第3話

 夜風が肌に刺さる。


 ひとりで歩く僕のことを嘲笑うように、風が強く吹き付ける。


 コートのポケットに突っ込んだ手に、カサっと何かが触れた。


 それがついさっき受け取った塩の小袋であることには、すぐに思い至った。


 黒いスーツと黒いコートを着て、夜道を家に向かって歩いている。


 ひたすら歩いている。


 歩いているだけだ。


 それしかできなかった。


 詩乃と初めて会ったのは5年前、僕が30歳の時。マッチングアプリで出会った。


 最初は怖いもの見たさに始めたアプリだったが、そこで詩乃を見つけた。


 本の趣味が近く、住んでいる家がそう遠くないということで、メッセージが思ったよりも盛り上がった。


 メッセージのやりとりを始めて二週間くらいのある日、おすすめの本があるから貸したいんだ、なんて口実を作って会う約束を取り付けた。


 待ち合わせ場所までの移動時間は、気が気ではなかった。


 実際に会ったらイメージと違ったらどうしようとか、服変じゃないかなとか、何話せばいいかなとか、予約したお店はクチコミ悪くなかったけど本当に平気かなとか。


 30歳だというのに、恋愛経験の乏しかった僕は完全にテンパっていた。


 一度大学生の時に3ヶ月だけ彼女が居たが、それも何が何だか、何をしたらいいかもよく分からないまま、気がついたらフラれていた。


 なんで自分が恋愛経験に乏しいかは、僕が1番分かっていた。


 顔がどうとか体型がどうとかより、性格だろう。極端に内向的だったからだ。


 自分の中身なんて誰かに曝け出すことは無かったし、自分が1番自分の中身を正確に把握している自信があった。


 また、下手にそういう自信があったからこそ、自分が自分をわかっていれば十分ではないか、そう思っていた。振り返れば、とんだ自己愛野郎だ。


 学生時代も、社会に出てからも、自分から輪を広げる努力はしてこなかった。流れに身を任せて運良く出来た友達も、あえて関係を継続させようという努力はしなかった。


 しかしその日、そんな僕に対して詩乃はこう言った。



『怜さんが何を考えているのか、もっと教えて』



 僕に興味を持ってくれた。単純にそれだけなのに、それがすごく嬉しかった。そして僕も、彼女に興味が湧いた。


 そこから関係が進展するのに、時間は掛からなかった。


「ねえ、お兄さん。ちょっといい?」


 突然、隣から男が話しかけてきた。長い髪で青いダウンを着て、ボロボロの使い古されたリュックを背負った男。歳は僕より10歳くらい下、20代に見える。


 そこそこに大きな通りではあるが、特段栄えてもいないこんな場所で、キャッチのようなことをする意味がわからない。


 目を合わさずにポケットに手を入れたまま歩いていると、全くお構い無しといった感じで、「お兄さん、葬式帰りだよね?」と言った。


「まだ清めてないからとか、おれ全然気にしないよ」


 デリカシーを産道に置いてきたのかと怒鳴りたくなって立ち止まったが、一拍置いて自分が落ち着くのを待った。怒りは何かを破壊こそすれど何も生産しない。いつもこうして自分を鎮める。


 すると立ち止まった僕の顔を覗き込んで、その青年は笑みを浮かべた。それはいやらしい笑みではなく、心から何かを喜んでいるようだった。


「ああやっぱり。やっと見つけた。怜さんだよね」


「え、会ったこと、ないよね?」


「無いと言えば、無いね」


「は?」


「じゃあなんで名前を知ってるのかって?」


「なんでだ?」


 すると青年は少し辺りを見回し、少し遠くの灯りを指差して言った。


「あそこで少し話さない?」


 ペースを掴まれているのは大変気に食わないが、この得体の知れない人物をこのまま放置するわけにもいかないので、渋々合意した。


 訪れたのは、小さな居酒屋。


 暖簾をくぐると、カウンターに1人おじさんが居たが、テーブル席は全て空いていた。


「2人でーす」


 無愛想な店主が、扉寄りのカウンター席を案内した。


「あ、テーブル席でもいいすか?」


 怪訝そうな顔をした店主の後ろから、女性の店員が出てきて、どうぞどうぞ、と言いながらテーブル席にそそくさと案内してくれた。


 おしぼりを貰って手を拭くと、その男は背負っていたボロボロのリュックから名刺入れを出した。


「はい、自己紹介」


 片手で差し出された名刺を見ると、「似内 礼央 ninai reo」という名前とその上に「ジャーナリスト」と書いてある。


「名刺はいらない」


「え、なんで?」


「ジャーナリスト様に話すことなんてないし、もう2度と会わないからだ」


 似内は、立ち上がろうとした僕の肩をテーブル越しに押さえて、「まあまあ、少しだけだからさ」と言った。


 さっきから、妙にこの男の言われるままに行動してしまっているのが気に食わないが、もう一度腰かけることにした。


 手に持った自分の名刺入れをリュックに戻しながら、似内は話し始めた。


「俺はさ、ジャーナリストって一応書いてあるけど、どっかに所属してるわけじゃないんだよね。自分の興味があることを調べて、然るべきタイミングで然るべき場所に情報を買ってもらってるんだ」


「で?」


「まあまあ、そんなに怒んないでよ。怒りは何も生まないよ?」


「続き」


「はいはい。それで、今はまさに『消失病』について調べているってわけ。だから怜さんにも色々と教えて欲しいなって思って」


「だからそんな教えられることなんて……」


「死ってなんだと思う?」


「は?」


 自分でも驚くほど強い拒絶感が、僕の語気を荒くした。


「じゃあ、質問を変えるね。詩乃さんは死んだと思う?」


「お前なんでそんなこと知ってるんだ」


「めちゃくちゃ調べてるからね。これが仕事だし」


「詩乃は亡くなったんだよ。葬式だってしたんだ」


「それは、死んだ“ことになってる”だけでしょ?」


 自分のデリケートな部分に土足で踏み入られているような感覚だった。それは到底許せることではなかった。


 詩乃が“死んだことになっているだけ”?この国では、「消失病」に罹って消えた者は皆死亡として扱われる。それがルールだ。当然なんだ。現に消えた者がその後発見されたことは一度としてないのだから。


 少しの沈黙。待てど暮らせど自分の中で何かが暴れる感覚が消えない。


 気持ちを落ち着かせようとしても、それに呼応するように呼吸が荒くなる。


 俯いて肩を上下させている僕を見て、似内は少し困った顔をした。


「もしかして、かなり怒ってる?」


「それが分かるなら、もうやめてくれないか」


「ごめんね。俺、そういう気持ちを汲むとかが出来なくてさ、勉強中なんだ」


 意外とあっさり謝ることに驚いたし、若者とはいえ、成人済みの男性が言うには少し違和感がある言葉だったが、それどころではない。


「そんなに大事な話なら、日を改めてくれないか」


「オッケーわかった。ただ、あまり時間に余裕がないから、明後日とかでもいい?」


「大丈夫だ」


「じゃあ10時に怜さん家に行くね」


「え?」


「え?だめなの?」


「普通はカフェとかにするだろう」


「そうなの?まあ良いじゃん」


「……ああ、もうじゃあそれでいいよ」


「オッケー」


 目の前で歯を見せてにっこり笑う似内に、僕はどんな感情を持てば良いのか。


 大概こういう取材は、何とか記事を刺激的に面白くしようと脚色をするための材料にされるんだろうが、この男は何か違うような気がした。


 まったくふざけた男だし、目的もわからないが、何故かそう思った。


「ああ、あと……」


「なんだ?」


「人の目を見て話した方がいいよ。目を背けてると、大事なことを見逃しちゃうかもよ」


 前言撤回だ。未だかつてこんな失礼な奴には会ったことがない。

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