第一話 -中原 航太-

 十四歳の身ながらにして、僕には人生で初めての彼女ができた。


 二条にじょう千草ちぐさという、僕の最高にして最愛にしてこの世界の最高位に君臨すべき恋人ができた。


 その天変地異とも言えるような珍事が起きたのはほんの昨日のことだった。


 昨日の下駄箱で二条さんを見つけて、僕が勇気を振り絞って思い切って一緒に帰ろうと誘ったら、二条さんは笑顔で快く僕の誘いに乗ってくれた。その笑顔は明らかな作り笑顔だったけれど。


 それから僕は我ながら本当に頑張った。本当の本当に頑張ったと思う。今までの十四年余りの人生で女の子と一対一で面と向かって話したことなんて数えるほどしかなかったのに、僕は自然な感じで、的確に二条さんが興味を持ちそうな話題を選んで展開した。


 二条さんと僕との会話はとても弾んでいたと思う。僕は話しながら、二条さんから発せられる女の子特有の薄い桃味みたいな甘い匂いを堪能するのに夢中で、あまり話の内容は覚えていないのだけれど、二条さんは楽しそうに笑っていたから、たぶん会話はとても弾んでいたと思う。


 しばらく歩いたあと、二条さんが駅の方に用事があると言って去っていこうとした瞬間、僕は無意識に二条さんの手を取って引き止めていた。まず、かなりの勇気が必要であろうそのような行動を無意識に起こした自分に自分で驚き、それから急に女の子の手を取ってしまった自分の気持ち悪さを恥じて、つまり感情がとても忙しかった。


「え。っと、あー、どうしたの?」


 二条さんは一瞬びくっと肩を震わせた。それからゆっくりと振り返って、困ったような笑顔で僕に訊いた。


 どうしたもこうしたもない。


 二条さんにまだ帰ってほしくないから、僕はわざわざ手を取って引き止めたのだ。


「……あの、さ」


 よし、落ち着いて一度深呼吸をしよう。吸って、吐いて。


 大丈夫だ。安心しろ僕。絶対に成功するはずだ。僕はこれまで、二条さんに嫌われるようなことは特にしていないはずだし、それよりむしろできるだけ二条さんに好かれるような行動を心掛けてきたつもりだ。


 だから、大丈夫。


 思い切って、その一歩を踏み出せ、僕。


「僕、二条さんに言いたいことが、あるんだ、けどさ……」

「ん、そっか」


 二条さんは一度姿勢を正して、身体ごと僕に向き直る。二条さんにはもうある程度この後の展開が予想できているみたいだ。なんとなく恥ずかしい。


「僕、実は、二条さんのことが、その、好き、で、さ。もちろんその、恋愛、的な意味なんだけど」

「うん」


 二条さんは、薄い微笑みを崩さずに、相槌を打つ。その表情に動揺の色は全くなかった。


 同級生の男子に好きだと言われたのに、あまりにも落ち着いている。


「だから、その、僕と……付き合って、ほしい。なんて……。だめ、かな?」

「うん、いいよ」


 その返答に全く迷いはなかった。


 その返答に重要な選択をよく吟味して選んだという響きはなかった。


「え?」

「いいよ、私たち、付き合おっか」


 二条さんは目を細めて、優しく微笑んだ。


 それが自然な笑顔に見えなかったのは、僕の人格のほうに問題があるからだろうか。


「い、いいの?」

「いいよ。私今彼氏いないし、私も中原なかはらくんのこと好きだしね」

「え、僕のこと、好き?」

「うん、好きだよ。大好き」


 全く微笑みを崩すことなく、平然と歯の浮くようなセリフをのたまう二条さん。


 どんな強心臓の持ち主なんだ、二条さんは。


 僕の心臓はもう持たないかもしれないのに。僕の身体は、今ここで爆発四散してしまうかもしれないのに。


「え、と、あの、本当にいいの?」

「だからいいって言ってるじゃん。今日から彼氏彼女だね、私たち」


 二条さんはふふっと笑みを零す。その年上のお姉さんみたいな仕草に、僕の心臓はますます高鳴る。


「じゃあ、恋人同士の印ってことで」


 言うと、二条さんは僕に近づいてきて、そして僕の頬にそっとキスをした。


 急に二条さんの匂いが大量に僕の体内に入り込んできて、そしてその匂いが僕の血液に溶け込んでものすごい速さで体内を循環して脳髄まで届いて、脳内麻薬がドバドバ洪水のように噴き出て、僕は頭がおかしくなりそうになった。


 少しだけ頬を紅潮させた二条さんが、いたずらっぽく微笑みながら僕から遠ざかる。


「そゆことで、じゃあね。また明日」


 控えめに可愛らしく手を振って、それから二条さんは僕に背を向けて歩いて行った。


「あ、あ……」


 僕はしばらくの間、自分の空いた口をどうにか塞げないかと必死だったが、その努力も虚しく、それから一時間はその場所から動くことができなかった。微動だにすることができなかった。


 ついに僕のもとにも、春が来たのだ。


 この世に神は存在したのだ。


 忍び寄る冬の気配を感じるようなある晩秋の日、僕は一人で春の訪れに歓喜していた。



 昨夜一晩中興奮して一睡もすることができなかった。二条さんとのこれからのことを考えるだけで、ウキウキとワクワクとドキドキとバキバキが止まらない。


 一睡もしていない僕だが、全く疲れを感じていない。なぜならこれから二条さんに会うことができるから。最愛の恋人に会うことができるから。その事実だけで身体の奥から無限大の活力が湧いてくる。


 自己最高記録の速さで朝の支度を済ませ、全力でがむしゃらに通学路を走って学校まで向かった。不気味なほど清閑な様相の校舎に入って、階段を二段とばしで駆け上がって勢い込んで教室の扉を開けると、もちろんそこには誰もいなかった。


「さすがに早すぎたか……」


 膝に手をついて息切れを整えつつ、一人呟く。


 額の汗を拭いながら、窓際最後列の自分の席に座る。


 僕と二条さんは、同じ学校の同じクラスに在籍する同級生であり、そして昨日からは恋人同士だ。


 僕がなぜ二条さんに好意を抱くようになったかといえば、それは……えーと、なんでだっけ。


 残念ながらよく憶えていない。だけれど見た目が良いからだとかそんなくだらない理由ではなかったことだけは確かだ。たぶん。


 二条さんは、四月から七月までの約四か月間、僕の隣の席に座っていたことがある。僕はその四か月間のどこかで、なにかしらのきっかけがあって、二条さんに対して好意を抱くようになった。


 二条さんは、まあ、恋人の贔屓目じゃないけれど、世間一般の見地からしてみてもかなり美人だと思う。


 美人だし、愛想が良いし、性格が良いし、良い匂いがするし、胸が大きいし、身長もでかすぎず小さすぎず、スタイルも良い。


 まさか、僕みたいな平々凡々を極めつくした、いわば量産型の男子中学生が二条さんと付き合えるなんてことは、本来ありえない。


 だが、そのありえないはずのことが今現実に起こっている。


 それも、他でもない僕の身に、それが起こっているのだ。


 これほど幸せなことが果たして他に存在するだろうか。


「なんだ中原、ニヤニヤして気持ち悪い」


 気づけば、教室内はぽつぽつとクラスメイトが登校してきていた。僕が二条さんのことを考えている間に、教室は徐々にいつもの騒がしさを取り戻している。


 二条さんのことを考えていると途端に周りが見えなくなってしまう。


「うるせぇ。別にニヤニヤしててもいいだろ。勝手にさせてくれ」

「気持ち悪いんだよその顔。ほら、あれあれ、公然わいせつ罪だ」

「お前男だろ」

「関係ないだろ。気持ち悪いのに変わりはないんだから」


 クラスメイトの男子相手に脳が溶けたような会話を繰り広げつつ、僕は横目でずっと教室の扉に注目していた。


 見たところ、まだ教室内に二条さんの姿はない。まだ登校してきていないのだ。二条さんが登校してきたら、すかさず僕が一番に挨拶しにいこう。普段ならそんなストーカーじみた気持ち悪い行為は世間的に許されないが、今日からそれはストーカーじみた気持ち悪い行為ではなくなるのだ。今日からそれは、恋人として自然な行為として扱われる。


 ……ああ、やっぱりこんなのニヤニヤせざるを得ないだろ。


「そういや、昨日の夜コンビニで二条のこと見かけたんだけどさ、」

「あ!」

「うわ、急になんだよ」


 二条さんが教室の扉に現れた。


 相変わらずの、どこかしらから剥がしてきてそれを顔にぺたっと貼り付けただけのような笑顔で、教室内に入ってきた。


 僕はすぐに立ち上がって、二条さんのところまで向かう。


「お、おはよう! 二条さん」


 できるだけ爽やかに、挙動不審に見られないように意識する。がっつきすぎな男は嫌われることくらい、恋愛経験皆無の僕でも知っている。


「おはよう中原くん」


 二条さんは僕に顔を向けることなく下を向いて、机に引っかけた鞄の中を漁っている。


「どうしたの? 何か用事?」


 至って穏やかな口調だった、けれど。


「い、いや、なんでもないんだけど、その、挨拶しておいた方が良いかなって」

「そう。おはよう。はい」


 はい、もう挨拶したからどっか行け。ってことか。


 ……いや、さすがにそんなわけないだろ。それはいささか卑屈すぎというものだ。二条さんは昨日、確かに僕のことを好きだと言ったのだ。僕と二条さんは、両想いのはずなのだ。


 二条さんが僕のことを邪険に扱うわけがないんだ。


「え、えっと、今日の調子は、どう?」

「うーん、普通かな」

「……な、なんかさ、最近寒くなってきたよね。風邪とか、引いてない? 大丈夫?」

「大丈夫」

「そ、そっか……」


 僕は今、恋人と会話しているんだよな。


 それなのに。


 なんだろう、この惨めさは。


 なんだろう、この胃の痛みは。


「そろそろホームルーム始まるから、席戻った方がいいよ」

「え、ああ、うん。……そうだね。じゃあ、また」

「うん」


 会話の中で一度も二条さんと目が合うことは一度もなかった。僕は震える足で自分の席へと戻った。


 なぜ足が震えていたのかはわからない。きっと寒さのせいだろう。そうだ、そうにちがいない。


 その後、二条さんが不意に立ち上がって急いで教室から出て行ったのを見届けて、僕は机に突っ伏した。

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