憂いの厄災


 どうしたのだ、アニエル……。

 "黒豹"エヴァンゲレス・マチルダは岩陰でそっと敵軍を監視しながら、偵察に向かったまま戻らない部下の身を案じた。

 荒れた岩肌を闊歩しながら此方に向かって来るのは、ド・ゴルド帝国の〈ドワーフ〉たちであった。〈ドワーフ〉の軍は各々が勝手気ままに動き回り、およそ規律というものが見られない。身に付ける甲冑も、携える武器もバラバラだった。

 ただ、一つだけ確かな事があった。それは〈ドワーフ〉たちの先頭を進む巨大な雷獣に跨がった大男が彼らのリーダーだと言う事だ。彼の怒号と共に、あの荒くれどもは一斉に戦闘を開始する。

 どうする……?

 エヴァンゲレスは奇襲を仕掛け、リーダーの男だけでも始末出来ないだろうかと考えた。

 このまま〈ドワーフ〉軍が進軍すれば、およそ半日ほどでサマルディア王国の国境付近に辿り着くだろう。万が一、国境の壁を越えられれば、サマルディアの哀れな民たちは悲惨な運命を辿ることとなる。民の避難と援軍の到着を間に合わせるには、ここで〈ドワーフ〉軍を足止めする必要があった。

 だが、ここは……。

 エヴァンゲレスは迷っていた。奇襲には別の危険が伴うからだ。

 エヴァンゲレスの小隊が待機し〈ドワーフ〉軍が進行するこの地点は〈ゴブリン〉の領土であった。ここで〈ヒト〉側から奇襲を仕掛けて戦闘を開始すれば、最悪の場合〈ゴブリン〉をも敵に回す恐れがあった。もしそうなれば、サマルディア王国に勝ち目はない。

 何故、奴らは〈ドワーフ〉軍の横断を許した? サマルディア王国とド・ゴルド帝国が本格的な戦争になれば、奴らの領土も只では済まないというのに……。

 〈ゴブリン〉は特定の国を持たない遊牧民であった。

 キルランカ大陸北西に位置するサマルディア王国と、東に位置するド・ゴルド帝国の間には、砂漠や荒野、岩山など荒涼とした土地が広がっている。〈ゴブリン〉はそこで特定の国を作らず、勝手気ままに暮らしていた。当然、国境などは存在しない。

 だが、誰も彼らの土地には手を出さなかった。それは彼らが恐ろしい戦闘集団だったからである。

 〈ヒト〉とルーア連邦共和国が戦争していた頃も、誰も彼らには触れなかった。唯一、ルーア連邦共和国の〈オーガ〉たちが〈ゴブリン〉どもを潰そうと躍起になっていたという。だが〈ヒト〉と〈ゴブリン〉を同時に相手にはしたくなかった他の種族たちに止められたのだった。

 サマルディア王国の国境の巨大な壁も、ド・ゴルド王国に存在する堅固な城も、万が一〈ゴブリン〉が侵攻を始めた時の為の盾だった。

 彼らはこの世界の厄災の一つに数えられていたのである。

「エヴァンゲレス様、ここは一旦退きましょう。小隊で奇襲を仕掛けたところで、奴らにダメージは与えられません」

 部下の一人がエヴァンゲレスに進言した。

「分かっておる。だが、もし国境の守りを突破されれば、サマルディア王国は大変な事になる。ここでなるべく足止めをして、王国の防備と民の避難を急がせるべきなのだ」

「足止めも、いくらエヴァンゲレス様のお力を持ってしても、やはり小隊では不可能です。むしろ、ここで貴方様を失えば、我々の大きな痛手となります。一旦国境付近まで退き、そこで大隊と合流して〈ドワーフ〉どもを迎え撃ちましょう。他の最上級魔術師の方々もすぐに援軍に来るはずです、そうすれば〈ドワーフ〉など恐るるに足らず、必ず撃退出来ます」

「果たして間に合うか? 今は大陸の方でも問題が発生しているのだ」

「……信じましょう。どのみち、ここで騒ぎを起こして〈ゴブリン〉どもまで敵に回すわけにはいきません」

「……うむ、分かった」

 エヴァンゲレスは隊に撤退を命じた。

 アニエル、無事に帰って来い。

 エヴァンゲレスは最後に後ろの荒野を振り向いて、部下の無事を祈った。

 

 会議が終わると、アンナは消えた。

「おい! すぐにアンナを追え!」

 〈ヴァンパイア〉の王ルドルフ・シャングラドは慌てて立ち上がると、他の代表者たちを怒鳴りつける。

 エンシスハイムはカッとなった。堀の深い顔を髪と同じ赤銅に染めると、テーブルを破壊して怒鳴り返す。

「お前が行け! この馬鹿もんが!」

「なんだと貴様? 暇な貴様と違って私はエメリヒ様の元へ行かねばならんのだ! 分かったらさっさとアンナの城へ向かわんか! このドアホが!」

 エンシスハイムはふっと巨体を前に揺らした。一歩でルドルフの眼前に移動する。その拳は既にルドルフの赤紫の頬を捉えていた。

 勢いよく壁に叩きつけられたルドルフは、すぐに体勢を立て直した。そして、エンシスハイムの手足を潰そうと圧縮魔法を展開する。だが〈オーガ〉の軍隊長は何事も無いかのように太い指をボキボキと鳴らしながらルドルフに歩み寄った。

「辞めんかぁ戯けどもぉ!」

 全身を覆う灰色の毛を逆立てて咆哮を上げる〈ビースト〉のタルピオス・ギーシャ。宮殿の豪奢なガラス窓が砕け散ると、ルドルフとエンシスハイムは五月蝿そうに耳を閉じた。

「よいか、ワシがナスリー坊と共にアンナの城にむかう。ルドルフ、お主は直ぐにエメリヒ殿の元へ向かえ。エンシスハイム、貴様はすぐさま自軍の兵を整えて〈ゴブリン〉どもを警戒しろ、あ奴らが混乱に乗じて何を仕出かすか、分かったもんではないからな」

「はん、あんな虫けら共、とっとと潰してくれるわ」

 エンシスハイムは高笑いすると、ルドルフに中指を立てて宮殿の裏口から出て行った。

 白い鱗を明るく反射させる〈ラミア〉の王子ナスリー・ア・ディーンは、タルピオスの言葉に露骨に顔を歪めた。呪いの発動した色欲の魔女には近づきたくなかったのだ。

「他の方々には、先ず自国への連絡を急いで頂きたい。さあナスリー坊、行くぞ!」

「えー」

 タルピオスは嫌がるナスリーを引っ張って宮殿の外へ出た。他の代表者たちも各々に立ち上がる。

 ルドルフは宮殿を飛び出ると、眩しい日の光に一瞬目を細めてから、転移魔法で教会跡に飛んだ。

 教会の地下道に降りたルドルフは、手首の裾を上げると紫色の皮膚に爪を立てた。ポタポタと赤い血が石畳の上に垂れ落ちる。血は石の上で寄り集まって苦しむようにもがくと、地面に飲まれていった。

 血が消え去ると、スッと黒い影が地面から溢れ出した。影は渦を巻いてルドルフを飲み込むと、地の底に消えていく。

 気が付くとルドルフは暗い森の中にいた。木々は折り重なるように密集し、無数の葉が空を覆っている。

 振り返ると、仄かに明るく照らされた小道があった。ルドルフは左右の木々に触れないように、ゆっくりと小道を進んでいく。

「やあ、クファ」

 ルドルフは、道の脇に横たわる苔の生えた髑髏に挨拶をした。右目の穴で細長い胴の虫が蠢いている。

 道は少しづつ広くなっていった。

 森の何処からか弦楽器の奏でる美しい旋律が流れてくる。すると、道の脇で規律を持ったように整然と並んでいた木々が、一斉に太い幹を捻った。赤い樹液が木の葉から流れるように道に垂れ落ちる。樹液はルドルフの体に当たると赤い宝石となって地面に転がった。ルドルフは、それらを気にも止めず歩き続けた。

 弦楽器の旋律が大きくなっていく。リズミカルだった優しい音色は次第に荒ぶり、やがて激しく叩き鳴らすような高音となった。空間が音の波長に揺れる。

 バンッと弦が千切れる音と共に静寂が森を包んだ。

 ルドルフは沈黙する森を更に進むと、崩れかけた小屋に辿り着いた。屋根は苔で埋まり、木の板を並べたような簡素な壁からは枯れ草やキノコが生えている。

「エメリヒ様、ルドルフ・シャングラドが参りました」

 小屋の壁際に転がる髑髏が声を出した。横には弦の切れたハープが落ちている。

「入ります」

 ルドルフが開け放たれた小屋の入り口から、中に足を踏み入れた。そして小屋の奥に向かって一礼する。

 小屋の中は荒れ果てていた。足の折れたテーブルは土埃を被り、小屋の隅には椅子の破片が転がっている。崩れた棚の下では色褪せた食器が埃に埋もれ、隙間だらけの壁には枯れた花が飾られていた。

 小屋の奥にはカビの生えた大きなソファがあった。そのくすんだ赤いソファに身を委ねるようにして座る巨大な骸骨。黒い衣に黒いシルクハット。骸骨は天井に届くほどの巨体であった。

「よく来た。まあ、ゆっくりしていきなさい」

 エメリヒ・フローレス・カラヴァッジョは、暗く窪んだ虚の両眼をルドルフに向けた。

 

 アンナ・ジャコフスカヤは、オリビアの栗色の髪を櫛でといた。

「オリビアの髪ってほんと、さらさらで綺麗よね」

 アンナはオリビアの頭を撫でながら、ほぅっとため息をついた。

 ベットに腰掛けるオリビアは、関心が無いかのように部屋の隅を見つめている。

「ねぇオリビア、あなたの髪の色に合うようにお洋服を仕立てましょうよ。ああ、それが良いわ。きっともっと綺麗になるわよ、オリビア」

 アンナは愛おしそうにオリビアの髪を撫で、そっと後ろからオリビアの身体を抱きしめた。

「ああ、良い匂い。ねぇオリビア? 今度、ミーファの海岸に行きましょ? そこってね、凄く見晴らしが綺麗なの。そこで陽の光を浴びながら、波の音を聞くの。私はいつも一人で楽しんでいたけど、あなたも一緒なら、もっともっとあの海岸も素敵な場所になるわ。ねぇ、きっとそうよ、二人だけの秘密の場所よ? オリビアもきっと気にいるわ……」

 アンナはオリビアと共にベットで横になった。そっと瞳を覗き込む。彼女の瞳はくすんだ紫に揺れていた。

 ちゃんと私を見てくれているのかな?

 アンナは気になったが、口に出せなかった。

「ねぇオリビア……ずっと私の側にいてくれるよね?」

 オリビアは返事をしなかった。呪いのせいでしょうがないとは分かっていても、アンナは悲しくなった。オリビアの痩せた身体をギュッと抱きしめる。

「オリビア、お願いだから何処にも行かないで! 絶対に、絶対にあなたを幸せにしてあげるから、私を一人にしないで……」

 早く、早くオリビアを幸せにしてあげないと。……また、置いてかれちゃう。

 嫌! そんなの嫌!

 ゆっくりと目を閉じたオリビアは静かな寝息を立て始める。

 その胸元に顔を埋めたアンナは嗚咽して涙を流した。

 


 

 


 


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