【短編集】終末憧憬
下松回応(しもまつ・かいおう)
「船の男」と三毛猫
あの大災害から数十年。街は再び生き返ろうとする事をやめ、海と平原の間の海岸沼沢地へと変わっていきつつあった。
かつて住宅地だったのかもしれない場所に、かろうじて残るまっすぐな道。もはや車が通る事もなく、舗装の剥がれたところは砂と土に返り、細い草で覆われつつある。あまつさえ、木の根が路面を押し上げ、何度も足がつかえそうになってしまう。
そのまっすぐな道を塞ぐように、赤錆びた船が打ち上がっていた。どこからやってきたのかどんな役目の船なのか、それはもはやわからない。ただ、聞いていたのはここにひとりの男が住んでいる、という事だけ。確かに、甲板上には何か服のようなものや、魚がいくつか干してあるのがわかる。
もう歩く自分の影も長くなり始め、点在する木々も橙色に染まり始めている。ここに一夜の宿を借りる事にしよう。
そして私は、くすんではいるがかろうじて四割白い色を残しているブリッジへ、延々続く縄の橋を登り始めた。当然波止場ではないのだから、タラップなんてあるわけが無い。
ここの住人と遭遇するのに、そう長くはかからなかった。こちらの気配を掴んで、登り始めて少しも経たないうちに窓から顔を出してきたからだ。
廃船内で、虚ろな色をしたほの青い光に照らされながら、ついにその男と対面する事になった。聞いたよりは、歳を取っていた。だが、足腰だけは非常に丈夫そうだった。船底からブリッジまで、毎日登り降りを続けるような毎日であれば、確かにそうなるに違いない。
やがて日が落ちて来ると、もはや甲板の焚き火以外に頼るべき灯も無くなってしまった。そして、この平原ではどこでもありふれた静寂が訪れる……ただ、打ち寄せる波の音だけを残して。
大抵この世界を生き抜く人間というものは余計な口を開かないものだが(長い間人に会わないと話し方というのも忘れてしまうものである)、廃船の男は特別に無口であった。最初は人間らしい感情があるとはとても思えず、伸び放題の髭の向こうに隠れている口は、私が一晩の宿を乞うても、先立つ礼としていくつかの缶詰を渡しても、一切動くことがない。おそらく髭が重すぎて口が動かせなくなってしまったのではなかろうか?そう思わせるほどだった。そのあとも、いくつか彼の身の上を訪ねた。なぜここに住んでいるのか、どこからやってきたのか、近くに街はあるか、危険はないか……だが何一つ、答えは返ってこなかった。
諦めて、私は甲板の縁にもたれて、この場所から広がっていく海原の景色を眺めることにした。
「この海も……」
「えっ?」
老人の声であった。大災害で広がった浅い海の向こうに、未だに朽ちずに立ち続けている建物が、なぜかずっと点滅させ続けている緑と赤の光を、じっと見つめて、口を開いたのだった。
「この海も、じきに全て呑み込むだろうなぁ」
水位は、年々少しずつ上がりつつあり、そして嵐は明らかに激しさを増している、老人はそう語った。
「この船もだいぶ朽ちてきた。もういつ崩れてもおかしくはあるまい。船底は水が入ってきて、もう手遅れだろうしの」
確かに、さっきから波音が自分の足元で渦巻く音が繰り返し、聞こえている。きっと潮が上がってきたのだろう。
「だが、わしはここで一生を終える、その決心はしておる」
老人は別に、もともとこの船の船員であったわけではないし、それどころか船には全く関係のない仕事を、大災害の前にはしていたという。
ではなぜここに?と思うまでもなく、自分の足の間をなにかが通り過ぎた。老人がその、けむくじゃらの獣を拾い上げ、肩に乗せる。焚き火の灯に照らされてようやく、それは猫だと分かった。
「こいつはな、三毛猫だよ。久しぶりだろ?それこそ、人を襲いもしないし食べるためでもない獣はもはや珍しくなっただろうしな」
フッ、とそして老人は笑う。私はどうこの猫を呼んでいるのか、尋ねる。
「名前だと?そんなものはいらんよ。他に猫は居ないしの。それに、お前とか、こいつとか呼んでも、ちゃーんと来てくれるよ。そもそも、わしを船から呼んでいたから、ここに住み始めたんだからな、この船の主人はこいつさ」
そう言って、老人は猫をなで始めた。だがこの獣は、鳴き声一つ挙げない。おそらく彼同様に無口なのだろう。
私も、彼の見せる生の感情に、心がじんわりとあたたまるものを感じ、ふと口角がほころんだ。
夜は更け、さらに突き刺さるような寒さが増していく。老人が促すままに、私は焚き火のそばへ、カービン銃を肩から下ろしながら、胡座をかく。
「さて、今度はお前さんがどこから来たのか、教えてもらおうか」
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