第97話 伊織

 領主の「伊織、やめろ! 化け物に近付くんじゃない!」という制止も聞かず、伊織は恐れ知らずな様子で近付いてくる。そうして綾那の目の前まで来たかと思えば、いかにも高そうなテーブルをぐいと押しのけて床に片膝をついた。

 すっかり固まってしまった一行の事なんて、眼中にないのだろう。彼はまるで、物語の騎士のようにうやうやしく綾那の手を取ると、これでもかと蕩けた顔で微笑んだ。


「桃華嬢、私ですよ、あなたの伊織です。覚えていますか? いいえ、覚えていますよね、覚えているはずだ。だって私は、一日だってあなたの事を忘れた事はありませんから」

「あ――あの、いや……ええっと……?」


 綾那は酷く困惑した。自分の置かれている状況がひとつも把握できない――いや、なんとなく把握しているのだが、理解が追いつかない。彼は何故、ここまで素っ頓狂な勘違いをしているのだろうか。綾那の解釈が間違っていなければ、伊織は綾那の事を桃華だと思い込んでいる。

 伊織はますます熱の入った様子で続けた。


「桃華嬢も、私との再会に打ち震えているのですね……なんて愛らしい」

「い、いや、違――そうじゃなくて」

「しかし、あなたは本当に美しくなられましたね。私の予想していた以上です、とても同い年には――妖艶過ぎて、少し目のやり場に困るくらいだ」


 照れくさそうに目線を外した伊織は、口付けるつもりなのか綾那の手の甲に唇を寄せた。すると、ようやく我に返ったらしい颯月が彼の手首を掴んで止める。よほど強い力で握りしめているのか、伊織はグッと顔を歪めて彼を睨みつけた。


「颯月……! 私から桃華嬢を奪った、悪魔憑き――いや、悪魔め!!」

「オイ待て、色々と突っ込みたい事だらけなんだが……とりあえず、俺の綾から離れろ。それ以上触ると代価を支払ってもらう事になる、安くないぞ」

綾だと!? 桃華嬢は私の……っ、ん? ――?」


 何かがおかしいと気付いたのか、それとも、ただ単に颯月に掴まれた手首が痛いのか。パッと綾那の手を離した伊織は、思案顔になった。


 別に汚れた訳でもないのに、騎士服の袖口で熱心に綾那の手を拭う颯月に、苦笑いを浮かべるしかない。綾那は、伊織を挟んだ真正面に座る陽香と右京を見て、窺うように首を傾げた。言葉はなくとも、目で「これは、一体どういう状況ですか?」と語りかけるように。

 揃って呆けた顔をしていた陽香と右京もまた、ハッと我に返ると顔を見合わせた。


「団長の話で、あのお嬢さんとは五つの時に会ったきり、姿を知らない――とは聞いていたけれど……これは、さすがに」


 右京は、頭痛を堪えるような表情で額を押さえている。もしかすると、曲がりなりにも血縁の晒した痴態に、精神的苦痛を感じているのかも知れない。


 やはり、綾那の解釈違いでもなんでもなかったようだ。彼――伊織は、五つの時桃華に一目惚れした。もちろんその時、桃華も五歳の幼女だ。

 当時から既に悪魔ヴィレオールの影響を受けていたらしい彼は、欲望を歪められて「どんな手を使ってでも桃華が欲しい」と、彼女の両親に圧力をかけた。しかし桃華の行く末を案じた両親は、生まれ育ったアデュレリア領を捨てて、逃げるように王都へ引っ越してしまう。


「表」と違って電話やインターネットなどの通信手段はないし、移動手段だって徒歩か馬車だけ。しかも街の外へ出れば、魔物や眷属と出会う危険性もある。愛する桃華と再会したい、せめて一目見たいと願ったところで、気軽に行き来できる距離でもない。

 例えば「転移」を手中に収めた今なら、「桃華の写真を撮ってこい」と命じるだけで、いとも簡単に桃華の姿を確認できたのだが――それだって、ここ一、二か月の事だ。しかも伊織は、桃華の撮影よりも桃華本人を望み、誘拐を命じた。


(彼は、本当に十六歳の桃ちゃんを知らないんだ。でも、婚約については噂になってるみたいだし……颯月さんの隣に居る私を、本命の婚約者――つまり、桃ちゃんと勘違いしているって事……?)


 いくら五歳の頃から一度も会っていないと言っても、果たしてそんな事がありえるのだろうか? 桃華と綾那は、何から何まで違うのに。


 まず、年齢が五つも違う。ただでさえ『お色気担当大臣』を拝命している綾那だ。その顔は童顔とは程遠く、むしろ上に見られる事の方が多い。もし本気で十六歳だと思っているならば、どうかしているとしか言いようがない。

 身長も綾那の方が十センチほど高いし、体重に関しては言及したくないレベルだ。髪色も、リベリアスでは珍しすぎる水色で――瞳の色だって、桃華とは違う。まるで悪魔憑きのようだと評される桃色の瞳を見ても、気味が悪いとは思わないのだろうか。


「どういう事だ、桃華嬢じゃない……のか? いやでも、彼女の母上はこういう、妖艶な女性だったはず。桃華嬢だって、こうなるに違いないのに――」


 ぶつぶつと独り言に近い声量で悩み始めた伊織に、綾那は「え?」と首を傾げる。


(桃ちゃんのお母様って、アイドクレース細身の女性なんだけど……失礼ながら、妖艶とは言い難いような――)


 ちらりと颯月を見やれば、彼は合点がいったと納得するように頷いた。


「桃華の母上は、元々アデュレリア領に住んでいた。つまり、引っ越してきた当時はまだ、正妃サマに毒されていなかったんだ」

「毒され――ちょっと、颯月さん! 本人が居ないからって、最近不敬が過ぎますよ……!」


 綾那の叱責に堪えた様子もなく、颯月は続けた。


「桃華の母上はな、俺の初恋なんだ」

「初――え?」

「つまり、ウチに越してきた当時――あの人はじゃなかったし、胸元だって今ほど慎ましくなかった。もちろん、綾ほどじゃあないが……それでも、出るトコは出てる人だった。アイドクレースではウケが悪い」


 昔を懐かしむような颯月に、綾那は目を瞬かせる。

 彼の言葉通りなら、桃華母はアデュレリア領で過ごしていた時分、普通体形――むしろグラマーな体形をしていたという事だろうか。それが王都へ引っ越して生活する中で、痩せこそ至高の風潮に染まってしまった。


 目を細めて「初めて骨じゃない女を見た時の衝撃は、凄まじかった。あの時俺は十二、三歳だったか」と頷く颯月に、綾那はますます訳が分からなくなってしまう。


「しかし俺好みだったあの人が、月日が経つにつれて少しずつ正妃サマに近付いていく絶望と言ったら――耐え難かったな。俺一人が「どうか痩せないでくれ」と懇願したところで、領民の総意は正妃サマ万歳だろ? 止められなかった」

「それが、どうこの勘違いに繋がるのでしょうか……?」

「坊ちゃんが痩せ細る前の桃華の母上を見てるなら、「娘もなるに違いない」と思うだろうな。痩せてるのがもてはやされるのは、アイドクレースぐらいだ。他所の領なら普通、綾みたいな女が至高に決まってる」

「つまり――何? 伊織は本気で、成長したお嬢さんがこんな風になると信じていたって事?」


 右京の言葉に、颯月は「だろうな」と頷いて綾那の腰に腕を回した。そして綾那の耳に唇を寄せると、「ああ――今は綾一筋だから、どうか気を悪くしないでくれよ?」と低く囁く。

 そんな心配はしていないし、そもそも心配していい関係性でもない。けれどそんな思いとは裏腹に、至近距離で甘い言葉を囁かれては赤面してしまう。


 人前にも関わらずべたべた触れ合う颯月と綾那を見かねたのか、伊織は勢いよく立ち上がった。


「ど、どういう事なんだ? 説明しろ! お前は、桃華嬢を婚約者にしたんだろう!? であれば、彼女こそが私の桃華嬢であるはずだ!」

「俺が説明する前に、アンタが一人で勝手に盛り上がったんじゃねえか。そもそも桃華の本命は俺じゃなくて、従兄弟の幸成だ――王弟殿下の一人息子の名くらい、分かるだろう?」


 颯月の言葉にギョッと反応したのは、いまだ入り口に突っ立っている領主であった。王族の愛する女性という事はつまり、このまま桃華に手出しを続ければ法律で裁かれる可能性がある――それを察したのだろう。


「あくまでも俺は、法律の目をかいくぐるための隠れ蓑に過ぎん。従兄弟が成人するまで、桃華を預かっているだけだからな」

「そんな馬鹿な! 桃華嬢を前にして、手出しをせずに居られるのか? 本当に――?」

「なあ綾、アンタ桃華の写真を持ってるだろう。この坊ちゃんに見せてやれ」


 綾那のスマートフォンには、桃華と遊んだ時に撮られた写真データがこれでもかと入っている。綾那自身が思い出づくりに――と望んだ面もあるが、写真を撮るたび桃華が大はしゃぎして喜ぶため、その枚数は短期間で膨大な量になってしまったのだ。


「持ってますけど――か、勝手に、良いんでしょうか?」

「いい、俺が許可する。坊ちゃんはどうも、桃華に壮大な夢を見ているらしいからな。目を覚ましてやると良い」


 本人の許可なく見せて良いのかとは思うが、しかし綾那の目から見ても、伊織は桃華に夢を見ているとしか言いようがない。確かにここで現実を見せてしまった方が、かえって良い結果になるのでは――と言うと、何やらスレンダーな桃華に失礼な気もするが。


 綾那は鞄からスマートフォンを取り出すと、画面に一枚の写真を表示した。桃華と二人並んで撮った写真――撮影者は幸成で、二人の全身が映されているものだ。

 正直、華奢過ぎる桃華とそうではない綾那の、えげつない対比が容赦なく胸を抉る一枚である。しかし、二人の相違性を示すには、これくらいはっきりとしたものが分かりやすくて良いだろう。


「あの――こちらが本物の、桃ちゃんです」


 言いながらスマートフォンを伊織に見せれば、彼は画面を凝視して――そして、震える声で「嘘だ」と呟いた。


「嘘だ――嘘だ、そんなはずがない!! なんだこれは、ガリガリのちんちくりんではないか!? 彼女の母上と全然違う!!」

「ちょ、オイ、もかぴの悪口は聞き捨てならんぞ? あたしらのダチなんだからな」


 酷く取り乱した様子の伊織を、陽香が胡乱な眼差しで諫めた。しかし彼は全く聞いていないようで、「嘘だ、この世に神は居ない」と嘆くばかり。


「これで分かったか? 確かに桃華も可愛らしいと思うが、幼馴染というよりは妹みたいなもんだ。わざわざ従兄弟の女に手出しする趣味もねえし、俺の本命はに居る。誤解がとけたなら帰らせてくれ」

「そんな――そんな、じゃあ、あなたは? あなたは誰だ? この男のなんなんだ……?」


 桃華の姿はそんなにも、伊織が思い描いていたものからかけ離れていたのだろうか。彼は涙目になって震えながら、ソファに座る綾那を見下ろした。綾那は苦笑して、やんわりと颯月から離れて姿勢を正す。


「私は、綾那と申します。アイドクレース騎士団で働く広報係です」

「綾は俺の婚約者だ。「契約エンゲージメント」済みのな」

「綾那――綾、さん……?」


 放心状態の伊織に頷いて、広報らしく愛想よく微笑みかける。すると、不意に領主が声を荒らげた。


「い、伊織! もう、桃華嬢の事は諦めなさい! 彼女は最早、王族の一員に等しい――このままでは家が取り潰される! いや、家どころか命さえも――とにかく、そこの化け物共をさっさと追い出すんだ! もうどこへでも行ってしまえ、いいか、二度と帰ってくるんじゃないぞ、右京!!」

「はいはい、言われなくても。じゃあ、許可も出た事だし……宿の荷物と馬車を回収して、帰ろうか? ほら、行こうよ」


 領主の悪態もどこ吹く風の右京は、さっさとソファから立ち上がると一行に退席を促した。陽香も彼の尻尾を抱えたまま立ち上がると、「意外とすんなり問題解決できたじゃん、偉いぞ右京!」と笑っている。

 綾那も続こうと腰を上げかけたが、しかし目の前の伊織がふらりと体を傾けたので動きを止める。今回の事で相当なショックを受けたようだが、大丈夫だろうか。


「要らない――桃華嬢は私のじゃないから、もう要らない」

「おお、分かってくれたか!」


 伊織の言葉に、領主が顔色を明るくして頷いた。しかし彼が続けた言葉に、またしても室内が凍りつく。


「代わりに、綾さんが欲しい」

「……え?」

「だって、綾さんこそ私の運命だから。桃華嬢を手に入れる前にあなたが現れた事には、大きな意味がある。ああ、私が選択を誤る前に出会えて、本当に良かったです……きっと幸せにしてみせます」

「ま、待ってください。私は――」


 恍惚とした表情で綾那を見下ろす伊織に、陽香は目を眇めて右京を見やった。しかし右京は「ちょっと、そんな目で僕を見ないで。僕は彼の教育に関わってないって言ったでしょう」と首を横に振っている。


 右京の件も、檻や壁を壊した件も、桃華の件さえも――力技とは言え――解決できたのに、まさか桃華の代わりに綾那を求められる事になろうとは。これも、悪魔による精神汚染の弊害なのだろうか。だとすれば、まともな対話を望めぬ相手にどう立ち回るべきか。


 桃華については、ほぼ王族の一員という事で諦めさせられたが――綾那の場合はどうなるのだろうか。このまま拘束、監禁などされては堪らない。うーんと悩みつつ隣の颯月を見た綾那は、ぴしりと固まった。


 綾那が、初めて颯月の素顔を見て悲鳴を上げた時よりも。旭から不躾に「悪魔憑きか」と問われた時よりも――そして、正妃に「綾那の前で眼帯を外せ」と命じられた時よりも。

 颯月は不快極まりない様子で眉根を寄せ、その鋭い眼光は膝の上で震える彼の握り拳に縫い付けられている。


(な、何――? なんだかとっても、ご機嫌斜めみたい……!?)


 フーと低く長い息を吐き出しているところからして、ギリギリのところでに耐えているのだろうか。彼の周りには時折、紫色の火花が散っているように見える。気のせいだろうか――いいや、気のせいに決まっている。

 何せ彼は――颯月は、綾那の偉大な神である。神が魔力の制御を誤るなんて、起こりうるはずがない。しかし――。


「綾――怒りで魔力の制御が上手くいかん。こんな事なら、マナなんて吸うんじゃなかった。助けてくれ――」


 どうも綾那の表情を視界の端に捉えたらしい颯月は、目線を拳に縫い付けたまま低く唸るような声で呟いた。


(ちょ――ちょっと待ってください、颯月さん! 悪魔憑きのあなたが魔力を暴発させたら、この場に居る全員死ぬのでは……!?)


 問題解決、めでたしめでたし――からの、いきなりクライマックスである。綾那は笑顔のまま顔を引きつらせると、今自分に出来る最善の行動はなんなのか、必死に思考を巡らせた。

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