第四話
目を開けて最初、お化け屋敷に迷い込んだのかと思った。
目の前には、木の柱が入り組んでいるタイプの昔ながらの天井があった。天井が見えているということはつまり、僕は今どこかの屋内で仰向けになっているということだ。
視界全体は薄暗く、天井の隅には蜘蛛の巣が張っていた。タンポポの綿毛のような埃が大量に舞っている。不気味で不愉快だった。
目の前の埃を手で払おうとすると、手が動かなかった。
手が上がらない。床か机か判然としないがとにかく僕が仰向けになっているその面から、手が空中へと上がってこない。
首を曲げて自分の腕を見ると、手首と二の腕のあたりの二か所がロープで縛られて固定されていた。左手側も同様に、がっちりと固定されていた。
足を動かしてみたけれどそこも同様に、動かすことができなかった。両足まで縛られているらしい。
完全に拘束されていた。身動きを封じられている。
お化け屋敷のような不気味な建物の中で、仰向けの体勢で拘束されている。
なんだこの状況は。
「あたし今日のために三日前から何も食べてないんだよね~」
ぎぃと建付けの悪いドアが開くような音と共に、なにやら女の子のはしゃいだ声が聞こえてきた。
木の板が軋む音を鳴らしながら、一歩一歩その足音がこちらに近づいてくる。
そして、一面の天井が広がっていた視界の右端から、人間の顔が現れた。
その人間と目が合う。
葉月さんだった。
「ありゃ、もう起きちゃってるじゃん。……んー、でもまあ、それでもいっか」
にぃっと口角を吊り上げてから、葉月さんは僕の視界から姿を消した。
「ねぇあれあれ、ナイフは?」
「そこ」
腹の底に響くような低い声だった。葉月さんの他に誰かがいるらしい。
「おー、せんくー」
木の板が軋む音がする。木の板が引きずられる音がする。今度は微妙に種類の違う木の板が軋む音がした。
今の僕の周りで何が起こっているのか全くわからない。
頑張って首を下に曲げて、自分の足先の方を見る。僕の足の向こうに、葉月さんの上半身があった。つまり僕の身体はテーブルの上に縛り付けられていて、葉月さんはそのテーブルのそばの椅子に座っている、ということか。なんだそれ。
どういう状況だ?
葉月さんの手には銀色の鈍く光る何かがあった。
「ねー、もう食べていい?」
「駄目だ。まだ準備ができてない」
だいたい、二条さんはどこに行ったんだ。さっきまで僕と一緒に楽しく水族館デートを満喫していたはずの二条さんは、いったいどこへ行ってしまったんだ。そして僕はいったいどこへ来てしまったんだ。
この薄暗い屋内空間はどこなんだ。なぜそこに葉月さんがいるんだ。その低い声の男は誰なんだ。
僕はなぜ拘束されている?
僕はこれからどうなるんだ?
葉月さんはこれから何をしようとしているんだ?
「準備ー……、ああ、そういえばカレー作るんだっけ。でもいいや。あたし生でも食べられるし、ちょっとぐらいならいいでしょ?」
「まあ、少しなら」
「やったー! じゃあさっそく足先から~」
その瞬間、右足の親指にとんでもない激痛が走った。いや、走っていない。いっそそのまま走り抜けてくれれば良かったものを、痛みはずっと親指に居座り続けている。
ぎりぎりぎりぎりと、親指の側面が削られていくような、削り取られていくような痛みだった。
なにが起こっているのか、その足先を確認するために、額に脂汗を浮かばせて歯をくいしばりながら、首を曲げた。
葉月さんがとても愉快そうな笑顔で僕の足の親指をナイフで切り取っていた。
ぎこぎことナイフをのこぎりのように前後に動かして、僕の親指を切り取ろうとしている。
なにやってるんだ。
なんでそんなことを。
僕の親指なんて切って、どうするんだ。
「がぁッ……」
親指の骨と神経が切り取られた痛みに耐えきれず、吐血するように少しゲロを吐いた。
そんなことには構わずに葉月さんはどんどんナイフを進めて行って、ついに僕の親指が完全に身体と分離した。
僕の親指が切り離されてしまった。
僕の足から親指が消えてなくなった。親指が消えたから、人差し指が先頭になる。
なんだこれ。
何が起こってる。
「んあー」
葉月さんは僕の親指を高く上げて、親指から滴り落ちる血液を、その大きく開けた口で受け止めている。
そのまま、手から親指を離して、口の中に放り込む。
むぐむぐと、僕の親指が口内で弄ばれる。
「んー、魂の味がするね」
つい数秒前まで僕の身体の一部だったものが、今は葉月さんの口の中に入っている。
つい数秒前まで僕そのものだったものが、葉月さんに取り込まれている。
葉月さんに奪われたまま、もう二度と返ってくることはない。
僕の親指はもう二度と返ってこない。
「ぺっ」と葉月さんは何か小さな白い物体を吐き捨てた。
僕の骨だった。
脳みそがぐにゃぐにゃに変形したような心地がする。
「どうせなら足首ぐらいまで一気にいっちゃっても大丈夫だよね? ほら、中原くんって意外と体格良いし」
「まあ、それぐらいなら、いいんじゃないか」
いやよくない。
足首って。
僕の足首から先までを、食べようとしている?
そんなものを食べて何になる。
やめろ。
「いぇーい! それじゃあ一息にいっちゃおうかァ!」
葉月さんが僕の足首にナイフをかける。薄暗い空間でナイフの鈍い光だけが際立っていた。
「やめろ、やめろ……」
足首が切られたら、足首が食べられたら、どうなる?
僕の足首が失われたら。
とりあえず、今までのように両足で一歩ずつ歩くことはできなくなるだろう。
爽快に全力で腕を振って地面を駆けることもできなくなるだろう。
今までの当たり前が一気に覆されることになるだろう。
そんなのは。
やめろ。
「いっせーの!」
「やめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろ」
ストン、と。
ナイフが一気に振り下ろされて、僕の足首は一瞬にして切り離されてしまった。
僕の身体から足首が失われてしまった。
足首の断面からさまざまなものが外へと流れ出ていくような感覚がした。
本来循環して再び脳天まで戻ってくるはずのものが、足首からだらだらと流れ出ている。
足首ではなく頭が痛い。
もう一生歩けなくなった。もう一生走れなくなった。
義足を使えばあるいはなんてことを考える余裕はなかった。
ぽたぽたとテーブルから床へと血液が滴り落ちる音が聞こえた。
「ん~、なかなか美味しそうじゃな~い? テンション上がっちゃ~う」
靴を持つように僕の足を手に取って、葉月さんはその断面からくいっと血液を吸い取っている。
悦楽の限りを尽くしているような表情。
「い、たい……」
視界の端が白んできた。痛い、苦しい、吐きそう、辛い。冷たくて赤黒い感情で胸がいっぱいになる。溢れそうになる。
足首が失われて。それ相応に血液も失われて。
僕はこの先どうやって生きていけばいい。
そもそも生きる意味なんてあるのか。
「あむ」
まるで骨付きチキンにそうするように、葉月さんは僕の足にかじりついた。そのまま噛み千切って、その赤い肉を口の中に取り込んだ。
葉月さんの口の周りは真っ赤に染まっている。
むぐむぐと、葉月さんは穏やかな笑顔で、かつて僕の一部であった肉を咀嚼している。
とても幸せそうな表情だった。
これから、僕の足は葉月さんに消化されて、この世から抹消されてしまうのだ。
僕の肉は跡形も残らず、葉月さんに吸収される。
この世には何も残らない。
「男子中学生のくっさい足はこういう味がするんだねぇ、へぇ~」
むしゃむしゃばくばく、葉月さんは僕の足の肉を頬張り続ける。
意識が遠のいてきた。
いっそ意識なんて失ってしまいたい。
こんな地獄はすべて嘘だったのだと、そう言ってほしい。
僕の右足は誰にも食べられることなくちゃんと接合したままなのだと、そう言ってほしい。
今からでも遅くはない。なにもかもが嘘だったのだと、誰かネタばらしをしてくれ。
こんなものはただの悪い夢なのだと、そう言ってくれ。
「左足もいっちゃっていいよねー?」
「ああ」
ストン、と。
「ごぇほぁッ……」
自分のゲロが噴水のように舞い上がって、それが自分の顔面に着地した瞬間。
脳の血管が五本ほど切れたような感覚があった。
そして僕の視界は真っ白に包まれてしまった。
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