第10話 婚約指輪

 キューの言っていた通り、この世界の季節は初夏らしい。時折生暖かい風が吹いては、暗い森の木々を揺らしている。


 思えば「表」でも6月に入る直前だったので、季節にまで相互性があるのだろうか。

 夜行性の虫達の鳴き声がそこかしこから聞こえるぐらいで、獣の気配や、綾那の背筋を凍らせたほどの悪魔――ヴェゼルの気配も感じない。


「アイドクレース領はこの国の中心地で、今向かっているのが『王都アイドクレース』だ」


 綾那はふと、声の主を見やった。隣を歩く長身の男は、名を『颯月そうげつ』というらしい。

 道すがらこの国の事を教えて欲しいと頼めば、颯月は快く引き受けてくれた。


 ――綾那が居る大陸、そして国の名前はリベリアス。


 リベリアスは5つの領から成り立っていて、それぞれの領を行き来するのは基本的に自由。ただしどの街にも――小さな村にも門が構えられているので、入退場するには通行証が必須となる。


 今向かっている街は国の中心地で、名を王都アイドクレースという。王都を冠するくらいなので、もちろん国を治める王が居るそうだ。


 しかしひと口に王と言っても、王政を敷いている訳ではない。

 遥か昔より血を繋いできた、始祖が神といわれる一族の末裔――国の『象徴』的存在と、「表」で言うところの天皇に近い存在らしい。


 キューが向かった東の領地はアデュレリアで、南の領地はセレスティン。

 西と北にもそれぞれ別の領があるとの事だが、キュー曰くそれらの方角からはメンバーの反応を感じないと言っていたので、ひとまず意識から外す事にした。


 国の中心地である王都は物流が盛んで、物だけでなく人も集まるらしい。はぐれた家族を探すためには、情報取集もしやすいだろうと颯月が教えてくれた。


 ちなみに彼の言う『異大陸』とは、北方の領の更に北にある海を越えた、遥か先にある大陸の事だそうだ。

 科学が発展していない世界なので遠洋船はなく、例え魔法の力をもってしても異大陸に到達するのは至難の業。

 綾那が異大陸からどのような手法でリベリアスに連れてこられたのかは、颯月にとって見当もつかない話らしい。


(身長差があるから、隣を歩くと結局お顔が見えちゃうな……なんて複雑なチラリズムなんだろう)


 颯月は今、その美貌を隠すように大きなフードを目深に被っている。騎士服の背に纏っていた外套のフードだ。


 正直、彼の顔面に魅了されて話どころではないので、まず顔を隠して欲しいと真剣にお願いしたところ――颯月はまた噴き出した。

 そうしてひとしきり笑ったあとに、このフードを被って顔を隠してくれたのだ。


 視界が狭まり歩きにくいだろうに、道に慣れているのかそれとも顔を隠すのに慣れているのか、彼の歩みには迷いがない。


 颯月の顔は良すぎる。ずっと見ていたい。けれどこのまま見ていると、底なし沼に引きずり込まれて二度と戻って来られなくなりそうで――綾那はフイと視線を外す。


 苦悩するように目線を落とした綾那は、しかし己の右手を見てふと冷静になった。

 綾那に逃げ込む場所など、この国のどこにもないというのに――手を離せば逃げられるとでも思っているのか、いまだ颯月に手を繋がれたまま歩いている。


 気が動転しっぱなしで全く気付かなかったのだが、繋いだ彼の左手に何か引っ掛かるものを感じた。

 もしやと思い手元を盗み見たところ、彼はなんと薬指に指輪をしていたのだ。


 ダメ男製造機、顔さえ良ければ相手がどんなクズであろうと気にしない――などと揶揄される綾那だが、相手が既婚者となるとさすがに話が変わってくる。

 いくら顔が好みでも、既婚者や彼女もちのだけはどうしてもダメなのだ。


 確かに綾那は、颯月の顔が最高に好きだ。好きだが、絶対に恋愛対象として見てはいけないし、今後見るつもりもない。


(さすがにコレは、目が覚める……恋愛スキャンダルどころじゃあ済まないもの。でもよくよく考えたら、この顔でフリーな訳がないし当然だよね)


 冷えた頭で考えて頷くが、奥さんの目の届かない場所で別の女性の手を握って歩くなんて、なかなかの問題行動ではないかと思う。


 この顔をもつ男は、真正のクズであるという宿命なのだろうか。やはり、綾那の方から強く拒絶するべきか。

 無言のまま思い悩んでいると、ガッと何かに足が引っかかって前につんのめる。隆起した木の根の存在に全く気付かなかったのだ。


「わっ!?」


 綾那は前のめりに体を傾かせた。

 しかし、こけると思ったのも束の間、颯月は繋いだままの手を強く引くと、綾那を抱きかかえるようにして支えた。


 逞しい腕に囲われて、厚い胸板にぴったりと密着した綾那は、ぱちぱちと目を瞬かせた。ふわりと香るのは石鹸の匂いだろうか。

 ふと見上げれば、フードの中で楽しげに弧を描いた紫色の瞳とぶつかる。ハッと我に返った綾那は、眉を吊り上げた。


「ちょ、ちょっと、なに無防備に懐へ女なんか招き入れてるんですか!? 本当に隙の多い人ですね……私、心配になります!」

「無防備に人の懐へ連れ込まれた女がなに言ってやがる。前見て歩けよ」


 笑いながらも至極真っ当に注意されて、綾那はぐうと唸った。

 それと同時に、改めて既婚男性のペースに飲まれてはいけないと思い至る。


 繋いだ手が離れた今が丁度いいタイミングであると、ここぞとばかりに颯月から距離を取った。


「――オイ、綾?」

「どこにも逃げませんから! ……ちゃんと、颯月さんについて行きます」


 颯月は綾那の言葉に不服そうな表情を浮かべたが、しかし小さく息を吐くと、一度頷いてから歩み始める。

 後ろに付き従うとまた手を取られそうなので、綾那は自主的に彼の隣を歩くことにした。


(それにしても足長い、スタイル良いなあ……でも、隣を歩いてても不思議としんどくない。もしかして私に歩調を合わせてくれてる? たぶん、女性と一緒に歩く機会が多いんだろうな――いやいや、この顔を見れば分かる事だけどね)


 ぼんやりと彼の足元を眺める綾那だったが、「前を見ろ」と注意されたばかりでまた躓いてはいけないと思い、正面に視線を戻した。

 そして、どうせならこれを機に色々と聞いてしまおうと口を開く。


「颯月さん……は、アイドクレースの騎士なんでしょうか」


 少し前に、彼自身の口から「騎士は人間を守るものだ」と聞かされた。つまり彼が騎士である事は間違いない。


 ただ騎士と断じるには、どうにも彼は口調が粗野と言うか、荒々しい。

 それでも不思議と気品のようなものを感じるが、これは恐らく彼の整った容貌がなせる業だろう。


 正直、言動からは品行方正な「騎士」よりも、物語に出てくる冒険者やハンターなどの方が似合う。

 そもそも、表の日本に騎士は居ない。騎士というものがどういう存在なのか、全く分からないのだ。


 綾那の問いかけに、颯月はフードを被ったまま頷いた。


「ああ、アイドクレース騎士団所属だ。リベリアスには、5つの領地それぞれの名を冠する騎士団がある」

「へえ……無知でお恥ずかしいのですが、騎士ってどういった職業なんですか?」

「そうだな――まず、アンタ悪魔を知ってるぐらいだから、眷属も分かるか?」

「あ、はい。その辺りのお話は、親切な方から教わりました」

「それなら話は早い。騎士の役目は第一に、眷属を討伐して悪魔憑きの被害を未然に防ぐ事だ。次に、増え過ぎた魔物を間引く事。主だった役目はこの二つだな」


 キューの声が届かずとも、この世界に住む人間は自主的に危機感をもって眷属を討伐しているらしい。

 てっきり綾那1人で眷属退治をするハメになるのかと思っていたが、素晴らしい事だ。


 素晴らしいが――ただ、颯月の言葉の中に何やら聞き捨てならない文言があったため、綾那は眉を寄せた。


「魔物?」


 キューの話では、大本の諸悪の根源が悪魔。

 悪魔が作り出したのが眷属で、眷属とは「表」で言うところの魔獣みたいなものだが、魔獣よりも知能が高い。そういう話だったはずだ。『魔物』なんて単語は初耳である。


「眷属と比べれば赤子みたいなモンだ。それほど賢くはないが、簡単な魔法を使う生物で――縄張りに足を踏み入れなければ、人を襲わない。ただ個体が増えすぎると、餌を求めて人の生活圏までやって来る。そうなる前に数を減らさなきゃならん」

「……なるほど?」


 どうやら、またキューが言葉足らずを発揮したらしい。

 眷属よりも弱い存在だからわざわざ言及するまでもないと、あえて説明を省いたのかも知れないが――どうにもキューは、人の気持ちや世情に疎い。

 天使であり神でもあるから、そんなものなのだろうか。


 綾那は一度ため息を吐いてから、颯月を見やった。


「私はこれから、どうなるのでしょうか」


 ずっと気になっていた事を問えば、颯月はフードの下で微かに笑った。


「アンタはどうしたい?」

「え? そ、そうですね……やっぱり、はぐれた仲間を探したいです。ただ探そうにも今はアテがありませんから、ひとまずこの国で仕事探しでしょうか? まずは自分の衣食住を確保しないと」

「だろうな」

「ただ、通行証はおろか、この国で通用する身分証も戸籍も――魔法も使えない私が就職できれば、の話ですが」


 綾那がちらと顔色を窺うように見上げれば、颯月は小さく頷いた。


「正直な話、魔力ゼロ体質のアンタが職に就くのは難しい。この国の仕事はどれも魔法と切り離せないからな」

「えぇー……あ、じゃあ、例えば魔物狩りを仕事にできませんか?」

「――それは、もっと難しいな」


 途端に颯月の声色が深刻なものになって、綾那は口を噤む。

 何かおかしなことを言ってしまっただろうかと不安に思っていると、彼は細い息を吐き出した。


「いくらアンタに力があったとしても、戦闘職だけは絶対に許されない。その理由は……まあ追々、嫌でも分かるだろう」

「そうですか、困りましたね……」


 綾那には魔力も身分証明書もない。できる仕事がないならば、街の中ではなく外で自給自足の生活をした方が良い気もしてくる。

 そんな生活ができるかどうかは問題ではない、綾那はやるしかないのだ。


 ただ「鑑定ジャッジメント」もちの渚が傍に居ないため、食料を見付けた際に食べられるか否か判断できないのは、正直不安である。

 腕組みをして悩む綾那に、颯月は指先で僅かにフードを上げると、悪戯っぽい笑みを浮かべた。


「――綾、俺に養われるっていうのはどうだ?」

「え!? いや、そ……――ッ……い、いいえ、却下です」

「一瞬迷ったな」

「そ、颯月さん、既婚者でしょう? 私、そういう貞操観念が希薄な男性は無理無理のムリなので」

「……何?」


 綾那は図星を突かれたのか、気まずげな表情で――しかしキッパリとした口調で拒絶した。

 そんな彼女の言葉に、颯月は心外だとでも言いたげに左目を丸めた。


「……俺はまだ独身なんだが」

「え? でも、その指輪……」

「――ああ、コレか? よく見てるな」


 綾那が颯月の左手を指差せば、彼は感心するように己の左手を眺めた。


 彼の左手薬指に嵌っているのは、飾り気のないシルバーリングだ。

 宝石一つ付いておらず、ぱっと見たところ彫りも、凝った意匠もない。結婚指輪にしてはシンプルだが――男性が身に着けるものと考えれば、別段おかしくもないだろう。


 しかし颯月は綾那に向き直ると、何でもない事のようにさらりと言ってのけた。


「コレは違う、指輪だから安心していい」

「はあ、婚約指輪ですか……なるほど、それなら安心――とはなりませんねえ!?」


 この国の倫理観は一体どうなっているのか。それとも単に颯月が特別クズなだけか。

 何はともあれ、「婚約指輪だから安心」という言葉の意図が全く読めない。


 颯月の言葉に、綾那は目を剥いて叫んだ。

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