直感で将棋を指していると思ったらめちゃくちゃ読みが深かった友人の話

クロロニー

棋士観

 私はどうやらとんでもない化け物と相対しているらしい――。そのことに気付いたのは二度目の対局の後だった。


 兼原は高校時代の頃からの友人であるが、当時はそれほど親しくしていたというわけでもなかった。既に日本将棋連盟の奨励会に所属していた私は、毎月の対局に加えて学業にも力を入れる必要があったため、多忙を極めていた。また将棋界隈での人付き合いがメインだった。なので高校時代は優秀な彼に勉強を教えてもらっていたものの、それ以上の深い付き合いは特になかった。そんな彼と深い付き合いをするようになったのは20代も後半に差し掛かった頃だった。同期の誰かが10年ぶりに同窓会をしようと言い出し、その集まりに私は顔を出した。私は二年前にプロ棋士になったものの負けが込んでおり対局予定がしばらくなかったため気晴らしのつもりの参加だった。そこで彼と再会したのだ。彼は持ち前の頭脳で東大へと進学していたのだが、そこで人工知能の分野における博士号を取得し、引く手あまたの中で大手金融企業のシステムエンジニアへと就職したそうだ。何種類かのプログラミング言語と取っ組み合い、時にはハード面からもアプローチをかける、難解ながらも充実した日々を過ごしていると語っていた。彼の話を聞くのは非常に楽しかった。向こうも同じ気持ちだったのかもしれない。仮にも頭脳を酷使する職業に就いている私たちにとって、見知らぬ分野の煩雑な問題に対する知見を広げるのは、非常にエキサイティングな息抜きだったのだ。

 それから私たちは数か月に一度の頻度でお互いの眼前にある問題を持ち寄り、門外漢なりにその本質を議論し合った。その成果が将棋にも表れたのか、私の棋士としての成績もどん底から少し上向き始めたのだ。

 そして私が30歳になった誕生日の次の日、彼は交通事故で失明した。


 病室で見かけた彼は、私が思っていたよりは元気そうだった。

「不便だけど、頭の中にマシンが一台あるわけだから、プログラミングという観点では本質的には支障がないよ」

 しかし彼の能力を活かす道の多くは閉ざされてしまっていた。某金融企業は彼の椅子を別の人間に明け渡してしまっていたし、閑職くらいは用意しているであろうがそれは彼の能力を尊重したものではない。転職活動をしようにも、彼を受け入れてくれる大企業は殆どない。フリーのプログラマーとして活躍する道もあるにはあるだろうが、そもそも彼が誰かの助けを借りてでも自由にプログラミングが出来るようになるまでは相当時間がかかるだろう。

「なあ、将棋を打ってみないか?」

 私は好奇心でそんな提案をしてみた。

「将棋……いいね、いつかやってみたいと思っていたんだ」

「じゃあ、盤を用意するよ」

「いや、別に盤はなくても大丈夫だよ。指先で文字を読んだりするのはまだ全然慣れていないし、盤の読み方と駒の配置、それから駒の動き方を教えてくれれば頭の中だけでいけるよ。それとも君は盤があった方が都合がよかったかな?」

 挑発もいいところだ。私だってプロの端くれ、人生賭けて何千時間も盤と向き合い、そして脳裏にその盤を染み込ませてきたのだ。目隠し将棋くらい、わけもない。

「わかった。じゃあ脳内の盤だけでやろう。間違ってそうなところがあったら私が確認してやるから、堂々と打ってくれ」

 私は駒の動きを一通り説明したあと、八枚落ちの盤面を彼に伝えた。

「いや、ちょっと待ってくれよ。それだと君の方があまりにも不利な盤面じゃないか? それとも将棋と言うのはこういうゲームなのか?」

「これは駒落ちと言って将棋でのハンデの付け方なんだ。私はプロで君はまだ駒を覚えたばかりの初心者、本当なら10枚落ちどころか19枚落ちくらいが妥当だろうけど、君の素養を高く見積もって8枚落ちというところだな。もし要望があるなら19枚落ちから始めてもいいよ」

「要望はあるさ。だが僕の要望は駒落ちなしでやることだ。最初だから景気づけに対等で行こうじゃないか」

「平手で指すとゲームにならないよ、流石に」

「そんなのはやってみなければわからない。最初はその平手?というやつでやろう。僕は駒の動きも覚えなくちゃならないわけだから、使われる駒は多ければ多いほどいいわけだし」

 私は渋々その要望を飲みつつ、対局を始めた。彼の出だしは初手から全く定跡に基づいたものではなかった。当然だ。彼の前には真っ新な将棋盤があるだけで、先人たちが築き上げた定跡なんて知る由もないのだから。しかし平手で打つからには決して手を抜くつもりはない。他ならぬ真剣勝負を望んでいるのは彼の方なのだから。なので彼の端歩を突く立ち上がりに対して、私は一切付き合うことなく飛車先の歩を突いていく。これで先手後手が入れ替わり、私の方に優位が傾く。

「ああ、なるほど、そう指すのは確かによさそう。なるほど、そういうゲームなんだね」

 そんなことを呟いて彼もまた飛車先の歩を突き始めた。ゲームは10秒将棋のように全く詰まることなく進行していき、序盤戦で大幅にリードしていた私は中盤に予想外の一手でイーブンに戻され、そして一手差の終盤戦へと突入した。1分将棋ならきっと読み間違えなかったであろう。私は自分が一手リードしている側だと考えていて、守るべきか攻めるべきかの2択で直感的に攻めることを選択してしまった。兼原はその隙を見逃さなかった。私の玉には21手の詰み筋があり、彼は直感的としか思えない手つきで一手一手を10秒以内に指していった。一手ごとに私の顔からどんどん血の気が引いて行った。そして遂に玉が詰まされたのだった。その時彼は自分が勝っているということに初めて気が付いたかのようにこう言った。

「おー、なるほど、勝つときはこういう風になるんだ」

 私は初心者に負けたという恥ずかしさで顔から火が出そうな程だった。彼の目が見えていれば真っ赤に茹で上がった顔が映っていたであろう。まぐれでも負けることは許されない程の実力差であるはずだった。自分のあまりの弱さに愕然とし、もう金輪際将棋プロを名乗る資格などないのではないかという思いにすら囚われていた。

 しかし恥ずかしさに打ち悶えているだけじゃこの人生どうしようもない。誰にだって失敗はある。この記憶は絶対に上書きされなければならない。

「すみません、もう一度打ってください。今度は一分将棋でお願いします」

「おっ、プロをやる気にさせてしまったみたいだな。やろうやろう。僕も楽しくなってきた」

 そしてお互い指し始めた。今度はゲームにすらならなかった。一分もあるなら当然だ。私は一度も王手をかけることが出来ずに負けたのだ。そして認めざるを得なくなった。とんでもない化け物が目の前にいるのだと――。


 私が思うに、彼自身がマシンだったのだ。比喩でもなんでもなく。彼はプログラミングを体得する過程で自分の中にハードウェアの各モジュールに相当する仮想の部品を収納していたのだ。だからこそ彼自身がマシンになり、膨大な量の計算が行えるのだ。そして膨大な計算の中から有意なものを人工知能のように自動的に選別し、そしてそれを一手一手に落とし込んでいたのだ。彼が直感で指していたように見えていたのは全て深い計算に基づいた直観による一手だったのだ。彼自身がその一手の正確な意味を言語野で把握していなかったとしても。

 彼は現代において最強の棋士であることは疑いようもなかった。しかし彼の将棋プロへの道は年齢の問題で既に閉ざされている。一人の偉大な棋士が生まれることなくこのまま消えてしまうことを、私は非常に口惜しく思った。だからこそ私は後に何度も将棋の教えを請い、そしてその指し方を代わりに体現しようとした。しかし彼の考え方を会得することはついぞないまま、彼はこの世を去った。

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