希望 ~差し伸べられたのは貴方の魂の光でした

姫ゐな 雪乃 (Hinakiもしくは雪乃

序章   心無い言葉に闇へと堕ちる心  

「なあ桃園さんさぁ、もうさっさと入院患者さん担当Aチームへ行っちゃってよ。そしたら藤沢さんがこっちに帰って来れるしぃ」 


 そうして何か、そう犬か猫……いやそれ以下だと思った。

 まるで汚いモノでも追い払うかの様に手でしっしっと、私へ向けあっちへ行けと言わんばかりに何度も手振りをしながら派遣Nsの桜井は厭らしく、そう人を完全に小馬鹿にした様相でわらいながら言い放ったのである。



 最初にそう放たれたのは平成25年12月31日。

 ぶっちゃけこれはほんの二日前の事である。

 一度目は初めて放たれた暴言に『何言ってんの』と冗談なんて言わないでと躱す事も出来た。


 これまで四十三年間生きてきて他人よりこの様な言われ方等された事は一度としてなかった。

 また同時に私自身他人へその様な文言……他者を人以下の様な存在に貶めた事はない。


 それ故さらりと躱したとは言えである。

 内心思いっきり動揺していたのは言うまでもない。

 だが一社会人、まして直ぐ傍には患者さん達が辛い透析を受けているのである。

 ここで感情を露わにし怒った所で喧嘩両成敗、いやいやそれこそ社会人として駄目なのだと思い直せば笑って注意をする感じで躱したのがはたして良かったのかはたまた悪かったのかはわからない。



  そうして今日平成26年1月2日、時間にして17時の退勤まで30分を切っていたと思う。

 2クール目の透析を終え情報収集やバイタル測定も終わり、またお正月とあって少しだけ仕事量は通常とは違い少なかったからなのかもしれない。


 また時間があったからこそ何気に今日の日勤者四人が集まり、それぞれの勤務を見ていた時に放たれた一言だった。


 一度目ならば我慢も……出来た。 

 透析の経験がまだ浅いからとは言え私なりに日々頑張っても来たのだ。

 間違っている事を注意されるのは一向に構わない。


 でも存在そのものを否定される事は、然も二度も同じ言葉と、同じ所作で以ってって言われるのは――――。


 

 勤務表を囲む様に私と加害者の桜井、そして准看護師なのに何故か正看護師を見下し自分こそはこの透析センターのドンなのだと存在を誇示する藤沢に二ヶ月前入ったばかりのパートの森川の四人。


 森川の前職は市立の病院で看護師として働き、透析経験はここが初めてだと言う。

 また彼女は大人しい性格故に何も言えなかったのも十分わかっていた。


 でも藤沢は違う。

 藤沢は透析看護18年のベテラン。

 師長のいないこのセンターでドンとして君臨しているこの人が、注意をする事も無く否定も肯定もしない。

 その事が余計に私の中でずんと重石が乗った様に何かがゆっくりと、いや今まで張り詰めていたものがぐらぐらと今にも崩れそうになってしまう。



 一度目、12月31日の時も藤沢はその場にいて同じ態度だった。

 二度目の今日も変わらず。

 そして追い打ちをかける様に桜井は調子に乗って訳の分からない、たとえるのであれば宇宙語。

 そう彼らは私の理解しえない宇宙語を話していたのだ。

 

 きっとこの時既に私はもう周りの事が余り見えていなかったのかもしれない。

 

 そうして17時となり退勤し、五階にある更衣室で皆が着替えている間私は一人ロッカーをぼーっと、何も出来ずにただ開いた自身のロッカーの中を呆然と見つめていた。


 一体何時まで見つめていたのかはわからない。

 ただ気づけば皆更衣を済ませ更衣室には私一人になっていたのだ。

 

 ――――。


 そう思い白衣のボタンを外そうとした瞬間、ぽとりと雫が床へと落ちれば視界が瞬く間に滲んで何も見えなくなっていった。


 こんな事で泣きたくはない!!


 泣けば負け。

 私の頑張りが、努力が足りないからと言われるのだと、でも涙を我慢しようとすればする程ぽたぽたと私の意思とは反して涙は落ちていく。

 誰もいないのに声を殺し、私は何が悲しくてどうして泣いているのか正直に言ってわからなかった。


 ただただ涙が止まらなかっただけ。


 そうして何とか涙を止め着替えを済ませれば、病院近くで夫の車が止まっていた。

 


『ありがとう』

『ごめんねお正月やのに……』


 何時もだったら感謝の言葉を難なく言える筈なのに、この時の私は喉に大きな石か何かが詰まった様に声を発する事は出来ずにただ――――。


「真っ直ぐ家には帰りたくない」


 そう告げた瞬間夫は何かを察したのかもしれない。

 何も言わずに京都市内を目的もないまま車を走らせていく。

 会話もなく音楽もない。

 何もない中でのドライブを終え自宅へと帰れば、帰宅を待っていたであろう母達が心配して声を掛けた瞬間だった。



 何を、どう叫んだのかなんてわからない。

 ただ今覚えているのは幼子の様に地団駄を踏み鳴らしながら大きな声で鳴きながら叫び、そのまま寝室へと駆け上がれば着替えもせずそのままベッドの中で布団に包まって泣いていた。


 ずっと今まで我慢していた感情の全てが濁流となって私の心のダムは呆気なく決壊し見るも無残な状態となり果てたのである。


 この瞬間より私の日常は非日常へと変わってしまった。

 

 眠る事も食事をする事も出来なくなり、泣くか死を望む様に、死んで楽になりたいと、そればかりを思い続けた。

 これが何を意味しどの様な状態であるのかさえ、あの頃の私には何も判断が出来なかった。

 

 ただただ泣いてそれが誰に対してなのかは今でもわからない。


『ごめんなさい。許して、ごめんなさい。もうしないから……』


 念仏の様に滂沱の涙を流しながらそれだけを繰り返し呟いていた。

 

 心が何処までも堕ちていく。

 目に見えない重石を付けられ二度と光輝く中へ戻れない。

 生きて再び光の中へと戻る事すら考えられない闇の中へと私は何処までも堕ちていく。


 そうしてこれが凡そ八年間……私が鬱と向かい合う日々の始まりとなったのである。










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