47 敵将を討て
又打川の対岸、安芸武田家の軍の第三陣・粟屋繁宗と第四陣・山県重秋の間を、むしろ突き破るように、主将・武田元繁の陣が突っ込んでくるのが見えた。
「……来る!」
吉川家の雪は、ついに来るべき時が来た、と矢筒の矢の本数を確認した。
本数は充分。
最悪、三本あれば、何とかなる。
そのまま取り出した矢をつがえつつ、雪は、後方から多治比元就が馬を進ませてくるのを見た。
「われこそは多治比元就! 武田元繁、いざ尋常に……いざ尋常に、勝負!」
無理をしている。
雪は一瞥しただけだが、それを悟った。
初陣にして連戦。
勝ちを拾ってここまで来たのは認めよう。褒めてやっても良い。
だが……その状態で、あの「項羽」武田元繁を相手に回して戦えるのか。
ましてや、討ち取るなどと。
「だけど」
やるしかない。
それは雪も同様である。
今ここで武田元繁を斃しておかないと、安芸は終わりだ。果てしない戦乱に巻き込まれよう。
そして……この合戦で生き延びたとして、運が良ければ武田元繁の側室とされ、運が悪ければ……。
元就はそれを知っているのだ。知っているからこそ、ああして無理をしている。
それはもはや、考えすぎでもなく、確かなこととして、雪には思えた。
「ならば」
鬼吉川の妙弓として、吉川の雪として、やるべきことをやろう。
成し得た時こそ、その時は。
*
武田元繁の軍と、粟屋繁宗と山県重秋の軍は、元繁の強引な進軍により混ざり合った。
やがてその中から、一軍が突き出てくる。
「われこそは武田元繁! 今こそ、熊谷元直の仇、取ってくれる!」
怒りに震えているのか、かすれ声で、その武田菱の旗印の武将は叫んだ。
兜をぐっと
「かかれ!」
武田菱の旗の大群が動く。粟屋、山県の軍も、ここぞとばかりに
武田軍の陣頭に立つ武将が、川岸に向かって突進する。
馬ごと跳躍して、そのまま渡河する勢いだ。
つづく将兵らも同様で、馬腹を蹴って、速度を上げた。
「……今だ! 目標、渡河中の敵の大将! 射よ!」
吉川雪が、そう叫ぶと同時に、自身がまず矢を放つ。
吉川家三〇〇騎もまた、宮庄経友と共に、矢を放った。
「吉川につづけ! 矢の雨を降らせろ! 射よ!」
相合元綱もまた、雪に
元綱の言の如く、又打川に、毛利・吉川連合軍の矢の
言うなれば、十字砲火のように。
渡河中の、いわば跳躍し、宙に浮いている武田軍は、物の見事にその十字砲火を食らった。
「……がっ」
先頭で息巻いていた武将に、矢が刺さった。
「……うっ、うおっ」
矢は、つづけざまに二本、三本と突き刺さる。
たまらず、落馬。
川に、水中に激しく音を立てて、落下。
武田軍の将兵らも、同様に、水柱を立てて、次々と又打川に水没していった。
「……やったか!」
多治比元就は、井上光政が止めるのも聞かず、馬を川岸まで進める。
元就の渾身の策が今、成し得たかのように見えた。
武田元繁を
その飛翔の
そのために、元就は敢えて緒戦において最前線に立って戦い、敵を挑発した。挑発に乗るかたちになった熊谷元直は討ち取られ、さらに敵の大将である武田元繁に対しては、その二つ名にして誇りである「項羽」の名を利用して、「高祖」の相があると怒りを誘った。
敢えて熊谷元直を討った功を宮庄経友のものとしたのも、このことによる。雪の功にしてしまうと、武田元繁が矢による攻撃を警戒してしまう。元就はそれを嫌ったのだ。
……案の定、武田元繁は熊谷元直の復仇を誓い、かつ、自身の手で元就を討つべく、陣頭に立って突撃し、渡河を敢行して、跳躍した――そう見えた。
「……川に浮かんだのは、何も動かない。皆、死したか」
又打川の流れが、浮かんだ
物言わぬ死体は、やはり何も言わず、川の流れに身を任せ、静々と流れていく。
「……やった」
元就は
だから、対岸から新たな敵が迫り来るのを、つい、見逃がしてしまった。
*
雪もまた、己の矢が、ついに武田元繁を討ち取ったのだという安堵に浸っていた。
しかし、彼女は射撃のために、又打川の対岸が良く見える位置に陣取っていた。
ゆえに、その敵に気づくのが、元就より一瞬、早かった。
「……元就さま!」
誰もが静止していた。
井上光政も。
相合元綱も。
志道広良も。
宮庄経友も。
長井新九郎ですらも。
その中で、唯一、雪だけが気づいた。
雪だけが叫んだ。
「敵! 敵将、武田元繁、来る!」
又打川の対岸から、討たれたはずの武田元繁が、
「かかれ! われこそは、項羽の再来、武田元繁なり!」
武田元繁につづいて、武田家の将兵が、続々と馬腹を蹴って、跳んだ。
相次ぐ武田軍の襲来。
武田元繁が、元就の前に着地し、刀を抜いた。
銀色の刃が走る。
「死ね! 多治比元就!」
元就も抜刀と同時に斬撃する。雪の一瞬速い叫びにより、彼は事態を理解しつつあった。
「……ッ! 影か!」
元就の言葉を肯定するかのように、武田元繁は笑った。
笑いつつも、二度、三度と、その剛力をもって、元就に刀を叩きつけていく。
「そうよ! こんなことだろうと思って、わが影――山県重秋に先に突っ込ませたのよッ! 案の定……
山県重秋は武田元繁と顔と姿が似ているため、影武者として元繁から重宝されていた。
「影の山県重秋を討たせて……おのれはッ!」
「フン、貴様こそ高祖だの何だの……そも、熊谷元直を討った時からか? 予を挑発しおってからに……下策には、下策で充分! 小策士めが! 策士策に溺れるとはこのこと! 今、その首を討って、元直の霊前に!」
本物の武田元繁の後を追って、次々と川を越える武田軍の将兵たち。
そしてそのまま元就を囲む。
井上光政が元就のそばに駆け付けようとするが、その隙間が無い。
焦る光政だが、元就の目配せに気づく。
元繁は元就主従のやり取りを意に介さず、嘲笑し、元就へ向かって刀を振り上げる。
「今度こそ……死ねい! 多治比元就!」
跳びすさろうとも、周囲は武田軍の将兵で埋められている。
……多治比元就は文字通り、進退窮まった。
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