第10話 ギター少年

 ギター少年




 4時限目終了のチャイムが鳴り、礼の姿勢のまま私は財布を持って廊下に飛び出した。売店までまっしぐらである。

 昨日の失態は繰り返さない。とにかく売れ筋が売り切れる前に売店にたどり着かなくては。それにしても私達というか1年生の教室は全部4階なのである。売店のある1階の渡り廊下までは遠い。こんなのは不公平ではないか。新入生は上級生に忖度しろということなのか。

 私が売店に到着したとき、果たしてそこには大量の生徒が溢れかえっており、さながらデパートのバーゲンセールである。私は人をかき分けつつ皆が手に持っているパンを観察した。きっとそれが売れ筋であると思ったからだ。


 皆、様々なパンを持っているが特に目立った物が、食パンの上にナポリタンスパゲティが乗っている総菜パンのようである。私はそれを捜す。辛うじて少し残っていたそのパンに手を伸ばしなんとか一つを確保する。見るとラップの上に「ナポリパン」というシールが貼ってある。紙パックのジュースと一緒にそれを購入し中庭のサルビアの花壇のあるベンチへ向かった。


 ベンチに腰掛け先程購入したナポリパンのラップを解きガブリとかじりついた。食パンにマーガリンがたっぷり塗ってあり、その上に枕のように安っぽいナポリタンスパゲティが乗ったそのナポリパンは、なるほど、確かにコレは一番人気になるであろう食べ応えがした。お金のない学生が安くお腹を満たすにはナポリパンはまさにうってつけである。


 すっかりお腹を満たした私は、サルビアの花壇の前まで行きしゃがんだ。サルビアは何月頃咲くんだろうか、などと考えていた時だ。どこからか何か聴こえる。音のする方に目を移すと体育館の半分程度の大きさの建物が目に入った。私はその建物へ向かって行った。

 建物の前に来るとそこには「武道場」と書かれた木の板が張り付けられており、中を覗くと半分が畳、半分が床となっていた。きっとここは柔道や剣道をやる場所なのだろう。しかし先程聴いた音の主はそこには無い。

 私は更に建物の周囲を回ることにする。音が段々大きくなるにつれて音の主に近づいているのが解った。


 ちょうど武道場の真裏に当たる場所で、武道場への裏口に続いている階段に座る一人の男子生徒がアコースティックギターを弾いているのが見えた。上履きの色からして同じ1年生であるようだ。

 旭第一高校は学年によって様々な備品が色分けされており、上履きのゴムの部分の色が学年によって違う。1年生は白、2年生は黄色、3年生は水色である。来年の1年生は再び水色になる。


 ギターを弾く少年は私には気付かないようで、目を瞑りキレイな音色の曲を弾いていた。私にとっては初めて聴く曲だがとてもいいメロディーだ。私はしばらく彼の邪魔をしないようそっとしゃがみ曲に聞き入る。

 その少年の髪は明るい薄茶に染められており、全体的に長く、前髪は目を開いていたら毛先が瞳に刺さりそうなくらい垂れている。


 曲は終盤に差し掛かり、盛り上がったかと思うと徐々に音量を落としていき、そして、終了した。


 私は感動のあまり知らぬ間に拍手をしてしまっていた。「すごい、すごい」と言って私はその少年に近づいていき、少年の前でしゃがむ。少年は俯き、少し照れ臭そうに頭をポリポリかきながら私を上目遣いで見た。その瞬間少年の目がカッと見開き驚愕の表情で私を凝視したのだ。

 ん? なに? 知り合い? まさかね。

 知り合いのいない筈のこの学校に入学した初日に、知り合い二人に出会ってしまった私にとって、もう一人増える位はどうと言う事もないのだけれど、私はその少年に見覚えは無い。


 しかし、少年はすぐに目を逸らし、

 「恥ずかしいな、全然気が付かなかったよ」と言う。

 「すごくいい曲だったね。なんて曲?」と私は訊ねた。

 「『Praan」 ていうんだ。本当はピアノの方が合うんだけど、俺ピアノ弾けないから」 と少年は『MORRIS』と印字されている琥珀色の木目が綺麗なギターを両手でそっと抱くようにして言う。

 「楽器が出来るなんて羨ましい。私なんて楽器全然だから」と私は素直にそう言う。

 「確かに楽器は努力ではどうにも出来ない領域が存在するね」

 それは才能やセンスが必要ということなのだろう。

 私には何かあるだろうか。運動もそれ程得意ではなく、絵が描けるということもない。たとえ得意じゃなくても夢中になれる何かも無い。頭の中は甘い物の事だらけだ。この学校にいるということは目の前の少年はそれほど勉強が得意じゃないのかもしれない。しかし、私とこの少年の間には確かに何か、私だけが越えられない壁のような物が存在する気がした。


 「私、さっきの曲大好きになっちゃった」

 と言うと少年は微かに微笑んだがすぐに寂しそうな顔になり、

 「本当はさ、高校なんか通わずにすぐにでも東京に行ってプロを目指したいんだ。でもさ、親がうるさいんだよ、せめて高校ぐらいは出ておけってさ」

 「でも、そのおかげで今日君に出会えたから私はご両親に感謝だよ」

 「お世辞はやめてよ」と少年は言うが、私には本当に先程の曲が心に響いたのだ。


 「ちょっと弾いてみる?」と少年は徐に私にギターを手渡す姿勢で訊ねて来る。

 「ダメダメ。全然弾けないから」と私は断固辞退するが、

 「誰でも弾ける一番簡単なコードを教えてあげるから」とギターを手渡された。

 うう、どうしよう。傷をつけないように慎重にギターをぎこちなく構える。

 「ここを押えて。そう、そこだけ、この指で」と言って少年は私の左の人差し指をつまんで5弦の2フレット目に誘導した。

 「そのまま一番上の弦から下に弾いてみて」

 私は思い切って弦の一番上から下へ指をスライドさせる。

 ジャラーンと音が鳴った。その音はどこか勇ましく、それでいて悲しげであった。

 「それがEm7っていうコードだよ」

 Em7。それが私が生まれて初めて奏でた和音。

 私はもう一度弾く。その音色は、この武道場の裏で一人ひっそりとギターを弾く目の前の少年をそのまま表現している気がした。


 「ありがとう」と言ってギターを返す。


 「あの、また聴きに来ていいかな?」と私は訊ねた。

  

 「うん。雨の日以外はきっといると思う」と少年は言う。


 「私、1年3組の水原菜端穂みずはらなばほ

 少年はニコリと微笑んで、

 「太田慎太郎おおたしんたろう。1年2組」と言った。





 教室に戻る前にお手洗いに行く。

 用を済ませ洗面台の鏡の前に立ち、私は目をカッと見開き驚愕した。


 まるで獲物を仕留め、その生肉を食べ終えた猛獣の様に、口の周りにナポリタンスパゲティのケチャップをいっぱいに付けた私が鏡の中にいたのだ。

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