にするための賄賂にもなるし、最善策というものだろう。


「それでは。片山さんも体に気をつけてくださいよ?」

「あ、ああ」


 なぜかぎこちない動きで頷く片山さんを尻目に、私は家に帰ろうとした。

 すると家の扉の前に大野さんが仁王立ちしている。


「大野さん、お久しぶりですね」

「……そうね。話は変わるけど気をつけて。家にはちゃんと鍵をかけておくことね」

「え、ええ」


 一応は女子の一人暮らしだから、日頃から気をつけているつもりなのだが。

 大野さんから見れば、まだまだ不十分だということなのだろうか。


 しかし、大野さんの意味深な発言があった次の日から私の生活は一変した。

 私の身の周りで不審なことが多発するようになってしまったのだ。


 ある日は『愛』という一字だけが書かれた手紙が何枚も投函されていた。


 その翌日は家のドアの取っ手のところにケーキの入った袋が吊るされていた。

 しかも明らかに手作り。


 さらに翌日には家のドアの鍵穴が傷ついていた。

 誰かがピッキングでもしようとしたのだろうか。

 気持ち悪すぎて、その日から私は戸締りに過剰なほど気を配るようになった。


 だが、本当の恐怖はここからだった。

 家にいるのが怖くて、夜遅くまでバイトをしていたのだが、それが裏目に出た。

 

 ある日、家に帰るとまたたくさんの手紙が投函されていた。

 ただし書かれていた文字は『愛』ではなく、『呪』。

 赤い文字で『呪』とだけ書かれた手紙が五十通近く届いていたのである。

 本当に怖いし、本当に気持ち悪い。

 

 さらに翌日には部屋の家具の配置が変わっていて、本格的に帰るのが怖くなった。


 だって引き出しは窓際になんておかない。

 ベランダに繋がる扉がふさがっているじゃないか。

 包丁だって一番下の戸棚に入れてたはずなのに、なぜ一番上の棚に入っているの?


 今日はネットカフェにでも泊まって、明日警察に相談しよう。

 そう思ったところで、家の鍵がガチャンと開く音がした。


「えっ……」


 この部屋の合鍵は私しか持っていないはずなのに、どうして鍵が開いた!?

 大家さんか?

 いや、大家さんであれば必ずノックをしたり、チャイムを鳴らしたりするよね。


「きっと気のせいよ。気のせいに違いないわ」


 自分に言い聞かせながら、玄関に繋がる扉を開けた。

 目の前に影。


「ひっ!?」


 思わず叫びそうになったが、影が手に持っているものが寸前で踏みとどまらせた。

 開け放たれているカーテンから差し込む月光を受けて、鈍い銀色に光っている。

 まごうことなき包丁だった。

 影は素早い動きで私を突き飛ばすと。玄関に繋がる扉を自分の体で塞いだ。


「――っ!」


 リビングに閉じ込められた。

 影は指先で包丁を撫でると、ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。

 月光に照らされてその素顔が明らかになった。


「……片山さん!?」

「酷いじゃないか。僕の愛を受け取っておきながら、僕のことを避けるなんて!」

「はっ……? 何を言っているの?」


 目の前の男のことが分からない。

 愛を受け取ったって……私は片山さんに愛を囁かれたことなんてないんですけど。


「僕からの手紙、受け取ってくれたでしょう? 愛のこもった手作りケーキも!」

「あれはあなたの仕業だったのね!?」

「そうさ。僕の精一杯の愛の気持ちさ! 喜んでくれたかい、マイハニー?」


 ヤバい、気持ち悪すぎる。

 今すぐにでも助けを呼びたいが、そうなれば私の命は絶たれてしまうだろう。

 彼の手に握られている包丁によって。


「えっと……」

「まあ、喜んでくれたかなんてどうでもいい。僕らは愛し合っているんだから」


 彼の目は狂気に歪んでいる。

 ずっと後退りを続けていた私の背が窓ガラスにぶつかった。


「どうして逃げるんだい。そんなに僕の愛が嫌か……。だったら仕方がないな」

「えっ……?」

「君をこの包丁で殺して、一生僕のものにしてあげるよ」


 あっ、終わった。


 逃げようにもドアは遠すぎて、間違いなく後ろから刺されるだけだろう。

 そもそも包丁を持っていない左手が窓ガラスにつけられていて、逃げられない。

 人生初の壁ドンが、こんな命の危険を感じるものだなんて。


「さあ、永遠にお休み!」


 片山さんが包丁を振り上げる。

 目を閉じて歯を食いしばったが、永遠に痛みはやってこなかった。

 恐る恐る目を開けると、片山さんを青い制服を着た多数の男性が抑え込んでいた。

 しばらく呆然としたままそれを見つめていると、私にコートがかけられる。


「よかった。どうにか間に合ったわね」

「大野さん……?」


 そこに立っていたのは大野さんだった。

 いつもの濃い化粧も面倒そうな目もなく、キリっとした顔つきをしていたが。


「本当に申し訳ないわ。これは私たち警察の不手際ね」

「えっと……どういうことでしょう」


 その後、大野さんが語ってくれた事実はこうだ。


 私を殺そうとした片山哲郎は二年前の強盗殺人事件の有力な容疑者だったようだ。

 被害者は当時二十二歳の女性。

 腹部を刃物で刺されて死んでいるのを家賃の集金にきた大家が発見。

 当時、被害者の隣人だった片山哲郎に疑いがかかった。


「でも、その時は証拠がなかったの。だから私が囮として捜査することになった」

「だからあんな濃い化粧を……」


 被害者の女性は夜の街で働いていたから、大野さんも同じ格好をしていたようだ。

 しかし隣の部屋に入ることは叶わなかった。


「私が入ったから……」

「少し囮捜査が始まるのが遅かったのよ」


 それでも最初は囮捜査は上手くいっていたが、あの日から狂いが生じてしまった。

 コーラをあげたあの日から。


「コーラを渡した後に、体調を気遣ったでしょう? あれがとどめだったみたいね」

「なるほど……」


 ちなみに鍵をかけるように言ったのは、ピッキングで時間を稼ぐため。

 片山さんがピッキングで時間を食っているところを確保する計画だったそうだ。


「でも、まさか合鍵を作っていたなんて……」

「私もまったく警戒していませんでした」


 最近は帰る時間を意図的に遅くしていたから、合鍵を作るのも容易だっただろう。

 もちろんいたずらをするのも。


「でも安心して。これからは私が守るから。……って信用できないか」

「いいえ。私にとって大野さんは命の恩人ですから」


 あの時、大野さんが一人で突入するのは危ないと判断しなかったら死んでいた。

 暴走する片山さんを取り押さえられなかっただろう。


「そう言ってくれると嬉しいわ」


 大野さんが笑う。

 こうして、私を恐怖のどん底に叩き落した不審者事件は終わりを告げた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

私に迫る謎の影 @yamakoki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ