第37話 ムチムチ

 綾那が大きなショックを受ける様子を見て、楓馬は慌てて首を横に振った。


「い、いや、殺すつもりは、ないけど――でも、もし俺らがカッとなって魔法使っても、綾那は何もできないって事だろ?」


 それは楓馬の言う通りだ。ヴェゼルの一部を軽々と追い払った颯月しかり、絨毯屋の大倉庫を焼け野原に変えた幸成しかり――綾那には、あんな超常現象に対抗する術がない。

 しかし、だからこそ今日は、颯月と静真が目の届く位置に居るのだ。


「でも、颯月さんや静真さんが居るから、平気なんじゃないかな……?」

「なあムチムチ、まさかムチムチってノーテンキってヤツ? 俺ら「魔力が暴走した時に殺されたくない」って理由で、親に捨てられてんのに」

「ちょっと幸輝、お願いだからムチムチを定着させないで」


 確かに、綾那がアイドクレースを訪れてから出会った女性は全員棒のように細かった。

 後から聞いた話では、この街に住まう女性は現国王の正妃に憧れており、しかもその正妃というのがとんでもなく細い女性らしい。

 だからアイドクレース領の女性は、総じて細いのだと聞かされたが――綾那だって、別に太ってはいないのだ。ただ周りが細過ぎるせいで、まるで綾那が太っているかのような扱いを受けているだけ。全く、本当に恐ろしい所である。


 そうして深いため息をついていると、眠る朔がずるりと体を傾かせた。綾那は慌てて彼を抱え直すと、膝の上で横抱きにする。その様子を黙って眺めていた幸輝だったが、不意にピンと閃き顔になると、にんまり笑いながら綾那の背後に移動した。


「やーい、むっちむちー! そんなおっぱいでっかくて、恥ずかしくねえのかよー!」

「はっ、恥ずかしくないよ! ――え、なに? もしかしてこれも『恥ずかしい事』なの? 私やばくない??」


 ――体形だけでなく、胸の大きさまで揶揄されるのか。ここは体の厚みを一切許さない、とんでもモデル大国か何かなのか?

 がくりと落ち込んだ綾那の背中に、ぎゅうと幸輝が抱きついた。


「えー、だって、せーひ様と全然違――うっわなんだコレ!? すっげえプニプニしてるー! 楓馬見てみろよ、俺の手なくなった!!」

「あ、こら、ちょっと」


 綾那の背後から抱きついた幸輝は、そのままむんずと胸を鷲掴んで持ち上げた。そうして小声で「重い」なんて失礼極まりない言葉を吐きながら胸を降ろせば、彼の小さな手は綾那の下胸に押し潰されて見えなくなる。

 歓声を上げる幸輝に、正面から様子を見ていた楓馬も目を輝かせた。


「すげえ、マジだ!! 俺もやる!」

「もう、朔が寝てるんだから、今はやめなさ――」


 男とはいえ、相手はまだ年端も行かぬ子供である。ただでさえ底なしの包容力をもつ綾那だ、好奇心旺盛な男児に胸を触られるぐらい、どうという事はないのだが――しかし今は、膝の上に眠る朔を抱いているのだ。

 起こしてしまっては可哀相だからと二人を諫めるものの、彼らは新しい玩具に夢中のようだった。


 これは、飽きるまで放置するしかないだろうか――そうして遠い目をしていると、不意に背後でかさりと芝生を踏みしめる音が聞こえた。

 振り向けば、いつの間にか話し合いを終えたらしい颯月と静真が、こちらへ歩いてくるところだった。


「あ、颯月さん達、終わったみたいだよ」

「ん? あー、ホントだ」

「綾那さん、子供達の相手をしてくださって、本当に――」


 近寄って来た静真が、綾那に向かってぺこりと頭を下げた。「どういたしまして」と返そうとする綾那だったが、しかしそれよりも早く幸輝が口を開いた。


「なあ静真、見て見て! こいつのおっぱいスゲーでけえんだよ!!」

「は? ――バッ、何してるんだお前達!? 今すぐにやめなさい!!」


 相変わらず綾那の胸を鷲掴んだままポヨポヨと揺らしている幸輝に、静真は大慌ててで顔を逸らして声を荒らげた。その横に立つ颯月が盛大に噴き出したかと思えば、腹を抱えて笑い始める。


「えー? スライムみたいで面白いのによ――なあ、静真の手も隠せるかな?」

「幸輝! 楓馬も! やめなさい!!!」

「へいへーい」

「あーあ、静真さんムキになってつまんねーの」


 渋々と言った様子で綾那から離れた子供達。ひとしきり笑ったらしい颯月は、愉快そうな表情を隠そうともせず、すぐ傍にしゃがみ込んだ。


「はー、笑った。綾を引き合わせたのは間違いだったか? ガキ共の情操教育に悪かったな。コレが普通の女だと思われたら責任がとれん」

「……どういう意味ですか」

「そのままの意味だ――なあ、俺もまだ触ってねえのに、子供だからって狡いぞ」


 ――「まだ」ってなんだ。

 確かに颯月の事は好きだが、決してそういう好きではない。触らせる予定は今のところない。

 綾那は胡乱な目をして颯月を見やるが、しかし、やはり間近で見るに堪えない美しさであると思って目を逸らした。


「やっぱ颯月さんの女なんだ。じゃあ、チューとかしてんの? チュー」

「ん? さあ、どうだろうな。なあ綾、俺はチューしても許されるんだったか?」

「――ッグ!? ゲホッ、――ゆ、許されません……!」


 一体何を言い出すのかと激しくむせた綾那を見て、颯月は意味深長に笑った。


「…………許されないという事にしておこう」

「ちょっと! その言い方だとまるで、私が嘘ついてるみたいじゃ……!」

「マジかよ、颯月そんな事してるなんてエロいんだな! やーいエロ颯月ー!」

「あ? まだガキだな幸輝。もう少しでかくなったら、もっとイイ事を教えてやるから楽しみにしてろよ」

「オイ待て、子供達に余計な事を教えるんじゃない!!」


 ワッと盛り上がる子供達とじゃれ合う成人男性二人に、綾那は苦笑いを浮かべた。しかしその手元――膝の上で眠る朔が身じろぎしたため、彼を抱え直すついでに立ち上がる。


「んん゛~~……」


 寝ている横で騒がれて、彼からすればいい迷惑だろう。ギュッと眉根を寄せた朔の背を綾那がぽんぽんと叩いていると、不意に颯月が両手を差し出した。


「もらう」

「えっ……あっ、はい」


 眠る朔を慎重に手渡せば、颯月は慣れた手つきで抱き上げる。そして、慈しむような表情で腕に抱く朔を見下ろした。間近でそんな表情を見せられた綾那は、教会の入口で感じた時とは違う胸の痛みに襲われる。


 今まで綾那が出会った顔だけ男達の半数以上は、「子供は嫌い」「夫婦二人の時間が大事だから、結婚しても子供はいらない」などと言うタイプだった。

 だと言うのに、颯月はどこからどう見ても子供好きだ。間違いなく子煩悩な父親になるだろう。


「素敵、無理無理のムリ――」


 熱に浮かされるような表情で呟く綾那に、颯月は「俺に聞こえる位置で言うな」と面映おもはゆそうな顔をした。その後ろでは、幸輝が静真の上衣を掴み引いている。


「なあ静真、おやつまだ? 俺、腹減ったー」

「ん? ああ、そうだな……颯月達も一緒にどうだ、今日は急ぐのか? 正直、寝ている間にお前に帰られると、後で朔が荒れて困るんだが……」

「だからそれは、アンタが甘やかすからだ。まあ、朔が起きるまでは居てやるよ――気になる事もあるしな」


 颯月の言葉に「気になる事?」と首を傾げる静真だったが、しかしすぐに頷くと幸輝の手を取った。


「お前達、準備を手伝ってくれ。働かざる者食うべからずだぞ」

「ええー!? でも俺らが目ぇ離したら、颯月がムチムチにエロい事するかも知んないじゃん」

「そ、颯月さんはそんな事しないから平気だよ!」

「ああ。朔が居るから今は無理だ」

「居なければやぶさかではない、みたいな言い方はやめてください!? だいたい――」

「綾、あまり騒ぐと朔が起きる」


 片腕で朔を抱きながら口元に指を立てて「しー」と諫める颯月に、綾那はグッと言葉を詰まらせた。その様子を見ていた楓馬が、くすくすと笑い声を上げる。


「颯月さん相手だと、綾那も子供みたいだな。おやつ持って来てやるから、朔と一緒に待っててよ!」


 楓馬と幸輝は大きく手を振りながら、静真と共に建物の中へ入っていった。子供のようだと評された綾那は「誠に遺憾である――」と呟いて項垂れたが、しかし颯月に呼ばれて顔を上げる。


「――静真にあったか?」


 やはり颯月は察しが良い。綾那が静真と握手した時の様子が気にかかっているのだろう。

 綾那は頷いたが、しかし肝心の静真の体を冒しているモノの正体が分からないままなので、つい難しい顔をしてしまう。


「静真さんに触れた時、「解毒デトックス」が発動しました。それも、凄い量の何かが蓄積されていたように思います」

「何か――ってことは、悪さするモノが分からなかったのか。アンタ、キラービーの毒は分かったのにな」

「そうなんです――あ、ただ子供達には触れても何も起こらなかったので、この辺りのお水が悪いとか、食事に毒がーとかは、ないと思うんですけど……」

「ふぅん」


 颯月は思案顔になると、ぼんやりと建物を眺めた。


(せめて、静真さんがああなった原因を調べられたら良いけど――)


 綾那はそう思ったが、しかし「解毒」も万能ではない。正直こんな事は初めてだが、正体の分からない有害物質を解明する事はできないらしい。更に、「鑑定ジャッジメント」のように目で見ただけで有毒かどうか、何が悪さしているのか調べる事もできない。


 仮に悪さをするモノの匂いが分かれば、「追跡者チェイサー」で探れたかも知れない。けれど、一度体内に入ってしまったものは分からない。そもそも毒物であれば匂いの強いものも多いが、アレルギー物質や有害金属などが原因の場合は難しい。


「もしかすると、眷属のせいかもな。眷属のと言うか――悪魔憑きの」

「え?」

「言っただろ? 『光』に長けた静真は、眷属を呼び寄せやすいって」

「しかも、悪魔憑きに触れられると悪戯しに来る眷属が増える――?」

「ああ。帰るまでにもう一度ヤツに触れられるか? 今日中に確かめておきたい」

「分かりました。そういう事でしたら、何度でも触りますよ」


 静真はまるで颯月の悪友のようだし、彼のためにも原因をハッキリさせておきたい。綾那はニッコリと微笑んだが、しかし颯月はなんとも言えない顔になった。


「いや、一度で良い。アンタが触れれば触れるほどマジになりそうだからな、アイツ……ただでさえ女神だとか聖女だとか、妙な勘違いをしているようだし」

「え、アレって冗談なのでは?」

「静真は思い込みが激しい上に、敬虔な神父だ。アレは間違いなく本気で言ってる」


 真面目な顔で断言した颯月に、綾那は苦笑を浮かべた。まさかキューから授かった加護が、このように作用するとは思わなかった。

 綾那が小さく息を吐いていると、不意に生温かい風が吹いた。物干しに掛かったシーツが大きく揺れて、足元の芝生もそよぐ。綾那が奈落の底に来たばかりの頃は初夏だったが、もうすぐ夏が来そうだ。


 ふと横の颯月を見上げれば、彼の艶のある黒髪も風に靡いている。その中に混じる金髪がキラキラと光を反射して、その様に見惚みとれてしまう。


「綺麗――」


 思わず呟けば、颯月が左目を細めた。笑んでいるのか気を害したのかイマイチ判別のつかない紫色の瞳を見て、綾那は「あ」と思い出したように声を漏らす。


「どうした?」

「あ、いえ……颯月さんは、どの魔法が得意なのかなと思って」

「ああ、ガキ共に魔法の事を聞いたのか――なんだと思う?」


 どこか楽しげに小首を傾げる颯月を見て、綾那は初めて彼と会った時の事を思い出した。

 ヴェゼルの一部を倒した魔法――彼の瞳と同じ色の稲妻は、とても美しかった。そして、前に旭が口にした「紫電一閃しでんいっせん」という、通り名のようなもの。


「雷、ですか?」

「正解。雷は得意だが、水魔法とは相性が悪いな」

「え? でも、大倉庫で――」


 颯月は桃華に「水鏡ミラージュ」を使っていた。しかもその後、幸成の魔法を抑え込むため、竜禅と共に水のバリアーのようなものを張っていたではないか。

 疑問がそのまま綾那の顔に現れていたのか、颯月は口元を緩ませた。


「簡単な魔法なら使えるが、あまり凝ったのは無理だ。まあ俺には禅がついているから、使えなくとも問題ない」

「じゃあ、竜禅さんの瞳は青色なんですね――あら? じゃあ、和巳さんも?」

「和は違う。よく見ると、ただの青じゃなくて緑がかっているのが分かると思うぞ。アイツは風が得意で……成は見たから分かるな? 火だ」


 扱える魔法の属性が瞳の色に反映されるとは、やはり面白い世界だ。感心しきりの綾那だったが、颯月の腕の中で朔が身じろいだため、口を噤む。ちらと様子を窺えば、彼は大きな瞳を半分開いて眩しそうにしている。どうやら完全に起こしてしまったらしい。


 朔はぼんやりとした瞳で颯月を見上げると、それから不思議そうに首を傾げた。


「ん~……んん~? あれ、にーちゃん……?」

「よく寝てたな朔、待ちくたびれたぞ」

「ええ? にーちゃんがしずまとばっか話してるから……あ、ねえ、アーニャ。アーニャは? もう帰ったの?」

「……あーにゃ?」


 首を傾げて反芻はんすうする颯月に、綾那はまさか颯月の口からそれが飛び出す事になるとは――と、一瞬言葉を詰まらせた。しかしすぐに咳払いをして気を取り直すと、恥じらいつつも口を開く。


「す、すみません、朔が私の名前を呼びづらそうにしていたので……あだ名で呼んでもらおうかと――」

「アーニャ! 居た!」

「うん、まだ居るよ」


 小さな手を伸ばしてくる朔に、綾那もまた手を伸ばして触れる。ニッコリと笑う朔の口元には、相変わらず凶悪なまでに鋭い歯が生え揃っている。


「アンタのあだ名『アーニャ』なのか? ……俺もそう呼んだ方が良いか?」


 真剣な表情で颯月に尋ねられて、綾那は慌てて両手を振って見せた。


「ええ!? い、いえ! ――あの、『綾』が良いです、渚に呼ばれてるみたいで、落ち着くから……」

「渚――それは、離れ離れになった仲間か?」


 苦笑いしながら頷いた綾那に、颯月は「分かった」と答えた。

 綾那は内心「いくら愛着があるとは言え、正直こんなバカみたいなあだ名を神に呼ばれ続けたら死ぬから、助かった」と安堵した。

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