戦役魔女の白い結婚

居孫 鳥

第1話

「この婚約、破棄させてもらうッ!」


 リリンカ・ゼアドゥは高らかに宣言した。

 暗い赤地に金モールの映える、魔女の軍服に包まれた細い腰に手を当て、華奢な編み上げブーツの足はしっかと大理石の床を踏み締めて。


 長椅子から立ち上がった彼女の左右では、両親であるルブリック伯爵ヘーレン・ゼアドゥと妻のナラルが「あちゃー」といった様子でそれぞれ頭を抱えている。

 リリンカはもちろん、それに気づいていた。しかし言い切ってやったスッキリ感と一緒に押し寄せてきたのは「あちゃー」はこちらの台詞である、という気持ちだ。

 何しろ、彼女の目の前に相対しているのは、自身の婚約者であるバルオン・ソローと彼の浮気相手(しかも懐妊している!)なのだから。


 なぜ、こんなことになったのだったか。リリンカは内心首を傾げる。

 明確な心当たりは、ない。

 もしも何か理由があるとすれば、彼女は戦争から帰還したところで、婚約者バルオンと会うのも出征以来という点くらいだ……


 リリンカ・ゼアドゥは、このエルサランド最高峰の戦役魔女で、昨年には戦績により騎士の称号を賜った英雄で、王立魔法連隊で最も著名な軍人である。

 彼女が十五の歳の秋に始まった、海の向こうの帝国との戦争は、5年目の今年はじめて停戦の合意がもたれた。

 王太子の命により戦役魔女は全員前線から退き、後方の基地に転属、さらには交代で故郷へも帰れることになった。


 そうして王都に帰還したリリンカは、両親とともに招かれた婚約者の屋敷で、衝撃の事実を目の当たりにする。

 バルオンはこの5年、戦争に行ったリリンカが生きて戻ることを諦めたのか、あるいは婚約のことを忘れたのか、幼馴染で親戚筋のエディア・アッシェラ嬢と懇意になり――なりすぎた結果、エディアは懐妊した。


 バルオンとエディア、長椅子に並んで座る二人のさらに横には、バルオンの父親レードレン伯爵。凍った空気を最初に打ちこわし、口を開いたのは彼だ。

「何も破棄なさらずともよいでしょう、レディ・リリンカ。順番は少し前後しますが、やっと戦地から戻れたのですから、今こそバルオンとの結婚をすすめるべきです。エディアは妾として、領地に小さな家でも持たせればよい。お怒りはわからぬでもないが、あなたもルブリック伯爵家の息女ならば、後継の予備がいるのが悪いことでないのは理解できるでしょう」

 ごくおっとりした調子で、レードレン伯は言った。自分の考えに、一切の疑問なく、悪気もない態度だ。

 リリンカはつい、軍人らしくきっちりと編み込まれた金の髪の隙間から後頭部を掻きむしりそうになり、思いとどまって手を下ろした。

 危ない、危ない。ここは硝煙と魔法の匂いたちこめる前線ではなく、退廃と優雅の好まれる王都なのだ。

「レードレン伯のおっしゃる通りだ、リリンカよ。なにしろおまえは、いつまた戦地に戻るか分からぬ身。その間の妻の代わりをつとめるのがアッシェラ嬢、ただそれだけのことではないか」

 妻の代わり?

 父親の取りなす口調の言葉に、またまた内心、首を傾げる。

 エディア・アッシェラ嬢は、ブルネットの巻毛を流行の形に結った、愛らしい女性だった。話に聞いたことはあったが、リリンカは初めて会う。

 これまた王都で最新流行の古代グリセル風、帝制様式エンパイアスタイルの薄物のドレスを、丸く大きく膨らんだ腹が押し上げていた。なるほどこの実用性皆無のひらふわした衣装、妊婦には優しいのかもしれぬ。

 ……いややはり、身重の体には寒すぎるのではないか?こんな寒々しい金襴緞子の長椅子になど座らせないで、毛織のガウンを着せて暖かい羽布団でくるんでおくべきでは。

 いやいや、そうではなく、今は彼女の境遇のことだ。脇道にそれてゆく思考を、リリンカは戒めた。

 エディアは、ソロー家と親戚筋の郷紳ジェントリの娘だ。確か、バルオンとは母親同士が従姉妹いとこにあたるとかなんとか。

 彼女が行儀見習いのためにソロー家に預けられた、という話は、何年か前にバルオンからの手紙に書いてあったように思う。しかしそれで孕まされたのでは、行儀もなにもあったものではないが……。

「この可愛らしい若い女性を、いきなり妾にせよと仰られるのか、お二人とも?確かに私はバルオンを何年も放置しましたが、そのを払うのが、罪のないアッシェラ嬢だと?」

「そ、そんな風に言わないでくれ、リリンカ……エディアはずっと僕を支えてくれていたんだ」

 ここではじめて、当事者の一人たるバルオンがリリンカを見上げて言った。なにしろこの男ときたら、リリンカはじめゼアドゥ家の面々が入ってきてからこちら、視線をあげることすらできなかったのだ。

「きみには、本当に申し訳なかったと思ってる。でも僕ら、納得しているんだ。あくまでも正妻はリリンカだ。エディアには、きみが家にいる時には会わないと約束を」

「バァァルオン!そうではない。そういうことではないのだ」

 リリンカは遮られて情けない顔をしている男にむけて、やや表情をやわらげた。

「この5年、私は良い婚約者とは言えなかった。最初の頃にはまめに送ってくれていた手紙、私からは毎回返事ができたわけでもなかった……あなたに寂しい思いをさせたこと、それは謝罪させてもらいたい」

 実際、お役目大事で郷里との連絡も満足にとっていなかった、それは紛れもない事実であった。

「あなたが私を見限るのも無理はないこと。心変わりを甘んじて受け入れる用意が、こちらにはある。だから問題はそこではないのだ」

「では、何が……?」

 バルオンの、青白く細長いおもてには緊張が見える。

「アッシェラ嬢のことだ。彼女の気持ちはどうなる。納得しているなどと言ったが、バルオン、おおかた誰も、この方の気持ちを直接尋ねたりはしていないのだろう?」

 図星のようで、相手は口籠った。

「だから今この場で尋ねよう。アッシェラ嬢、あなたは妾という立場で納得ゆくのですか。私は婚約は破棄するつもりでいる。あなたがたは今すぐ結婚して、お腹の子どもの立場をきちんとするべきではありませんか」

 エディア・アッシェラは鞭でも打たれたかのように背を伸ばし、俯いていた顔を上げた。

「このリリンカはあなたのお味方をします。あなた自身の名誉も、子どもの将来も、守る義務がバルオンにはある」

 リリンカは見る。

 まだ瞳にいとけなさを残した、丸い小さな顔。今は青ざめている、本来ばら色をしているはずの頬がひきつり、唇が歪む。みるみるうちに、ほろりと涙がこぼれ、エディアは静かに泣き始めた。

「わ、わたくしは……」

「本心をおっしゃい、アッシェラ嬢。私の留守の間、辛い思いをさせましたね」

 視線を下ろせば、ゼアドゥ家の面々が入室して以来ずっと、エディアとバルオンが椅子の上で固くつないでいた手が目に入る。それが今、さらにぎゅうと、強く握られた。

「わたくしは、妾など、嫌ですっ!バルオンさまと、この子とで、ちゃんとした家庭を築きたい……!」

 おとなしく、家長の言うがまま使であろうとする模範的な子女。身分低く家はさして裕福でなく、良い結婚ができる見込みのない女性……そう思われていたエディア・アッシェラの血を吐くような本音。

 この日、穏やかでいて冷たい貴族の人々に、岩を穿つ水のように、ごく小さいけれど無ではない一雫が響いたのだった。


「これはとんでもないことでございますぞ、お嬢さま!」

 背後から投げかけられる声にも、リリンカの歩調は緩まない。

 遅ればせながらエディアの言葉に耳を傾け始めたソロー家の人々と、呆然としている自分の両親を置いて、リリンカは「これにて失礼!」とばかり退出した。

 追ってきたのは部屋の扉の横に控えていた彼女の従僕、私邸の執事、戦場での従卒、その全てを兼ねた――リリンカはただじいと呼ぶ、アコーレだけであった。

「どうもこうもあるまい。既に懐妊しておる以上、娶ってやらねばアッシェラ嬢の名誉は地に落ちるのだぞ。……そうだ、何か赤子によい品など贈ろう。女親のない家では支度も行き届いてはおるまい」

「な、な、な、何を悠長な仰りようか!恋敵にそのような」

 アコーレは言葉にならない心中をどうにか伝えようとしてか、魔女付き従卒の紺色の軍服に包まれた腕をぶんぶん振る。もっとも前をゆく主人あるじには見えていないのだが。

「……おお、恋敵とな!確かにおまえの言うとおりだ。おかげで大切なことがわかった」

「な、なれば、すぐに婚約破棄を破棄する手筈を」

「違う違う!爺よ、逆だ。彼女をつつがなくバルオンにめあわせるのだ。そして無事の出産まで万全の手筈を整えてやれ。おまえの孫にしてやるようにだ!」

「エェッ?!何故でございます!」

「このリリンカは、あの二人からみれば親の決めた婚約者、まさに恋敵だったのだ。真に恋うるもの同士が結ばれようとするならば、野暮な恋敵はここ一番の山場で身を引かねばならぬだろう!」

 リリンカは快活に笑い、足音高くソロー家の屋敷を後にした。

 こうしてリリンカ・ゼアドゥは婚約を破棄し、結婚市場に戻った……少なくとも、名目の上では。



 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る