夢ノ二 消えない想い

 萌える緑が鮮やかに景色を縁取る初夏。

 江戸は、ほんのり汗ばむ陽気になってきた。

「良い季節ですね」

 優太は上機嫌で歩きながら、境内の藤を仰ぎ見る。

 亀戸天満宮は藤の見頃を迎え、見物客で溢れていた。

 頬にかかる風が、今が盛りと咲き乱れる藤を優しく揺らしている。

「本当に。今年も、ここの藤は見事だねぇ。良い匂いだ」

 凜が藤を見上げてほっそり微笑んだ。

 今日は天気が良いので、二人は仕事を一時中断して散策に出ていた。

 尤も、そうそう客が来るわけでもない。

 ごろ寝して煙をふかしている凜を見兼ねた優太が、仕方なしに誘い出したわけだが。

「凜さん、あっちの店に葛餅がありますよ」

 優太が指さした方向には何軒かの店が軒を連ねている。

『葛餅』の、のぼりの前には人混みが出来ていた。

「この季節の亀戸天神と言えば、葛餅だからね。食べていくかい?」

 優太が、目をきらきらと輝かせる。

「良いんですか!」

「あんたにゃぁ、世話になっているからね。たまには孝行しとくよ」

「ありがとうございます!」

 気怠そうに歩く凜に先立って、優太は小走りに店に向かう。

「全く。あの姿だけ見ていれば、童なんだけどねぇ」

 普段、凜の部屋を掃除したり仕事をしろと叱る優太はしっかりしすぎていて、とても子供とは思えない。

 とはいえ優太は座敷童だ。

 もう何年になるか忘れたが、だいぶ前から凜の診療所に居座り、いつの間にか世話役になっていた。

(それもこれも、親父様のせいか)

 優太が凜の所に通ってくるのが、雇い主の差金であることは知っている。

 しかし凜は優太について、それ以上を知らない。

 普段どこに住んでいるのか、凜の所に来ない時は何をしているのか。

 凜にとって優太の素性は、あまり問題ではない。

「凜さん、早く! こっちです」

 店先から手を振る優太は、既に二人分の葛餅を注文して長椅子に腰掛けていた。

「あんたは、何をやっても素早いねぇ」

 感心して呟いた凜が椅子に腰かけると、丁度葛餅が運ばれてきた。

「ごゆっくり」

 可愛らしい茶屋の娘が、ぺこりと頭を下げて去って行く。

 優太は早速、葛餅を頬張った。

「美味しい! 藤を観ながら食べる葛餅は、格別に美味しいですね!」

「そりゃ、良かった」

 凜は葛餅を一口食べると残りを優太にやって、自分は煙草を吸い始めた。

「もう要らないんですか?」

「あたしは一口で充分だ。後は、あんたが食べな」

 あっという間に自分の分を平らげて、手持ち無沙汰にしていた優太が、ぱっと顔を上げる。

「それじゃ、遠慮なく」

 凜の分の葛餅を、美味そうに食べ始める。

「葛餅も、それだけ美味い美味いと食ってもらえりゃ、本望だろうよ」

 呆れる凜を他所に、優太はじっと何かを見詰めている。

 視線の先を辿る。

 藤を見上げて歩く人混みの中に、一人佇む侍の姿があった。

 勤めの途中なのだろうか、袴姿に二本差しで呆けたように藤棚を見上げている。

 しかしその瞳は、何も映っていないような、別の何かを見ているような、そんな顔だった。

「あの人、何しているんでしょうね」

 優太が侍を、まじまじと見つめる。

「さぁねぇ。藤が綺麗だから、見惚れているんじゃないかぇ」

 気のない返事をする凜だったが、何だか気になった。

 優太と一緒になって、その侍を眺めていた。


 藤棚がきれいだ、と思った。

 仕事場に戻る途中、近道だからと境内の中を歩いていた。

 だが、思った以上の人混みに、この道を選んで後悔していた。

 そんな時、ふと顔を上げて足が止まった。

 咲き誇る花の中に、あの人の笑顔を見たようで、思わず立ち止まってしまった。

 ここに来たのも悪くなかった、などとぼんやり思う。

 宗介は、はっと我に返った。

(もう、忘れようと思っておるに)

 何かにつけて、あの顔を、あの笑顔を、思い出してしまう自分が情けない。

 宗介は歯噛みしながら足早に歩き出した。

 江戸城本丸表。それが表右筆組頭である清水宗介の仕事場である。

 清水家は江戸開府当初から続く直参旗本という由緒正しい家柄だ。

 長男である宗介は、直参である誇りと歴史ある御家の家督を継ぐための教育を散々施されて育てられた。

 だから家を継ぐのは当然の事、御家の為なら我が身を捨てて務める所存であった。

 あの人に、会うまでは。

 本当なら親の定めた相手と相応の結婚をして家を盛り立てていかなければならない。自分ならそうするだろうと信じて疑わなかった。

 なのに、出会いは突然訪れた。

 それは、初冬の頃。

 あの日は、細雪が降っていた。

 仕事の帰り道、普段は通らぬ道をたまたま歩いていた。

 見つけた娘の、寒椿を眺める横顔が、あまりにも儚く美しかった。

 呆然と立ち尽くしていると、ふと振り返った彼女がこちらに気付いて笑いかけた。

 笑顔に滲む憂いには温かさが、柔らかな視線には聡明さが宿って見えた。

 それから宗介は、その道をよくに通るようになった。

 娘の名は佳世と言った。

 徒組頭を務める御家人、山本家の一人娘だという。

 初めは何でもない世間話。

 段々と互いの話をするようになって、その為人を知っていった。

 知れば知るほど、佳世の思慮深さや奥ゆかしい性格が裏付けする美しさが、増してゆくようだった。

 父親である山本創吾とその妻である栄は、娘と宗介の仲を大層喜んだ。

 初めからその気があったわけではなかった。だが、佳世を知れば知るほどに、惹かれていった。

 直参旗本である清水家にとり徒組頭の山本家は、嫁を取るには些か不具合だ。

 それでも。

 宗介は初めて自分の意思で、自分の欲しいものを手に入れたいと思った。

 両親の反対を押し切り、何とか説得して御家人という家柄の佳世を娶ることを納得してもらった。

 佳世も、喜んでくれるだろうと思っていた。

 しかし佳世は、輿入れの話が動き出してからというもの、憂い顔を覗かせることが多くなった。

 何かを言いたげな瞳は、俯くばかりで何も言ってはくれない。

 この時の宗介にとっては、それでも良かった。

 言いにくいことも、夫婦めおとになれば、わかり合えると思っていた。

 宗介にとって最大の難事である両親の承諾を得られれば、後は佳世を妻として迎えるだけだ。

 そう、思っていたのに。

 佳世が眠りから目覚めなくなったのは、それから程無くしてだった。

 悪夢をみているのか、ずっと魘されて、誰かに許しを請いている。

 佳世の身に何が起こったのか、全くわからなかった。

 何人もの医者に診せ、それが駄目とわかれば祈祷師にも頼った。

 しかし、佳世は目覚めなかった。

 万策尽きて頭を抱えていた時、佳世が突然に姿を消した。

 なかなか事情を話さない創吾の口を無理やりに割らせて聞き出した。

『鬼に嫁いだ』

 佳世が望んで鬼の嫁になったというのだ。

 しかも、鬼との間に赤子まで授かっていたという。

 宗介は唖然とした。

 鬼は雲に乗って、佳世と自分の子を吉備野に連れ去ったらしい。

(そんな話を、誰が信じるというのだ)

 しかし、佳世が居なくなったのは事実である。

 何度聞いても山本創吾は

「娘は鬼に嫁ぎました」

 と、平伏するばかりだ。

 その隣で栄が、定まらない視線を空に泳がせ、口の中で何かをぶつぶつと呟いている。

 正気を違えた妻を横目に、畳に額を擦りつけて創吾は震えるばかりだ。

 怒り心頭でやってきた宗介だったが、その姿を見たら嘘を吐くなと怒鳴る気にはなれなかった。

(しかし、何故)

 何故、佳世は将来を誓い合った自分を捨ててまで鬼に嫁いだのだろう。

 いつの間に、子を授かっていたのだろう。

 何より、一番考えてやまないことは。

(何故、何も話してくれなかったのだ)

 一言、相談してくれれば、二人で最良の答えが見つけられたかもしれない。

 自分より鬼を好いているというならば、せめて納得のいく理由を貰えれば、諦めがついたかもしれないのに。

 何度も同じ問いを繰り返し、二度と答えは聞けないのだと思い知る。

 そんなことばかり繰り返しているうちに時は廻り、もう藤が咲く季節になった。

(なのに儂は未だに、忘れられぬ)

 今日も藤を眺めて、佳世の笑顔を思い返している。

 一緒に見た事実など、一度もない。

 心が動かされる何かに触れる折、佳世を思い描いてしまう。

 憎い、と思えれば、まだいい。

 未だに恋情の念が消えない。

 それどころか、そうまで自分を裏切った佳世を愛おしいとさえ思っている。

 近頃は毎夜、佳世が夢に出てくる。

 出会った頃のように、佳世が優しく微笑みかけてくる。

 その笑顔に安堵して手を握り抱きしめる。

 佳世は幸せそうに笑って、宗介に抱かれている。

 全く持って、自分に都合の良い夢だ。

 そんな自分が情けなく、許せなかった。

「……様、清水様」

 部下の声にはっと我に返った。

 辺りを見回す。

 今が仕事中で、表右筆の仕事部屋であると思い出した。

 気付けば他の部下たちも仕事の手を止めて、宗介に視線を向けていた。

「こちらの文書を確かめていただきたいのですが……」

 最初に声を掛けてきた部下が、おずおずと文書の束を手渡す。

 文書を受け取ると、一つ咳払いして居住いを正した。

「ああ、わかった」

 と、仰々しく束を受け取る。

「あの、障りがございましたか?」

 何とか体面を保ったつもりだったが、かえって心配されてしまった。

「何か神妙な面持ちでございましたが、不備などございましたか?」

 部下の言葉に、宗介は若干安堵した。

「いや、何も問題ない。皆、よく働いてくれているからな」

 ははっ、と笑う宗介に部下は安心したように一礼して席に戻った。

 他の者たちも、ほっとした雰囲気で各々自分の仕事を再開する。

 宗介は気付かれないように小さく息を吐いて、目の前の文書に視線を向けた。

 表右筆の仕事は所謂、記録書記係だ。

 老中奉書や幕府日記、朱印状、判物の作成、幕府から各藩に頒布する触書の浄書、大名の分限帳や旗本ら幕臣の名簿管理などが主だった。

 対して奥右筆は幕府の機密文書の管理や作成なども行う特に重要な役職である。

 幕閣より将軍に上げられた政策上の問題について、将軍の命令によって調査報告を行う職務も与えられている。なので諸大名は、その存在を恐れており付届けなども多かった。

 奥右筆に空席が出来た際には、表右筆から後任を選ぶのが慣例だ。

 組頭である宗介も期待するところではあったが、未だに声掛けはない。

「そろそろ、切り上げるか」

 隣の席の進之助が宗介を振り返る。

 多和田進之助は同じ組頭の一人だ。

 同い年で、幼馴染でもある。

 幼少の頃から切磋琢磨する間柄だ。

 今では同じ役職に就いた、信頼できる同僚である。

「そうだな。皆の者、本日は、ここまでと致そう」

 宗介が声を掛けると、部下たちは仕事の手を止め帰り支度を始める。

 宗介と進之助はさっさと支度をし、早々に立ち上がった。

「皆も寄り道などせず、真っ直ぐ帰れよ」

 進之助が声を掛けて、二人は部屋を出た。

「宗介、帰りに一杯やらないか」

 進之助が杯を傾ける仕草をしながら、声を掛けてきた。

「皆には寄り道せず帰れと、促していたであろうに」

 笑いながら返すと、進之助は「いかん、いかん」と笑った。

「あんなものは建前だ。我々組頭が遊びをしないと、下の者たちも遊びづらいだろう。お主は、本当に真面目でいかんな」

 宗介の肩に手を置いて、にやりと笑う。

「たまには息抜きも肝要だ。行こうではないか」

 宗介は苦笑して懐に手を入れた。

「これは、まずい。財布を忘れた。取ってくる」

 踵を返す宗介に、進之助が後ろから声を掛けた。

「門の前で、待っているぞ」

 手を上げて答えて、宗介は仕事部屋に引き返した。


 部屋の前に着くと、障子が半開きになっている。

 中から若い者たちの話声が聞こえてきた。

「多和田様と清水様は、いつも早めに切り上げてくださるから助かる」

「ああ、本当だ。金城様は居残りが多い。あれでは、我々が帰りづらくて敵わん」

 金城昭之進は、もう一人の組頭だ。

 宗介たちとは大きく歳が離れていた。

 真面目な性格で、その日の仕事をきっちり終わらせないと帰らない。

 だから、部下たちも困っていたのだろう。

 こんな風に噂されていると知ると、何とも気まずい。

 少々入りづらくはあるが、仕方なく宗介は障子に手を掛けた。

 と、その時。

「しかし清水様は、お気の毒だったなぁ」

「何かあったのか」

「お主、知らんのか。何でも、許嫁を寝取られたとか」

 どきり、と肩が震えて障子を掴んだ手が離れた。

「ああ、その話か。婚礼の準備もだいぶ進んでいたというではないか。本当に気の毒だ」

「しかし寝取られた、ということは、相手は誰だ?」

「そこまでは、わからぬが。相手の女も、随分と酷い仕打ちをしたものだ」

「あの清水様を袖にするとは、浮気相手は余程良い家柄の男なのだろう。儂が女なら清水様に嫁ぎたいと思うがなぁ」

「確かに家柄は言うに事欠かず、だが」

 含みを持った言い回しに、乾いた笑いが緩く流れる。

「温厚でいつも感情の平らな清水様だ。悪いお人では、ないのだがな」

「遊びが足りんのか、多和田様と比べると、何というか地味だし面白味がない」

「真面目すぎて、女子おなごからすれば、詰まらん男だったんじゃぁないか」

「そうだなぁ。特に夜は、さぞ詰まらなそうだ」

 部屋の中に、わっと大きな笑いが湧いた。

 顔が、かっと熱くなって、宗介は拳を握りしめた。

 噂など何かしらされているだろうと思っていたが、こんな形で聞かされようとは。

 しかも今、最もされたくない話だ。

 顔から火が出る思いで、宗介は部屋に背を向けた。


 門の前では進之助が待っていた。

 宗介の姿を見つけて、大きく手を振る。

 小走りに駆け寄って、宗介は俯いた。

「すまん、進之助。今日の所は、帰る」

 顔を逸らして歩き出そうとする宗介の肩を、進之助が掴んだ。

「待て。急に、どうした。部屋で何か、あったか?」

 図星をさされてどきりとした。

 何があったのか、口が裂けても言えない。

 宗介の婚礼が決まった時、自分の事のように喜んでくれた進之助は、話が流れてから一切その話題に触れない。

 進之助も、あのような噂話を自分以上に耳にしているに違いない。

 また顔が、かっと熱くなった。

「部屋で皆が、金城様の噂話をしておった。我々は早く帰ってくれるから、都合が良いそうだ」

 それだけ言うのが、精いっぱいだった。

 進之助は、ははっと笑って宗介の背中を叩いた。

「成程、ではさらに手本を見せねばなるまい。宗介、行くぞ」

 進之助が先を歩き出す。

 宗介は苦笑して、小さく息を吐いた。

 気風きっぷが良く真っ直ぐな進之助は、あの噂を知っていたとしても決して態度に出したりはしないだろう。

 今も、宗介が落ち込んで見えて、あえて誘っているのかもしれない。

 無理強いをする男ではないから、きっとそうなのだろう。

 進之助といると、気持ちが救われることが多い。

 宗介は黙って進之助の後に続いた。

 歩き出して、ふと、思い出した。

「あ、財布……」

 振り返った進之助が、まんじりと宗介の懐を見やる。

「お主、財布を取りに行ったのではないのか」

「……また忘れてしまったようだ」

 言い訳めいて呟くと、進之助は豪快に笑った。

「お主らしくもないな。まあ、いい。今日は俺が驕る。さぁ、行こう」

「すまん。この借りは、きっと返す」

「気にするな。儂とお主の仲ではないか。本当に真面目すぎるなぁ、宗助」

 胸に、つきんと痛みが走った。

「真面目、か」

 俯き加減に、ぼそりと呟く。

「ん? 何か言ったか?」

「いや、行こう」

 胸の閊えには気が付かない振りをして、宗介は無理に笑顔を作った。

「……そうだな」

 進之助は、それ以上何も言わなかった。

 二人は並んで歩き出した。


 どの位飲んだだろう。

 正直覚えていないが、目の前に転がる徳利の数は、有に十を超えている。

「宗介、大丈夫か」

 卓に突っ伏して寝こける宗介を、心配そうに進之助が覗き込む。

「宗介」

 肩を揺らされて、宗介は漸く重い瞼を持ち上げた。

「うむ、大丈夫だ……。酔ってなど、おらぬ」

「酔っておるだろう。下戸のくせに、飲み過ぎだ」

 進之助の声も、よく聞こえない。

 頭が、ふわふわして気分が良いような悪いような、胸が、もやもやとしていた。

「……佳世」

 名前が口をついて出た。

 こんな時まで頭の中には佳世の笑顔が浮かんでくる。

 思い出したくない、忘れたいのに、決して消えてはくれないのだ。

 吹っ切るように、頭を振る。 

 宗介は、のっそりと起き上がって、ふらつく手で杯に酒を注ぎ始めた。

「もう、よせ。帰るぞ」

 止めようとする進之助の手を振り払って酒を注ぎ、一気に飲み干す。

「親父! もう一本だ!」

 目の前の景色は霞んでいる。

 ここにまで佳世が現れそうで、怖かった。

 宗介は運ばれてきた徳利に口を付け、浴びるように飲んだ。

「いい加減にしろ! もうしまいだ!」

 見兼ねた進之助が、宗介から徳利を奪い取った。

 手早く勘定を済ませて、外に出る。

 宗介は千鳥足で、歩いているのか踊っているのか、わからないような状態だ。

「肩を貸す」

 宗介を担ごうと新之助の腕を、撥ね退けた。

「……いらん。一人、で……歩ける」

 ふらふらの状態で粋がる宗介に、進之助は顔を曇らせた。

「儂は、斯様な情けない男では、ない。情けない、おとこ、では……」

 酒の力を借りても、佳世を消せない。

 そんな自分が情けなくて仕方ない。

 きっと、毎夜みる夢のせいだ。

 起きている間まで、佳世が勝手に思い浮かんでくる。

「もう、嫌だ……」

 宗介の体が大きく傾いた。

 傍を通り過ぎようとした侍に肩がぶつかる。

 その拍子で、宗介は派手に地面に尻餅をついた。

「これは、申し訳ねぇ。お怪我は、ねぇですか」

 どことも知れない田舎訛りが耳に障って顔を上げる。

 随分と野暮ったい格好をした男が、宗介に向かい手を差し出していた。

 着物の素材も色も、如何にも田舎者だ。

 きっと廉価な木綿ででも出来ているのだろう。

 勤番武士だと、すぐにわかった。

(こんな田舎侍にまで、儂は哀れまれるのか)

 胸が悲壮感でいっぱいになる。

 同時に目の前にいる侍に対して、理不尽な怒りが湧いてきた。

 理不尽だとわかっているのに、怒りが加速するのを止められない。

 宗介はその手を払いのけ、自力でふらふらと立ち上がった。

「斯様な刻限まで勤番が遊び歩くのは、如何なものか」

 宗介は覚束無い足を何とか踏みしめて、仁王立ちになった。

「もうすぐ木戸も締まるぞ。銭もない浅葱裏は、さっさと帰れ!」

 大きく腕を振って見せると、勢いで体がぐらりと傾いた。

「宗介、失礼にも程があるぞ!」

 倒れそうな体を支えながら、進之助が宗介を嗜めた。

「ここに座っていろ」

 店の軒先に宗介を座らせる。

 進之助が、侍に歩み寄り非礼を詫びた。

「慣れない酒に酔い、無礼な振舞をして申し訳ない。お怪我はござらぬか」

 侍は小さく苦笑すると、吐き捨てるように呟いた。

「邪険にされんのも、馬鹿にされんのも、もう慣れだ。見だところ大分酔っておられるようだ。早々に帰られよ」

 一礼すると勤番武士は、のっそりとその場を立ち去った。

 丸まった背中には哀愁が漂って見える。

 進之助はしばらくの間、小さくなる背中を見送っていた。

 座る宗介に視線を移す。

 宗介は一点を見詰めて呆然としていた。

 侍と進之助のやり取りを眺めながら、ただ己の事だけを考えていた。

(いつから、こうなった。儂は、いつからこんな男に、なったのだ)

 真面目に職務をこなし、御家の為に自分を殺して懸命にやってきた。

 それがたった一つの我儘を通しただけで、こんなことになって。

 途方に暮れる宗介の両腕を掴み、進之助が体を揺さぶる。

「宗介、一体どうしたのだ。お主らしくもないぞ」

 宗介はゆっくりと顔を上げた。

「儂らしくない? では、儂らしいとは、なんだ。儂とは、どういう人間だ」

 目を見開いて、宗介は進之助の腕を掴んだ。

「宗介?」

 掴んだ腕が震える。

 目からは大量の涙が溢れて止まらない。

「儂は、どう在ればいい? 教えてくれ、どうすれば、良かったのだ!」

 苦渋に満ちた表情で宗介は俯いた。

 握りしめた拳が地面を何度も、何度も殴る。

「儂は、どうすれば良いのだ……」

 砂利が手にめり込む。

 流れた血が擦れて、地面を汚した。

「宗介……」

 進之助は何も言わず、只々宗介の腕を、しっかりと掴んでいた。


 柔らかな細雪が頬を濡らす。

 冷たい筈なのに寒さを感じないのは、目の前に愛しい人がいるからだろうか。

 佳世はこちらを向いて、にっこりと微笑んだ。

 宗介は手を取って自分の方へと引き寄せる。

 胸の中に、すっぽりと納まった佳世が、幸せそうに頬を寄せる。

「其方が居てくれて、儂は幸せだ」

 見上げた顔が優しく微笑む。

 自分も同じ気持ちだと伝えてくれているようで、宗介の胸が温かくなる。

(ああ、幸せだ)

 そんな気持ちで、目が覚めた。

(また、いつもの夢か)

 上体を、むくりと起こす。

 途端に頭痛と吐気が襲ってきた。

「そうだ、昨日は進之助と飲みに行って……」

 途中から、ほとんど記憶がない。

 どうやって帰ってきたかも、よく覚えていなかった。

 ふと顔に触れると、目が腫れている。

(泣いた、のか?)

 薄らと昨晩の事が思い返された。

 勤番侍とおぼしき男に悪態を吐いた。

 進之助の腕にしがみついて泣いた。

 宗介は頭を抱えた。

(何という醜態を晒してしまったのだ)

 後悔の念がどんどん湧いてきて、消えてしまいたかった。

「進之助に謝らねば……」

 あの侍にも出来ることなら謝りたい。

 どこの誰かもわからぬ侍に、酷い八つ当たりをしてしまった。

「本当に、らしくないな」

 否、自分の本質は、こちら側なのかもしれない。

 考えれば考える程に、気持ちが沈んでゆく。

 現実を直視しながらも、宗介の心の隅にはいつも夢の中の佳世がいる。

 日常で何があっても、毎夜決まってみる同じ夢。

 夢の中の二人はとても幸せで、この時がずっと続けばいいと思う。

(そうか、あれは儂の願望か)

 いつまでも隣にいてくれたらと、二人で生きられたらと、未だに願って止まない。

 目が覚めて、現実に打ちひしがれる。

 こんな事体が続いては、心がどうにかなってしまいそうだ。

「なんとかせねば……」

 ぼそりと呟いたとき、小者の源吉が襖越しに声を掛けてきた。

「若様、お加減はいかがでございますか」

 宗介は重い肢体を引きずって、布団から出た。

「ああ、只の二日酔いだ。開けて良い」

 源吉が、おずおずと襖を開ける。

 赤い丸薬と水を持ってきた。

「これは紫雪といって、酒の毒にあたった時に冷水で飲むと良いとされております。二日酔いにも効くと聞きますので、お含みください」

 源吉は五十を過ぎているだけあって知識も広い。

 清水家で最も古い奉公人である。

 宗介が子供の頃から世話になっているので、まるで家族だ。

「ありがとう、源吉」

 小さな丸薬を二粒、冷水で飲み込む。

 喉を通って胃に流れていく水の冷たさが心地良い。

 一瞬だけ気分が晴れた気がした。

「……宗介様」

 近頃は若様と呼ぶ源吉が、久しぶりに名を呼んだ。

 少し驚いて振り返る。

 心配そうな顔をした源吉が、躊躇ためらいながら話を切り出した。

「宗介様、余計なお話かもしれませんが、最近夢見が悪いのでは、ありませんか」

 ぎくり、とした。

 佳世の夢は誰にも話していない。

 悩んでいる素振りすら見せずに暮らしていたつもりだった。

「もし、悪い夢なら、その夢を買い取ってくれる夢買屋という商売人がおります。そこに相談してみるのも、良いかと思います」

 源吉が一枚の紙を、宗介に差し出した。

「本所の長屋に住んでいるそうです。御入用でしたら、訪ねてみてください」

 宗介の手にそれを握らせると、源吉は頭を下げて部屋から出ようとした。

「源吉……」

 慌てて呼び止めて、言葉に詰まる。

 宗介は、俯いたまま囁いた。

「……恩に着る」

 源吉が、ほっと肩を撫で下ろす。

 微笑んで、その場に腰を下ろした。

「たとえ何があろうとも、源吉は宗介様のお味方でございますよ」

 深く頭を下げると、今度こそ部屋から出て行った。

 潤む瞳で見送って、宗介は手の中の紙を広げた。

「夢買屋……か」

 決意したように口を引き結ぶ。

 手の中の紙を、ぎゅっと握り締めた。


「客が来そうな気配がするねぇ」

 長い煙管を弄びながら紫煙を燻らせて、凜が呟いた。

 初夏の風に靡いた風鈴が涼しげな音を鳴らす。

 気の早い優太が物売りから買った代物だ。

 音色が良いので凜も気に入っていた。

「医者の方ですか? それとも夢買?」

 優太が部屋の掃除をしながら訊ねる。

 凜は「んん」と鼻を鳴らした。

「夢買」

 答えたのと同時に、戸の向こうで声がした。

「御免」

「はいはい、どうぞ」

 優太が戸を開ける。

 そこには清水宗介の姿があった。

「成程」

 凜が薄い唇で、にっと笑う。

 いつぞや亀戸で見つけた、藤を見詰める侍だ。

「ああ、あの時の」

 優太も気が付いて、ぽんと手を叩く。

「どこかで、お会いしたか?」

 宗介が済まなそうに首を捻る。

 凜は、ふふっと笑った。

「いいや、こっちが勝手に見つけたのさ。来るだろうと思っていたが、随分遅かったじゃぁないか」

 何を言われているのかわからず、宗介が怪訝な顔をする。

「どうぞ、お座りください」

 優太が促すと、宗介が丁寧に坐した。

「失礼する」

 宗介の前に優太が手際よく茶を差し出す。

「すまない。馳走になる」

 宗介がその茶を一口、啜る。

 凜が「ふうん」と鼻を鳴らして、宗介に向き合って座った。

「お侍様でも、うちの茶を飲むんだねぇ」

 宗介が不思議そうな顔をして、茶を置いた。

「出されたものに手も付けずにおくのは、失礼だと思うが」

 当然に答える。

 凜が、高笑いした。

「あっはっは。この前、来たお武家の奥方は座るのさえ躊躇って、茶なんか手も付けずに帰っていったよ」

「それは、不躾だな」

「ああ、そうだろう。だから、あんたは良かったのさ。そんな家と、縁が切れたんだからね」

 宗介は一層訝しげな顔になった。

「どういう意味だ」

 鋭い目つきで問う宗介には答えず、凜は顔を覗きこんだ。

「あんたは、ここに夢を売りに来たんだろ。けど、まだ迷っている。その夢を手放すかどうかを」


 どきり、と胸が嫌な音を立てた。

 目の前の女が言う通り、宗介はまだ迷っている。

 この夢を手放すことが自分の為であると、わかっている。

 しかし、佳世との唯一の繋がりを断たれてしまうようで、失うのが怖い。

 夢の中でだけは、幸せな二人でいられる。

「幸せな夢ってのは、手放し難いもんだ。よっくと考えるんだね。一度買っちまった夢は、もう戻すことはできないからさ」

 夢買屋の女主が、まるで宗介の胸の内をみているかの如く話す。

「其方は何故、儂の夢の内実がわかる。儂は周りの誰にも、この夢を話しておらぬ。まだ何も、其方に語ってもおらぬ」

 訝しむ宗介に、凜が妖しく笑む。

「あんたを、前に見かけたんだ。大層、重い夢を抱えているのは、その時に気が付いた。近々、売りに来るだろうと、思っていたのさ」

 宗介は大きく息を吐き、苦笑した。

 そもそも『夢を買い取る商売人』などという触込み自体が、胡散臭い。

 恐らく宗介を心配した源吉が、縁談の内実を夢買屋に話していたのだろう。

 夢を買い取るなど、まるで御伽草紙のような話なのだ。

 そう思いながら、ここまで足を運んだ自分は、藁にも縋る思いで救いを求めている。

 もういい加減、その現実と向き合わねばならない。

「そこまで知っておるなら、儂がどんな夢をみておるかも、わかるのだろう」

 諦めた心持で吐き出すと。

 凜が首を横に振った。

「いいや。確かめないと、わからんよ」

 宗介は困惑した。

 この女は一体どこまで自分の夢を知っているのだろう。

 気味の悪さを感じて黙り込む。

 凜が、ははっと笑った。

「まぁ、あれだ。多少は感じるが、細かい事実は触れてみなけりゃぁ、わからないのさ。人なんて、そんなもんだろ」

 わかったような、わからないような説明だ。

 誤魔化されたような気になりながらも、宗介は何となく納得した気分になった。

「名乗り遅れたが、あたしは夢買屋の凜ってんだ。あんたの名は?」

 宗介は居住いを正した。

「これは失敬した。儂は清水宗介と申す。直参旗本清水家の嫡男として表右筆に就いておる」

「ふぅん。そいつぁ、立派だねぇ」

「所詮は世襲に過ぎぬ故、己の実力ではない。御家の為、一所懸命に努めておるが」

「励んでいるなら、いいじゃないか。持てるものを活かすも運も、実力さね」

「凜さんは、全く励んじゃ、いませんけどね」

 横から入ってきて茶化す優太を、凜がきっと睨みつける。

「……」

 凜の言葉に、心が軽くなった気がした。

 所詮は家督を継いでいるだけだ。

 周囲にそう思われているのではないか、認められていないのではないか。

 そう考えてしまうからこそ、これまで努力を惜しまなかった。

 しかし、どれだけ努力を積み重ねても胸の奥にある小さな蟠りは解けなかった。

 長年持ち続けた宗介の心のよどみを、凜がたった一言で溶かした。

 だからだろうか、素直に気持ちを吐き出してみたくなった。

「儂のみておる夢は……。とても幸せだ。しかし、もう叶わぬ。何時までも未練がましいと思うが、この夢を失うのは正直辛い。夢の中だけでも幸せでありたいと、願ってしまう。だがそれが、己を苦しめておるのも事実だ」

 夢と現の差が自分の心を締め付けて、他人にまで心配や迷惑をかけてしまう。

 進之助や源吉、何も言わない両親、通りすがりの侍にまで。

 今、大事にすべきは夢ではない。

 自分を想って支えてくれる人々だ。

(そうであった。儂は大事な今を、見落としておった)

 佳世への気持ちにばかり捉われて、目の前の大切な総てが見えなくなっていた。

 宗介の中で、決心が固まった。

「儂は、この夢と決別する決意を、せねばならぬ」

 丸まっていた背を伸ばし、居住いを正す。

 真っ直ぐな瞳で凜を見詰めてから、宗介は頭を下げた。

「儂の夢を、買い取っていただきたい」

 清々しい表情を見て取って、凜が口の端を上げた。

「良い顔だね。わかった。あんたの夢を買いとろう」

 宗介の前に膝立ちになり、額に手を当てる。

「目を瞑んな」

 宗介は、言われた通りに目を瞑った。

 額の前に置いた手を凜がくるくると回す。

 そこから真っ白い煙が、ふわりと浮かび上がった。

 煙の端を、ついと摘まんで引っ張り上げる。

 白い煙が、するりと宗介の額から抜き出た。

「これはまぁ、幸せそうな夢だねぇ」

 凜が、一瞬だけ睫毛を伏した。

「本当に、良いんだね」

 宗介は強い瞳で、こくりと頷いた。

 凜が、掌でふわふわと浮く煙を器用にまとめ上げる。

 小さな一つの塊になった煙を口の中に放り込んだ。

 飴玉のように口の中で何度か転がすと、ごくりと飲み込む。

「ご馳走さん」

 呆然と、その光景を眺める。

(あれが、儂の夢、か? しかも、食った……)

 凜が、懐から小判三枚を手渡した。

 黄金色を受け取り、じっと見詰める。

「これで同じ夢は、もう二度とみない。今宵は、安心して床に就きなぁよ」

 寂しさと、すっきりした心持が同時に去来する。

 複雑な心中をかみしめて、宗介は顔を上げた。

「世話に、なった」

 潤む瞳で微笑んで、宗介は夢買屋を後にした。


 次の日の朝。

 宗介は、普段よりすっきりと目が覚めた。

「……」

 夢は一片もみなかった。 

 只々、深く深く眠っただけだ。

 布団から出て庭に面した障子を開ける。

 暑さを孕んだ夏の風が通り過ぎた。

「もう、夏か」

 いつの間にか季節は巡って、あっという間に冬は終わっていた。

 思いっきり背伸びをしたら、昨日より体が軽く感じた。

 朝日の元に、くっきりと映える木々の緑を眺める。

 自分でも不思議なほどに心が凪いだ。

 久方ぶりに清々しい気持ちで、宗介は部屋の襖を開き、外へ出た。


 夢を売って数日が過ぎた

 佳世の夢は、まだ一度もみていない。

(儂の夢は、買い取られ……いや、本当に食われたのだな)

 正直な所、夢買屋など懐疑が大きかった。

 だが、目の当りにした光景と夢をみない現実が、宗介にそう思わせた。

 段々と、佳代の姿を思い返す時も減っていった。

 そのせいか、いつの間にか佳世への気持ちも、整理がついた。

 宗介は、すっきりとした心持で前向きに仕事に励んだ。

「清水様、これをお願いします」

 部下が書面を持ってくる。

「わかった」

 書面に目を落とす。

 隣の席の進之助が、こっそりと声を掛けてきた。

「おい、宗介。ここの所、随分とすっきりした顔をしておるではないか。さては、何かあったな」

「特に何もない。最近は、よく眠れてな。その為か、体が軽い」

「それは良いな。では今夜あたり、どうだ」

 くい、と杯を傾ける仕草をする進之助に笑い返す。

 するとそこへ、奥右筆組頭の三上平右衛門が突然、姿を見せた。

 仕事部屋の空気が、瞬時に張り詰める。

 三上平右衛門は奥右筆筆頭組頭で、大名旗本も恐れる人格者だ。

 老中・田沼意次もその人柄には一目置いており、藩政の一翼を担っていると言って過言でない人物である。

 皆が居住いを正して礼をする。

「ああ、良い。仕事を続けてくれ」

 にこやかに周囲に気を配りながら、平右衛門は真っ直ぐ宗介の前にやってきた。

「変わりないか、清水殿」

 びくり、と肩を震わせながら、宗介は平伏した。

「はい、万事滞りなく務めております」

「そうか、そうか」と、平右衛門は頷いた。

「時に清水殿。今度、ゆっくりと話がしたいのだが、如何だろうか」

 宗介は目を丸くして、平右衛門を見上げた。

「そう悪い話ではない故、硬くならずに」

 微笑む平右衛門に、宗介は体を硬くして深々と頭を下げた。

 平右衛門が去って行くと、部屋の中は俄かに騒々しくなった。

「宗介、やったな」

 進之助が嬉々として宗介の背中をばん、と叩く。

「いや、何の話か、まだわからぬ」

「話など他にあるまい。お主は奥右筆に出世だ」

 興奮気味な進之助に、宗介は胸の高鳴りを抑えられずにいた。

「いや、まさか」

 とは言うものの、進之助の言う通り、他の話など思い当たらない。

 宗介は逸る胸を抑えて、ごくりと唾を飲み込んだ。


 それから数日後、宗介は浅草山谷の《八百善》に呼ばれた。

 案内された離れの一室には既に三上平右衛門が来ていた。

 一人、料理と酒を楽しんでいる。

「遅くなりまして、申し訳ござりませぬ」

 がちがちに緊張した宗介は、ぎこちなく部屋へ入り深々と頭を下げる。

 平右衛門は「良い良い」と笑った。

「儂が勝手に先に来ておったにすぎぬ。其方は約束の刻限より早く着いておるではないか」

 徳利を傾け酒を勧められる。

 宗介は慌てて杯を持った。

「有り難う御座います」

 平右衛門の酒を受けて、宗介も酒を注ぎ返す。

 震える手を抑えるのに必死だった。

「では」

 と、互いに杯を傾ける。

 緊張から、宗介はその杯を一気に煽った。

「良い飲みっぷりだ」

 平右衛門が豪快に笑う。

「申し訳ござりませぬ。不躾な振舞いを致しました」

 慌てて頭を下げる宗介に、平右衛門は、うんうんと頷いた。

「其方のその、素直で実直な質は気に入っておる」

 平右衛門は一つ咳払いすると、真面目な顔で宗介を見詰めた。

「実はこの度、奥右筆の設樂要殿が隠居されてな。急な申し出であった。ついてはこの空席を、清水殿に埋めてもらいたい。如何であろうか」

 予想していた話だったが、実際に言われると、どきりと心臓が下がる。

 じわじわと早まっていく鼓動をじっくり感じながら宗介は、先程より深く頭を下げる。

 それこそ畳に額が付きそうな程に平伏した。

「奥右筆という大役、若輩ながら謹んでお引き受け致します」

 平右衛門は満足そうな笑みをして頷いた。

「そうか、そうか。引き受けてくれるか。若年寄様には儂から上申致す故、案ずることなく努めてくれ」

「勿体無い御計らい、有難う存じます」

「まぁ、飲め」

 平右衛門が酒を注ぐ。

 宗介は注がれるままに、どんどんと飲んだ。

 飲んだが全く酔える気分ではない。

 良い酒が、まるで水のように胃の腑に流れる。

 そんな宗介を察してか、平右衛門は砕けた笑顔で宗介に寄った。

「ここからは互いに腹を割って話をしようではないか。其方、決まった女子は、もうあるのか」

 咄嗟に何を問われているのかよくわからず、曖昧な表情になる。

 つまりは許嫁はいるのか、ということだとわかったのは少し間を置いてからだ。

 心の奥の方に小さく佳世の顔が浮かぶ。

 だが、それは影のまま、すぐに消えた。

(久しぶりに、思い出したな)

 などと考えながら、俯いた。

「恥ずかしながら、おりませぬ」

 俯き加減に答えると、平右衛門は大層嬉しそうにこう言った。

「そうか。ならば、うちの末娘など、どうだ」

 思わず顔を上げて呆けた。

 平右衛門が、嬉しそうに続ける。

「いや何。娘の美代というのがな、縁談が嫌いで何度勧めても、はいと言わぬ。想い人がおるのかと問い質した所、一目惚れだと言うではないか。儂も驚いた」

「はぁ」

 気の抜けた返事をする宗介に、平右衛門がその呆けた顔を扇子でさした。

「その一目惚れの相手が、其方なのだ」

 宗介は目を剥いた。

 取り立てて褒める所もない顔の自分の、一体どこに一目で惚れたのか。

 突然、降って湧いた話に、言葉に詰まる。

 事体を飲み込めない宗介を他所に、平右衛門は続ける。

「父親の儂が言うのも何だが、美代は気立ての良い娘だ。多少気の強い所もあるが、女はそうでなければいかん。それが家に安泰を招くのだ」

「はぁ、そうでございますか」

「兎に角、一度、会ってみてはくれぬか」

 頼む、と平右衛門が頭を下げる。

 宗介は、やっと事の次第を理解した。

 慌てて頭を下げて、言葉を探す。

「手前こそ、宜しくお願い申し上げまする」

 上擦った声で答える。

 平右衛門が、嬉しそうに顔を上げた。

「そうか、受けてくれるか。儂としても、清水殿なら安心して娘を嫁に出せる」

 平右衛門は上機嫌で酒を煽った。

 宗介は呆気にとられたまま、その光景を只々眺めていた。


 それから話は、とんとん拍子に進んでいった。

 父親である平右衛門の言葉通り、美代は器量も気立てもよく、確かに気の強い一面もあった。

 元々温厚な性格の宗介には、それがよく合っていた。

 何より自分を慕ってくれる美代を、とても可愛らしく思った。

 出逢って早々に、宗介は美代と夫婦になることを、すんなりと決めた。

 美代の輿入れの日取りが決まった頃、宗介は奥右筆へと取り立てられた。

 仕事も順調で、無事に婚礼も終わり、宗介は一家の主となった。

 月日は、あっという間に流れ、美代の腹が大きくなり始めたのは、次の皐月の頃。

 宗介は今年もまた一人、亀戸の藤棚を眺めていた。

 去年の今頃は悲しい色に映った藤の花も、今年は希望に満ちた力強い色味に感じる。

 心なしか去年より美しく見えるのは、自分の心が晴れやかなせいだろうか。

(今度は、美代と共に見に来よう)

 宗介は清々しい笑顔で、藤棚を後にした。


 その後姿を見送るのは、二つの影。

「あのお侍様、今年は笑っていますね」

 優太が、ほっとした笑顔で宗介の背中を見守る。

 凜は藤を見上げながら、煙管を咥えると、ゆっくり煙を吐き出した。

「捨てる気概、ってやつかねぇ。良い運を招くも弾くも手前次第だ。この先、何度迷っても、もう憂慮はないだろうさ」

 二人は、背筋の伸びた後姿に背を向けて、歩き出した。




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