金の輝きは永遠に

岡上柿生

第1話

 冬の寒い夜、街路を歩く人は誰もが肩をすくめ、足を速めて家路を急ぐ。交わされる言葉もなく、聞こえるのは石畳に刻まれる足音だけである。

 いや、耳を澄ませばかすかに、しかし鋭く空気を裂く翼の音が聞こえたかもしれない。だが、その音に注意を払う人はいない。ましてや上を見上げ、音の正体を探ろうとする人などいない。ただ黙々と帰宅を急ぐだけである。

 たとえ見上げた人がいたとしても輝く月の眩しさに目を細めただけだろう。その月を背景に飛ぶ白い翼など見えなかったはずである。しかし、その翼を羽ばたかせている、まだうら若き少女と言うべき女性にとっては、その方が好都合であった。

 延々と続く屋根がほんのわずか切れた部分がある。速度を落とした少女はその上で大きく円を描き、翼を畳んで高度を下げた。降りる先には周囲よりやや低い屋根を持つ建物があった。

 月の光を冷たく映す屋根に降り立った少女は長い服の裾を手で整え、振り返って翼の様子を確かめる。精悍な表情の少女は、短く整えた黒髪と相まってまるで少年のようでもあったが、乱れた翼を直す指先の動きは間違いなく女性のものであった。翼を整え終えた少女は足音も立てずに屋根を伝い歩き、小さな天窓を開けた。

 「おかえり、ティア」

 体を屈めて天窓を潜る少女にかけられる低い男性の声。開けられた天窓から入り込んだ光が床に反射し、屋根裏部屋の中で机を前にして座るまだ若き声の主の顔を照らし出した。

 同時に光は狭い室内に雑多に置かれた品々も照らし出した。部屋の中には素焼きの壷や広口の壜、紫煙を漂わせる深い鍋があちこちに置かれており、それらは男性の職業が錬金術師であることを示していた。鼻をつく、錬金術師の工房特有の香りが部屋の中に満ちていたが、ティアは表情ひとつ変えなかった。

 「ただいま戻りました」

 ティアは顔を上げ、男性の前に膝をついた。

 「今回は少し時間がかかったようだね」

 男性は椅子に座ったままティアに向き直り、声をかける。あいかわらずそっけないようにも聞こえる低い声だが、そこにとがめるような響きはない。むしろ相手を気遣うような感情がどこかにうかがえた。

 男性の表情もそうだった。男性の言葉に頭を垂れるティアに対し、細い目の奥から向けられる視線はあくまでも穏やかなものである。肩まで伸ばした長い髪もその印象を助けていた。

 「ええ、今日は建物の周囲に人が多かったため、少々時間を要しました」

 「やはり警戒が厳しくなってきたな。ところで、あの薬瓶は言った場所に置いてきてくれたかい」

 ティアはうなずいた。

 「はい、ネレウスのご指示のあった屋根の上に置いてきました」

 「そうか、ありがとう。警戒の厳しい中飛んで疲れただろうから、今晩はゆっくり休んだ方がいいな」

 「ありがとうございます」

 そう言ったティアは、改めて頭を下げて立ち上がった。そのまま下がろうとするティアだったが、ネレウスが不意に思い出したように呼び止めた。

 「そうだ、羽の方はもう大丈夫かな?」

 「はい、傷は治りましたが……」

 ティアは背中の翼をネレウスに見せるように大きく広げた。

 「だが、傷は治っても……」

 立ち上がったネレウスがティアの羽に触れる。左の小翼羽があるべき場所には不自然な空間があった。

 「この羽は生えてこないのか」

 「ええ……」

 ティアが顔を曇らせる。

 「すまない、いやなことを思い出させてしまって」

 「いえ、構いません。気にしないでください」

 ティアは気丈な様子で首を横に振った。

 「この羽がなくても飛ぶことはできますので」

 明らかに作った笑顔でティアは頭を下げる。

 「ところで、次はどこの街に行くのでしょうか」

 「次の街?」

 ネレウスは一瞬だけ考え込んだが、ティアは黙ってネレウスの顔を見つめている。

 「ゼラスへ行き」

 「はい」

 「そして、モライドへ行こうと思う」

 「かしこまりました。明日は、また早いと思いますので、私はこれで休ませていただきます」

 そう言ってティアは一礼し、部屋を出た。

 「おやすみ」

 ティアの背中にやさしい声をかけたネレウスだったが、閉められた扉に向けられたネレウスの視線は鋭かった。そこには先ほどまでの温かいものは何もなかった。

 椅子に再び腰かけたネレウスは、再び訪れた深い闇に同化してしまったようにしばらく動かなかった。ややあって、ネレウスの薄い唇から独り言が漏れた。

 「これでこのテフェカスの街は明日の朝から大混乱だな」

 微動だにしないネレウスの口だけが小さく動く。

 「そして、次に混乱に陥るのはゼラス、そしてモライドの街か。すべては順調だ」

 顔には小さな笑いが浮かんでいる。独り言は闇の中へ静かに消えていった。

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