第5話 王の死


 6月28日未明。


 食糧が、ほぼ尽きた。

 あと二日分もないのである。

 加えて、ナルバエス軍からの参入組の士気低下が著しかった。


「王よ」


 コルテスは、捕虜として幽閉しているアステカの王モクテスマ二世の部屋にやってきた。


「もはや、私は王ではない」


 モクテスマ二世も、ひどいやつれようだった。五十二歳になるというが、初めて出会った時は四十にしか見えなかった。

 今は、激しい心労からか六十を過ぎているかのようにも見える。


 金糸で刺繍された貫頭着に、腰巻き。緑のマントと指輪、足輪で正装していていつものように礼儀正しかった。


「総攻撃にでているということは、新しい王を選んだのであろう。おそらくは、弟のクイトラワクだ」


 力なくうなだれて言った。

 悲しい姿だった。

 コルテスと出会った時、王は魔術師であり政治家であり、類い稀なる指導者であった。

 今、すべてを失った王になんの力もないことをコルテスも理解していた。ギリギリまで追い詰められた中、藁にもすがる思いだったのである。


 それでもアステカ軍の説得を、モクテスマ二世は承諾した。


「だが、私が何を言ったところで、もはや無駄だ」


 そう言い残して、モクテスマ二世は守備兵と外に出て行った。


 王宮の二階、広場を見下ろせるバルコニーに出ると、石と槍、矢が天を暗くするほど飛んできた。大きな盾を持った守備兵が五人でモクテスマ二世を守らなければならなかった。


 だが、モクテスマ二世の姿を見つけると攻撃はピタリと止んだ。


「アステカの民よ。勇敢なる太陽の民よ」


 朗々とよく通る声で、モクテスマ二世は語りかけた。


「今一度攻撃を止めるのだ。その代わり、白き人の即時退去を約束する!」


 アステカ軍から、一人の将軍が出てきた。色鮮やかな鳥の羽飾りを頭に付け、緑の腕輪をはめた屈強な戦士で、"豹の戦士オセロメー"シグァコアツィンと名乗った。


 広場は水を打ったように静まり返り、物音一つしなくなった。


「王よ。偉大なる前の王よ。我々は三人委員会を開催し、新たなる王をすでに選んでしまいました。我々は、軍神である主神"南の蘇生する戦士ウィチロポチトリ"に毎日あなたの安全を祈願しています。ですが、もう我々は攻撃を緩めることはできません。神々は、悪逆非道なるスペイン人を絶滅させよと命じているのです。もし、神々の御心どおりに戦いが終われば、その時は再びあなたを王として迎え、前にも増して忠誠を捧げます」


 言い終わると、再び石や矢や槍が雨あられとなって飛んできた。

 その内の大きな石がモクテスマ二世の頭に当たって、彼は倒れた。

 昏睡したモクテスマ二世は、時おり意識を戻したが翌29日、失意の中でこの世を去った。


 従軍僧のザアグン神父が、意識を取り戻した時に改宗を進めたが、拒否し続け異教徒として死んだ。


「偉大なる王よ。あなたの三人の娘の面倒は、このコルテスが責任を持って見させていただきます」


 捕虜であっても、誠実で公平で思慮深いモクテスマ二世の王としての生き様は、コルテスは元より、コルテス軍全員の心を打っていた。

 偉大なる王の死に、将兵のすべてが涙したのである。


「遺体は、どうしますか?」


 アルバラードとは別の、サンドバルと言う副官が言った。


「異教徒として死んだのであれば、異教徒の元に返すのが道理だ。捕虜を二人釈放し、王の遺体を背負わせてアステカ人のところに運ばせよ」


 その後、彼らが遺体をどう処理したかは知らない、とコルテスは書き残している。


「釈放する二人のうち、一人はトチトリィにせよ」


 トチトリィはアステカの若い医女で、モクテスマ二世の世話をさせるために虜囚りょしゅうとしたが、想像以上に医術の腕がよく、しかも、患者であればアステカ人スペイン人の区別なく熱心に治療する娘だった。


「よいのですか?」


 トチトリィは、コルテスの従軍医より薬草に詳しく、外傷だけでなく様々な病気も診てくれた。


「世話になった。恩に報いることは、ほとんど出来ないが、偉大なるモクテスマ王を託すのであれば、彼女しかおらぬ。我らと共に死地に連れて行くこともあるまい」


 ほどなくして、一人のアステカ人とトチトリィが通訳とともにやって来た。


「お前たちの王が崩御なされた」


 ゆっくりと、トチトリィの目を見ながら言った。切れ長の黒目が印象的な娘で、童顔のせいかスペイン人の娘に比べると少女のようにさえ見える。


 過酷な環境ゆえに、疲れ切った顔をしているが、瞳に宿る意志の光にはいささかのかげりもなく、むしろ凛々しくさえ思えた。


亡骸なきがらを、お前たちの民に返したい」


 トチトリィは何も言わず、ただじっと静かに見つめてくるだけだった。悲しみをたたえた瞳の色は深く、黒曜石と同じ色をしていた。


 

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