4-6

 朝一番で近所の写真チェーン店に飛び込み、インスタントカメラの現像を依頼した。一時間程度で現像を終えられると説明を聞いて、真はその足で図書館へ向かう。

 八月二十六日。待ち合わせの時間は決めていなかったので、真はなるべく早めに家を出た。図書館が開館してすぐに中へ入り、借りていた本を返して入り口の見える席につき、傍にあった適当な本を読んだ。中国の武将の伝記物語は頭に入って来ない。入り口をちらちら見ながら適当なタイミングでページを捲る作業を繰り返していると、帽子を目深に被った女の子が入ってきた。ラフなTシャツにクロップドパンツ姿の地味な恰好をしていたが、艶のある黒い髪が二房見えたので真はすぐに顔を上げた。帽子の下から見慣れた目つきが現れて、示し合わせていないのにすぐ二人は視線を合わせた。真は何故だか無性に泣きたくなって、詰まる息をぐっと飲み込み席を立つ。二階へ行くためにその子に背を向けた。

 本を返却台に返してゆっくり歩いていると、無言で後ろをついてくる足音がある。振り返らずゆっくり階段を上って二階へ向かい、PC利用エリアのブースに入ってからやっと振り返る。どうかそこにいますように――。

 同じく泣き出しそうな顔をした理緒が飛びついてくるのを、真は全身で受け止めた。華奢な腕が背中にすがりついてきた。か細い声が言う。

「良かった。もう二度と会えないと思った……」

「俺も。会えて良かった、本当に」

 男子と女子がくっついているというのに、真も理緒も照れることはなかった。男女のそういうことには、お互いもう飽き飽きなのだ。赤い目元で見合って笑い、身体を離して席に座る。ブースの中に姿を隠してから、カモフラージュにPCの電源を入れた。理緒が興奮気味に言う。

「仙人からフレンドコード聞いたの? びっくりしたよ、鷺岡くんがロケモン始めるなんて」

「親父からの慰謝料で買って貰った。欲しいゲームを要求してやるって前に言っただろ? ゲーム機だけだと遊べないだろって、ソフト一本つけてくれるって言うから、ロケモンにした。佐生があんなに熱弁してたし」

「ゲーム機、慰謝料……。それって口止め料も兼ねてってこと? やっぱり鷺岡くんのとこも、親にバレたの? 私たちが不倫を探ってたこと」

 頷いて、真は信治に聞かされたことを説明した。信治は家族に不倫のことを隠すために、佐生夫婦に慰謝料の請求はせずに自分だけが慰謝料を支払うつもりでいる。計画外に不倫のことを知ってしまった真には、口止め料と慰謝料を兼ねてゲーム機を買ったのだ――そこまで語ると、理緒は不機嫌を隠そうともせずに眉根を寄せた。

「なるほどね、うちの両親に慰謝料を……。私はそんなこと全く聞かされてない。ただ勝手に塾をやめさせられて、今は家庭教師をつけられて家から出ないように監視されてる。ろくに会話もなしに、不倫のことには二度と口を出すなって念押しされて、それだけ。なるほどね、やっぱり叔父さんが告げ口してたのか、あのクソジジイ。――今鷺岡くんの話を聞いて確信した。あの人たちはこれ以上事を荒立てたくないんだよ。何事もなかったようにこれまでの生活を続けたいから、私たちがこれ以上会ったり話したりするのを邪魔したいんだ」

「それって」

「もちろんおかしいに決まってる! だってろくに謝ろうともしないで、うやむやにして逃げようとしてる。うちの両親に至っては、自分だって悪いのに慰謝料も払わない気でいるんだから。反省なんかしてないしこんなの私たちが望んだ結末じゃないよ。まさか鷺岡くん、ゲーム機買ってもらったからって許そうなんて思ってないよね?」

 真は即答できなかった。「そんなこと」弱気に呟いてから、首を振って本音を吐く。

「……本音を言うと、ちょっとだけ、もういいかなって思った。親父は俺に頭を下げて謝ったし、ゲーム機も買ってくれたし、それにもしも俺が親父だったらさ、妻にも娘にもバレずに済む方法があるなら、それが良いって思うだろうし」

 正気を疑うような声を出された。「鷺岡くん――」

「だけど許せない気持ちはあるよ。親父はやられっぱなしで良いのかって、うちの親父だけじゃない、お前らみんな並んで俺らに謝れ、土下座しろって。でも……なあ、どう思う佐生、ミノは」

 鼻がつん、とする。

「実は。妹はどうなるんだろうって、ずっと考えてた」

 言葉が切れるのと同時に、じわりと視界が滲んだ。目の前で理緒が痛ましげに目を見張る。

「俺はもうそこそこ大きいから理解できるよ。親父の不倫。でも妹はまだ二年生なんだ。親父が不倫してたって知って、それが理由できっと母さんが親父を嫌うことになって、いよいよ家族が壊れたとき、あいつは耐えられんのかな? だってまだあんなに小さいのに」

 握りしめた手のひらにぎゅっと爪を立てる。

「分かってるんだ。このまま黙ってたら親父は実を傷つけたことを実に謝りもしないで過ごしていく。それはずるい。でも俺達が全部を暴露して事を大きくして親父に謝らせようとするなら、実は嫌なことを知らされて、多分もっと傷つく。俺は余計なことしない方が良いかもって、でも……。ああくそっ、あいつらが不倫なんかした時点で、俺らもミノも、結局傷つけられるしかなくなってる」

 握りしめて骨の浮き出た拳の上に、理緒の冷えた両手が覆い被さる。

「私は……きょうだいとかいないからわかんないけどさ。でもきっと、傷ついたとしても、本当のことは知りたいんじゃないかと思うよ。だって大人が不倫のことを隠そうとしたとき、私達、それに腹を立てて無理やりに証拠を探ったでしょ? ましてやこんなうるさい鷺岡君の妹さんなら、きっと同じ気持ちになるんじゃないかな」

 水滴の乗ったレンズ越しに顔を覗き込んで理緒が言う。

「それに……妹さんの気持ちを知ろうとしないまま勝手に隠し事をするのは、私達の親と変わらない。それは、私たちが一番やっちゃだめなことだ」

 ――全く、その通りだ。

 拳から剥がれた手のひらが持ち上げられ、優しく頭を撫でられた。

「うん……ありがと……佐生ありがとう……」


 図書館を出て写真屋へ向かい、現像した写真を受け取った。封筒の中の確認をしてから、理緒の提案で保険に写真をコピーすることになり、再び図書館へと戻った。コンビニは人目が怖いから使わない。もうセミの鳴き声が七月のものとは違う、晩夏の歩道を二人で歩く。その鳴き声にも、仰向けに転がっているセミの姿にも気を留めず、少しの沈黙を惜しんで真たちは声を交わしあった。

「これが俺たちの切り札になる。無駄打ちは出来ないぜ、どうやってあいつらに突きつけようか? 目標は俺んちの両親と佐生んちの両親、全員にこれを見せつけて言い逃れできなくさせること……」

「うん。今のままじゃもみ消されちゃうからね。絶対なかったことになんてさせないよ、ギャフンと言わせてやるんだから!」

 理緒がまるで真のようなセリフを言うのがおかしくて、真は少し笑った。理緒は鼻息荒く続ける。

「本当はうちと鷺岡君のところ、二組の夫婦に同時にこれを見せつけられたら良いんだけど……さすがにこれは難しいよね。話し合いに参加できてない鷺岡君のお母さんにだけこの話をするっていう方法も一応考えてはみたけど――」

「うちの母さんもやっぱ、なかったことにしたがるだろうぜ。今までだって見て見ぬふり状態だから、きっと親父だけに慰謝料を払わせて、今と状況を何も変えたがらないと思う。俺らのモヤモヤを晴らすなら、あの時とは違う組み合わせで俺らの親を会わせて証拠を突きつけなきゃ」

「違う組み合わせねぇ……。引き合わせるなら最低でも、唯一この前いなかった鷺岡君のお母さんと、うちの両親のどちらかって感じかな。うちのお父さんは無駄に口が上手いから、口下手なお母さんがおすすめだよ。不意打ちならかなりボロが出やすい人だし」

「それって女同士で話し合わせるってこと? かなりの修羅場になりそう」

「確かに……でも修羅場は仕方ないよ。これが一番いい気がする。私のお母さん何だかんだでそんなに頭良くないから、お父さんがいなきゃ上手く話し合いなんてできないと思うの。現に今回だって、娘に不倫を気づかれてヤバいって思ったから、自分が悪いことを棚に上げてお父さんに相談して弁護士までつけてもらったんだ。――ほんっとヤらしいやつ!」

 理緒の怒りの足踏みで、図書館の自動ドアがこじ開けられた。

 図書館は涼しいが、冷房が効きすぎて少し肌寒くも感じられた。共用のコピー機に写真を挟み、出てくる写真を見つめながらうーん、と頭を捻る。理緒がむっとした顔で溜め息をついた。

「ひとまず時間的な話なら、うちのお父さんもうちのお母さんも終業時間は似たようなものなんだよね。お母さんは夕方五時終業で、お父さんの方がそれより三十分から一時間遅いくらい」

「集まれるかって言う話なら、うちの母さんはいつでも大丈夫だぜ。在宅で仕事してるから、緊急だって言って呼び出せばいつでも来れると思う」

「てことは誰を呼び出すにしても夕方頃を狙えば良いってわけか。……って、いうかさ。うちのお母さんと鷺岡君のお父さんは同じ会社に勤めてるわけだから……」

「……あっ。そっかもしかしたら……」

 二枚ずつ、二人合わせて四枚の同じ写真をコピーし終えたところで二人は顔を見合わせた。

「いける可能性あんじゃねえの、四人同時に集めるの」

 コピーの写真を手に、理緒が悪い顔でにんまりと笑った。

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