魔女の誕生
ユートリア大陸の南西に位置する広大な湿原。作物の実らないヘドロの沼地には危険な霊獣が身を潜めており、ごく僅かな〈ヒト〉を除いて、そこに住む者はいない。
──花舞い清水湧く青の地、憤怒の炎にて赤の沼と化す──
大陸を統べるエスカランテ家二十八代当主、ミハエル・ヴァン・エスカランテの住まう王宮の書庫の一角に置かれた史書「大陸と七つの呪い」に記された一節である。
湿地の奥には焦土魔法で焼かれた丘があった。常に見張りがつくその丘は、憤怒の魔女が生まれた地と伝承されている。
無人の丘を取り囲む甲冑を着た兵士たち。エスカランテ家直属の精鋭と、近隣諸国から集まった近衛兵。輝く剣を腰に銀色の盾を左手に携えた彼らは、その時を、緊張した面持ちで待ち続けていた。
エスカランテ王国の顧問官。馬の背に腰掛けたゴートン・シャルナードは、気怠そうにズボンの裾にかかった泥を落としていた。エスカランテ王国が誕生して五百と数年。魔女の継承の儀の失敗は一度もない。
「ゴートン様、クライン・アンベルク様からの報告が届きました。ミアの父母が天に重なる槍の刻を、憤怒の魔女の最後とするとのことです」
「そうか」
ゴートンは目を細めて空を見上げた。地上を照らす二つの太陽は、ちょうど互いに接触し始めているところだった。
「憤怒の魔女は槍の刻に現れる! 全軍! 戦闘態勢!」
ゴートンは声を張り上げた。横に立つ上級魔術師は拡張魔法の呪文を唱え、ゴートンの言葉を復唱する。
兵士たちは武器を持つ手に力を込めた。
城塞都市アランの城の地下深く。
クライン・アンベルクは、既に息も絶え絶えとなった魔女の横に腰掛けた。骨と皮ばかりになった魔女の背にそっと手を置くと、哀れな魔女への同情心を奥歯でグッと噛み締める。
「魔女よ。もう、楽になりなさい」
危険だと思いながらもクラインは、先ず、回復呪文を唱えた。絶え間なく動いていた魔女の瞳がゆっくりと止まる。
さらば……。
祈るように目を瞑ったクラインは、死の呪文を唱えた。
「どうなっている?」
湿地では兵や魔術師が騒めいていた。泥を足で踏み荒らしながらゴートンは先ほどから丘の上を歩き回っている。
「憤怒の魔女は何処だ!」
既に、天に交差していたミアは別れ、それぞれの方向に落ちている。ゴートンは焦ったように爪を噛んだ。
「おい! 魔女は確かに死んだのだな」
「は、はい、クライン様に何度も確認をとっております。師はすぐにでも此方に向かわれるとおっしゃってます」
クラインの弟子であるアリシア・ローズはツバの広い帽子を深く被り直し、落ち着きを失ったように視線をあちこちに動かした。最も若い最上級魔術師であるアリシアは、この失敗で師匠のクラインに怒られるのでは無いかと心配していたのだ。
お、おしゃれなんてして来るんじゃなかったよ……。
湿地の泥を服に塗りたくり始めた少女に慌てて年上の部下が止めに入る。
「クライン様がお見えになりました!」
魔術師の一人が声を上げた。燃え盛る赤い鳥が猛スピードで此方に向かってくる。長い杖を握り直したアリシアは姿勢を正した。
赤い鳥は丘の上に到着すると、ふっと炎を消して反転し、背の高い老人の姿に変わった。
「どうなっておる!」
クラインは先ず、泥だらけになっている愛弟子に向かって声を張り上げた。
「すいません!」
取り敢えず、アリシアは全力で頭を下げてみせる。
「すいません、では無いわ! どうなっておるのかと聞いておるのだ!」
「わ、わかりません」
アリシアはわっと泣き出した。
「そちらこそ、どうなっておるのだ? 憤怒の魔女はちゃんと殺したのであろうな?」
ゴートンはギロリとクラインを睨みつけた。髪は乱れて、服は泥に塗れている。
「魔女の死は確かだ。その後、呪いが南に流れていくにも確認した。だが、何故ここにおらんのだ? やはり文献が間違っていたのでは無いか?」
「文献に誤りがあるのならば、とっくに〈ヒト〉は滅んでおるわ! 何か合ったのだ! クライン・アンベルク、何とかせんか!」
ゴートンは取り乱していた。それを見たクラインは多少の冷静さを取り戻す。長い顎髭を撫でる背の高い老人。
「アリシア、お前の目で呪いの痕跡を見てみなさい」
「……ふぇ?」
「空間転移魔法で何者かに魔女の位置が移されておらぬか、確認するのだ!」
「ふぇーん」
アリシアはメソメソと小言を言うと、地べたにへたり込んだまま空間透視魔法と時空回帰魔法を併用した。最上級魔術師のアリシア・ローズは、まだ少女ながらも魔術追跡のエキスパートだった。
「ひっ……ひっ……ぐすん……ん? あ、れ? 赤黒い……魔力の残穢? 何だろ?」
「何か見えたか!?」
「何か、呪いの残りカスみたいなのが見えます。何だろ、これ? 百年前の魔女のもの?」
「それは、何処に向かっておる!」
「うーん、南の方にざらざら流れていってますね。微かですけど」
「ここから南だと?」
クラインとゴートンは一斉に南の方を向いた。湿地の向こうには海が広がっており、その遥か向こうには様々な種族の暮らすキルランカ大陸がある。
「確か、か?」
「はい、やっぱりざらざら流れていってます。わあ、すごい! 亜空間魔法の痕跡がある!」
「あ、亜空間魔法だと……!? 〈エルフ〉か!」
クラインとゴートンは顔を見合わせた。
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