イイ女の作り方

ニシマ アキト

第一章

第1話 A naked girl. -二条 千草-

 十四歳の身ながらにして、私の人生は他の大人たちと比べてこの先とてつもなく長いのだという実感が、全く湧いてこない。


 私の人生には将来というものがあるのだという実感が、全く湧いてこない。


 十四歳から先の人生が全く想像できない。なにがしかの仕事に就いて社会人として働いている自分はもちろん、高校生として学校に通っている自分すらも想像できない。


 私の将来への展望は暗闇に閉ざされている。


 明日の自分が一体どうなっているのかもわからないまま、いや、一秒先の自分がどうなっているのかもわからないまま、私は一瞬一瞬をその場しのぎで生きている。


 自分の未来のことが何も見えてこない。今より先が存在することが信じられない。


 そして、そういう生き方をしていると、もういつ死んでも構わないような気がしてくる。未来が全く見えてこないのだから、未来まで生きる必要がなくなる。未来まで生きる意味を見失う。


 もしかしたら今日、私はこの後交通事故に巻き込まれて死ぬかもしれない。こんな可能性は誰しもにあるけれど、その可能性を毎日いちいち意識して生きている人間は少ないだろう。


 だけれど私はいつもその可能性を考えている。道を歩いているとき、自動車が急に歩道に突っ込んできて、建物と自動車の間に挟まれて身体中の内臓が全部ぐちゃぐちゃになって死ぬかもしれないとか、駅のホームで急に何者かに後ろからどんと背中を押されて、そのままホームへとやってきた電車に身体を吹っ飛ばされて四肢が分裂して死ぬかもしれないとか、あるいは、極端な話だと、すれ違った人がナイフで私の胸を刺してくる可能性だってある。この街に通り魔が住んでいないという確証はない。


 考えてみれば、日常の中にはこんなにも死の可能性が潜んでいる。私に限らず人間誰しも、二十四時間三百六十五日、みんな死の危険性に付きまとわれているのだ。それなのにも関わらず将来への希望を持って、その長期的な目標に向かって毎日コツコツ頑張るのって、なんだか馬鹿らしくないか。


 そうやって言い訳をして、希望を持たずなにもせずただ人生を貪り食っているだけの自分を正当化して、私は今日も死なずに生きている。


 明日突然死ぬかもしれないし、別に明日突然死んでも構わないけれど、とりあえず今日は死んでいないから生きていよう。


 私はそんなスタンスで今日も生きている。


 そしてそんなスタンスで生きていると、まあ、お察しの通り、自然に笑うことができなくなってくる。


 自然に笑いが零れるということが、一切なくなる。


 人が笑うときに湧いてくる感情って、どんなものなのだっけ。


 そんな中二病みたいな、いかにも思春期真っ只中のような思考をしていたある日、私の人生は突如としてひっくり返った。


 あの日。私が破瓜をした日。つまり処女を卒業した日。あの日から私の見える世界は百八十度傾いた。なにもかもが違って見えるようになった。


 一切未来を見ることができなかった私が、明日の未来ぐらいは見据えることができるようになった。


 処女卒業したくらいでそんな大袈裟な、と思われるかもしれないが、これは私にとっては大袈裟でもなんでもないことなのだ。


 普通の世間一般の人が破瓜を経験しても、世界観が変わるなんてことはないのだろう。


 それでも私は、あの衝撃が忘れられない。あんな安心感が、不安からの解放がこの世に存在しただなんて。


 破瓜に対してこんなにも多大な衝撃を受けている私はやはり、世間からしてみれば異常なのだろうけれど。


「いつも辛気くさい顔ばっかりしてるよな、お前って」


 と、辛気くさい顔の男が私の顔を覗き込みながら言ってきて、私は咄嗟にぷいっと顔を逸らす。


「うるさい」

「辛気くさい顔しててもかわいいーよ、千草ちぐさ


 にやりと嫌な口角の吊り上げ方をして、男は私の頭を軽く撫でる。大きくて暖かくてざらざらした手のひらが、私の髪の上を滑る。


 この男に頭を撫でられて、少しだけ息苦しさが和らいでしまっている自分が最低最悪で大嫌いだ。


「うるさい」

「褒めてやってるんだから、そういうときは素直にありがとうって言うんだよ、クソ中坊」

「うるさい」


 私がそう言うと、男はふーっと大きくため息を吐いて、ベッドの毛布を深く被って寝返りを打って、私に背を向けた。男の吐いたため息が煙草臭くて、私は目の前を手で払う。


 ため息を吐きたいのはこっちほうなのに。


 本当は私だって思いっきりため息を吐きたい。それなのに、この男は私がため息を吐くとなぜだか滅茶苦茶機嫌が悪くなる。「子供がそんなでっかいため息吐いてんじゃねーよ。日本の将来が心配になるだろ」とか言って、舌打ちをしまくって声が荒っぽくなる。つまりいつ殴られるかわからない状況になるわけで、ものすごく怖い。だから私は安易にため息を吐くことすらできない。


「お前、さすがにそろそろ帰らないとやばいんじゃねーの」

「うるさい、わかってる」


 誰が私をここに呼び出したと思ってるんだ。


 私は好きでここにいるわけじゃない。


 私がベッドから降りて、下着をつけていると、男が後ろでなにやらがさごそ騒がしく手を動かしている。部屋が散らかりすぎていて、財布ひとつ取り出すのも一苦労なのだろう。


 私がワイシャツを着たところで、男が私の肩をぐいっと引っ張って、無理やり振り向かされた。


「じゃ、今後ともよろしくってことで。これ、今日の分な」


 男の手の中でひらひらとたなびく五千円札を素早く受け取って、私はすぐに財布の中へとしまった。 


 別にこのお金は、私の価値が五千円でしかないという意味のお金ではない。私はこの男に五千円で買われたというわけではない。


 でも、そういう行為のあとにそうやってお金を渡されると、なんだか敗北感のような、言い知れぬ黒いどろどろした感情が体内で渦を巻きだす。


 この男と同じ空間にいるといつもイライラするな。


 もうこんなことはやめにしたい。いや、私の意志に関係なく、こんなことは早急にやめにしたほうが良いのだ。この男は私にとって必要な存在ではないし、私が今日この五千円を受け取らなかったとしても、私は何も生活に困るわけではない。たとえこの男がいなくても、私は何の問題もなく生きていける。


 こんな男と会っても、メリットなんてひとつもない。


 この男との関係を断ち切るのは至って簡単だ。ただこの男からの連絡の一切を遮断すればいい。幸いにしてまだ私の住所は教えていないのだから。


 それを理解しているのに、私はずるずるとこの男との関係を引きずってそのままにしてなあなあにして。


 ひとたび呼び出されれば今日のようにのこのことこの男の家まで来て。


 なすがままこの男のいいように私の身体を使われて。ところが私もまんざらでもなくて。


 この男の代替なんて、用意しようと思えばいくらでも用意できる。こんなタバコ臭くて薄汚い男じゃなくても、私の相手をしてくれる人はたくさんいるのに。


 私は一体何がしたいのか、自分でもよくわからない。いや、自分だからこそよくわからないのか。


 私がこの世で一番理解できないものはすなわち、自分の感情の正体だ。


 スカートを履いてブレザーを羽織って、鞄を持ってから、ごみが詰まったビニール袋で敷き詰まった廊下を歩く。ビニール袋をぐしゃぐしゃと踏みながら歩く。


「気ぃつけて帰れよ」


 男の声が後ろから聞こえてきたけれど無視して、玄関の扉を開いた。すると途端に空気の質ががらっと変わる。あの部屋の中の淀んだ空気に比べれば、都会の空気も清廉なものに思えてくる。冬の夜特有の、頬を刺すような、なんとなく澄んでいるように思える空気。実際は全く澄んでなどいないのだろうけれど。


 ボロアパートの、錆びだらけの軋んだ階段を降りる。いつか突然足元がすっぽ抜けるんじゃないかと、この階段を利用するたびにひやひやする。


 さっきの男は西園寺さいおんじ信也しんや。二十四歳。日本で一番頭のいい私立大学を卒業していて、現在は無職。


 なぜ私があの男の学歴まで知っているのかと言えば、それはつまりあの男がしきりに学歴を自慢してくるからだ。あの男はことあるごとに自分の学歴を引き合いに出してくる。結局は無職のくせに。


 最終的に無職なら、高学歴も高卒も中卒も何も変わらないだろ、と、何も知らない中学生の身では思うのだけど。


 駅までの道中を若干の早足で歩いていると、ふと、ブレザーの中のスマホが震えた。


『今日はありがとう、千草チャン。楽しかったヨ!(^^♪』


 画面を見ると、見るからに鬱陶しい西園寺からのメッセージ。


 相変わらず気持ち悪いなこいつ。家でセックスしただけで何も楽しいことなんてなかっただろ。


 手をわななかせながらスマホをポケットに戻して、大きく白い息を吐いた。


 両手を擦り合わせながら、冷たい夜の道を歩く。


 もうすぐ本格的な冬が到来するらしい。私の大嫌いな季節だ。


 なぜなら私は寒いのが苦手だから。そして寒さを和らげようと暖かさを求めると結局、人の体温を求めるしかない。


 ストーブやこたつや暖房は、私の寒さを和らげてはくれない。あれは暖かいんじゃなくて、ただ熱いだけだ。寒いが熱いに変わるだけで、そこに心地よさはない。


 でも人の体温には心地よさがあって、安らぎがあって、暖かみがある。その特異な温度は科学では到底作り出すことのできないものだ。


 冬は私が一番人の体温を求めたくなる季節。思えば、今までの人間関係における大失敗は全部、冬に起こった出来事だった。


 私が人の体温に飢えて、だんだんと理性を保てなくなっていくのが冬なのだろう。


 いや、私が異常なのは自覚している。気温が下がったからといって人の体温を求め始めるなんて、明らかに異常だ。第三者からしてみれば理解不能だろう。わかっている。


 人の体温を求めて人間関係を構築するなんて、そんなのは絶対に失敗するに決まっている。そんなのは必然的にうまくいかないのだ。自分だけが利得を得るために構築する人間関係は、絶対に本物になれない。


 だいたい、人間関係の中に暖かみが本当に存在するのかさえ曖昧なのだ。人と人との間に安らぎなんて、元々存在しないかもしれない。その安らぎは私が勝手に感じている錯覚のようなもので、本当は存在しないのかもしれない。


 人は結局、どこまでも孤独だ。人の関係は目に見えない。自分たちが本当に繋がっているのか、確認する術はない。たとえ友達が千人いたところで、その千人ひとりひとりと本当に繋がっているのか確認することはできないのだから、つまり友達が千人いたところでその人は孤独として存在しうる可能性がある。


 だから、人の体温に心地よさを感じるなんて、本当はありえないのかもしれない。


 だけれど私はそこに暖かさを、安らぎを感じてしまっている。


 だから人の体温を求めてしまう。


 男でも女でも老人でも子供でもなんでもいい。ただ一緒にいたい。会って話がしたい。体温を感じたい。


 どうせ誰かの体温に心地よさを感じたところで、自分が完全に満たされることなんてありえないのに。


 私がこの寂しさから解放されることは、ありえないのに。


「……さみぃ」


 今夜は特に冷え込むな。コートを羽織ってくればよかった。朝の時点ではそこまで寒くなかったから、油断していた。


 どこかのコンビニでネックウォーマーでも買って帰ろうか。


 コンドームと一緒に。

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