グレイシャス 〜 二つの館 〜

つちのこ

〜 命の誕生 〜

窓がガタガタと揺れる。戦いは激しさを増してきたようだ。たて続けに爆発音が聞こえてくる。


 怒りの混じった太い咆哮ほうこうがとどろき、窓がビリビリと震えた。


 戦場からずいぶん離れたこの小屋の中では、大きな木箱をならべただけのベッドを作って子供を産んでいる女性がいた。


 どこか儚げな彼女は、栗色の髪に薄い茶色の瞳をしている。名前はアーリア。


 戦いの中で必死に子供を産むアーリアは、激しい痛みに襲われながら早く産んでしまわなければ、という焦りがあった。


 この時、アーリアは知るはずもなかった。


 お腹にいる子供は重要な使命をもって生まれてくることを……。



 窓際にはまっすぐな黒い髪をひとつに束ねながら、心配そうに外を覗いている女性がいた。彼女の名前はマリー。


 少しばかり小柄なマリーは、黒く大きな瞳に陶器のような肌は透き通っている。例えようもなく美しい。


 外は生い茂った木々にぐるりと囲まれ、一寸先も見えないほど真っ暗だがマリーには関係のないことだった。遠くまでよく見えていた。


 「遅いわねニナ……大丈夫かしら」

 

 マリーは誰にともなく言った。


 「マリー、マリー来て。すごく痛いの!」


 初めての出産でアーリアは狂気じみた声で叫んだ。


 窓の外に気を取られていたマリーは、ハッと我に返ってアーリアの傍に行って手をにぎりしめた。


 ニナが小屋を出て行って三十分以上も経っている。ニナは子供が生まれた時のために、湖がある所までバスタブをもって水を汲みに行っている。


 ーー それにしても遅すぎる……なにかあったのかも ーー


 マリーは不安になってきた。


 近くでドーンと大きな音がして、かすかに悲鳴が聞こえた気がした。


「まさか」


 マリーの心臓は速くなった。


 窓に駆け寄ると木が何本も倒れる音がしたあと、小屋が激しくゆれた。きっとニナは無事に帰ってくるはず。マリーは唇を噛みしめた。


 しばらく外の様子を見ていると、また爆発音が聞こえた。光がはじけて辺りの木々が照らし出された瞬間、マリーは目を見開いた。小屋にかなり近い位置だ。


 マリーは動揺して「どうしよう」と小声でつぶやきながらアーリアに目を向けた。アーリアは動ける状態ではなく、ひとりでは彼女を守りきる自信もない。


 アーリアの耳にも、悲鳴や爆発音が聞こえていたがそれどころではなかった。子供を産むことで精一杯だった。


 なによりも、身体中の力がものすごい速さで奪われていく。恐ろしく不安でたまらなかった。子供を産んでしまったあとはどうなってしまうのかわからない。


 本来ならアーリアの傍には、夫のカーシリスが手をにぎってくれているはずだったのだ。小さな声でカーシリスの名前を何度もつぶやいた。


 突然、すごい勢いでドアが開いてマリーは跳び上がった。振り向くとニナが息を切らしながら立っていた。


 「遅くなってごめんなさい。敵に見つかってしまったの。逃げるのに手間取ったわ」


 マリーはニナの姿を見てギョッとした。ニナの赤い髪や全身はひどく汚れて、こめかみに紫のアザができている。


 しかも右の手首は赤黒く、とても腫れあがっていた。


 マリーがなにか言うひまもあたえず、ニナは早足でアーリアのところへ行って様子を見ている。


 「ああ、ニナ」


アーリアは涙を浮かべ、すがるようにニナに手を伸ばした。とても息が荒い。


「興奮しないで落ち着いて。そう、いい感じよ。さあ息を吸って」


 息を吸った時、痛みでアーリアは上体を起こしながら悲鳴をあげた。


「よしよし、大丈夫よ。ほら、もういちど息を吸って」


 マリーは外を覗いて、それから部屋の中を見回した。


 「ニナ、あなたバスタブはどこにあるの?」


 「バスタブは」


 と言いかけアッと口を押さえた。


「ごめんなさい。湖のところに置いてきてしまったわ」


 「いいのよ。この状況じゃしかたないもの。いいわ、私がなんとかするから」


とマリーはドアの前まで行くとそのまま動かなくなった。


 戦いが始まってから一時間以上は経っただろうか。アーリアの叫び声とともに子供が産まれた。


 「生まれた、生まれたわ! アリーナ、あなたよく頑張ったわ」


 涙声でニナは生まれたばかりの赤ん坊をそっともち上げてマリーに見せた。マリーは目を輝かせながらドアを開けた。ドアの前にはニナが湖に忘れてきたはずのバスタブがあった。


 マリーは湖にあったはずのバスタブを、不思議な力で引き寄せてくれていたのだ。


 バスタブにはたっぷりの水が入っていたので、マリーはウンウン言いながらアーリアのところへ運んだ。


 生まれたばかりの赤ん坊は、顔をクシャクシャにしたあと、元気な声で泣きだした。その泣き声は異様なほど甲高い奇声だった。


 「変わった泣き声ね」


ニナは涙混じりに言い、


「本当に頑張ったわ、こんな戦いの中で……」


 そのあとは聞き取れなかった。


 生まれた子供は男の子だった。


 マリーはバスタブの水を再び不思議な力でぬるいお湯にして、赤ん坊の身体をきれいに洗った。初めてだというのに、マリーの手際のよさにニナは感心した。


 それから、シーツを引っ張ってきて赤ん坊の身体を丁寧に拭きあげ、アーリアに渡した。


 アーリアは待ちきれないというように手を伸ばして、赤ん坊を受け取るとすぐに自分のほうに抱き寄せた。


 産んだばかりの子供の顔を見ると、嬉しさで胸がいっぱいになり、愛しさを込めて小さな顔をなでた。


 「気分はどう?」


ニナは心配そうに聞いた。


 アーリアは腕を動かして顔をしかめた。ひどい疲労感だ。


 「だるいわ。あまり力が入らないみたい」


 声がしわがれ、顔が青白くやつれて、実際の年齢よりも二、三歳は老けたようだった。


 それもそのはず。妖怪の子供は生まれてくる時、母親から大量のエネルギーをもらって生まれてくる。


 ニナは微笑みながら、


「ねえ、この子の名前はもう決めてるの? それともまだ?」


 と聞いた。


 「ええ、もちろんよ。お腹の中にこの子がいるとわかった時からカーシリスとふたりで名前を決めていたの」


「なんて名前?」


「この子名前はね……グレイシャス」


アーリアはグレイシャスの額にキスをした。ニナとマリーはにっこりした。


 「グレイシャス、素敵な名前だわ」


 ふたりは声をそろえて言った。


 真夜中の戦いの中、誰にも知られずにひっそりとアーリアが男の子を産み落とした。


 外では仲間の一族が敵対する一族と戦っている。グレイシャスがたった今生まれたことを、ここにいる三人以外はまだ誰も知らない。アーリアの夫カーシリスさえも。


 赤ん坊のグレイシャスが奇声をあげた夜、どこか近くも遠くもないところで、もうひとつの新しい命が生まれた。


 この時、全一族の運命が絡み合い、運命の針がいっせいに動きだした。


 戦いの中に生まれた幼獣グレイシャス。小さな命の誕生である。


 

 ニナ、マリー、アーリアの三人は、生まれたばかりのグレイシャスを守りながら、誰にも見つからないように激しい戦いの中をくぐり抜けていかなければならない。仲間の一族に助けを求めに行くのだ。


 しかし、その道のりの途中で敵に見つかってしまい、三人は必死に戦ったが赤ん坊のグレイシャスを奪われ、敵の手に渡ってしまった。


 その戦い以来ニナ、マリー、アーリアは消息を絶ち、仲間の一族があちこち捜したが見つからなかった。何年経っても姿を見せることはなかった。


 だか、運は味方してくれたのか、仲間の一族がグレイシャスをこっそり奪い返した。それも誰にも気づかれずに。


 あまりにも忽然こつぜんといなくなったことで、敵の一族は怒りに震えたが、誰にぶつけようもなかった。


 それもそのはずで、誰ひとりとして赤ん坊のグレイシャスを連れ出した痕跡もなく、疑わしい者もいなかったからだ。これには誰もが首をかしげた。


 赤ん坊はいったいどこに?


 誰もがそう口にした。真相は誰にもわからない。そう、グレイシャスを連れ出した者にしかわからないのだ。


 赤ん坊のグレイシャスはどこかで生きていて、安全な場所で保護されていた。


 敵の一族にも味方の一族にもわからないところ。


 それはどこか ーー 誰にも想像のつかない場所 ーー そこは人間の世界。




 




 


 



 

 

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