第5話  泡沫夢幻

 泡沫夢幻ほうまつむげん……人生の儚いたとえ。



「申し訳ありませんっ、それで相手の方は……」


 入院して直ぐ母の認知の進行は一層苛烈さと速度が増していく。

 脳の炎症もだが環境が急に変わっての要因も大きかったのだろう。

 部屋は詰所に近い目の届く場所だったのだが直ぐに個室へと変わっていた。

 その理由は……。


 隣のベッドで眠っておられた患者さんの頬を叩いたらしい。


 状況を聞けば偶然にもお隣の患者さんの名前は妹とだったのである。

 偶々私達子供の名を叫ぶ母の呼び掛けに『』と答えられたらしい。

 そこで著しい認知の低下した母が『呼んでいるのに返事をしない』と言う理由で相手の頬を叩いたとの事だった。


 それを聞いた時の私はムンクの叫びの状態となったのは言うまでもない。

 今まで家族には手を挙げてはいたけれども他人様にまでそうするとは考え履いたらなかった。

 おまけにスタッフにも暴力行為があったらしい。

 

 母よ、私は非常に頭が痛い。


 だがいい訳ではないけれども暴言暴力行為や他の認知の症状は入院時にもちゃんとスタッフへ伝えてあったがしかし、ここは急性期を主とした救急病院。

 また以前バイトをしていたからこそ分かる半端ないスタッフの仕事量の多さ。

 日中でも人員はぎりぎりなのに夜勤はそれ以上。

 なのに母の様な問題を起こす患者をも見守らなければいけない。

 普通に車椅子での見守りならばまだ詰所で……と言う方法もある。


 しかしこの時の母はまだしっかりと伝い歩きをして徘徊真っ盛り。

 一番手が掛かり尚且つ目は少しも離せない。

 そして入院継続が無理だと即言い渡されてしまった。


 しかしこちらとしても脳に炎症を起こしている状態で退院させられてもだ。

 万が一何かあれば対応は限られてしまうしまた家から病院までは遠い。

 ポータブルトイレの設置やベッドも介護用に変えなければいけないだろう。

 お互いの事情が切迫する中、私達はそれらの準備を直ぐに行えば母は12月31日に一時退院となった。


 一ヶ月後には治療を行う為の病名を確実に診断をする目的で脳生検の手術を行う事で再入院となる。



 私はこの年の暮れ初めてお節料理なるものを作った。

 勿論メニューはほぼほぼ母の好む料理を色々と試行錯誤して作る。

 またお正月に家族揃って食べたいケーキ等も……。


 まだ何もはっきりとはしていない。

 でも何となく悟ってしまった。

 家族四人……えーっと弥生を入れて五人一緒に過ごす日々が限られている事に……。


 だから少しでも楽しい思い出になる様に料理くらいしか出来ない私だけれども、それでも何かをしなければと思ったのである。

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