260号車
帝京地下鉄東西線 中野駅
東西線の西側における終点。それがここ、中野駅だ。東西線以外では中央線と総武・中央線が乗り入れている。東西線はこの中野を出るとすぐに地下区間へ入り、江戸川区の西葛西駅手前から地上区間に切り替わる路線だ。その殆どが人口密集地とオフィス街の地下を通っているため、何所で爆発しようとも最悪の結果になるのは目に見えている。
西葛西から地下へ出る際に長い橋脚が存在するも、下は荒川だ。そこで爆発した場合、被害は最小限に抑えられたとしても、人質となった乗員乗客はまず助からない。爆発の影響で橋脚も間違いなく崩れ落ちるだろう。そうなれば、東西線は長期に渡る運行休止を余儀なくされ、多くの利用客が不便な通勤を強いられる事になる。特に沿線周辺へ及ぼす影響は計り知れない。経済的にも大きな打撃だ。おまけにその上も首都高速中央環状線が走っている。少なからず影響は出て来るだろう。
東側の終点となる西船橋駅の手前。正確には妙典と原木中山の中間にも江戸川があるが、こちらは川幅が狭い上に東京外環自動車道も近い。何れにしろ、周辺に被害を出さずに事態を収束させる事は難しかった。
件の260号車が中野駅のホームに滑り込んで来る。既に周囲は警察による封鎖が成されており、商店や企業で働いている人々も避難を余儀なくされていた。
更に、駅の外からホームの中を見る事が出来る各所には、警視庁機動隊の一機から九機より選抜された狙撃隊員が複数潜んでいた。またERTからも狙撃隊員が参加している。
「狙撃統括より各班、状況どうか」
臨場している狙撃隊員は合計で10チーム。誤射への注意を払いつつ、駅のホームを左右から狙い撃つ形で展開中だ。射手たちはまだ実弾の装填されていない豊和M1500を構え、もし今この場から狙撃を行う事になった場合、確実に犯人グループを仕留められるかの感覚を掴んでいた。
「1班、視界は問題なし」
「2班。マル被の位置にもよりますが3号車か4号車は狙えるものと思われます」
「7班です。こちらは視界が悪いので場所を変えます」
半分は狙撃地点が悪いらしく、移動が必要だった。残り半分については問題ない事が判明。追加の指示があるまで待機となる。
至近にある野方署の対応チームは中野サンプラザに現地対策本部を設営。駅とも連携しつつ周辺の警戒警備を行っていた。駅周辺には警視庁第八機動隊の2個中隊が展開。突入にも備えて武道小隊を中心に編成された特別班が待機している。
現地対策本部では係員たちが終始忙しく動き回り、電話が鳴り止む事もなかった。常に怒号が飛び交う中、本部を取り仕切る野方署署長の
「救急車の待機場所はここの駐車場で良い、宿泊施設も借り上げて負傷者収容の態勢を整える。何があっても対応出来るようにしておけ。周辺住民とオフィス街の避難状況はどうだ」
「半径1キロ圏内の退避を完了。沿線沿いに関しても順次進んでいます」
「駅連絡班より入電。間もなく260号車がホームに進入して来ます」
その報告を受けて多くの署員が窓に駆け寄った。別室に設けられた監視部屋では、写真や動画撮影の準備が行われている。
「ゲンポンより狙撃統括へ、260号車が進入して来る。イメージと実物では感覚が大きく異なる筈だ。その辺を十分に留意して各班に仮想射撃を下命せよ」
「統括了解」
各所に潜んでいる狙撃班に対して仮想射撃の命令が下る。狙撃班の射手たちそれぞれはホームに向けてM1500を構えた。実際の射撃命令は当然だがまだ出ていないため、実包はこの本部に一括で管理されている。
地下から260号車の振動が少しずつホームにも伝わって来た。東西線側のホーム自体に人は居ないが、この駅に乗り入れているJR中央線及び総武・中央線側のホームでは自動販売機の影に潜んだ複数の捜査員がカメラを構え、260号車の進入を待ち構えていた。
これらもまた、車内の様子を確認して犯人グループと人質の位置関係を割り出すためのものである。
数多くの捜査員たちが見守る中、ついに件の260号車が姿を現した。減速しつつホームへ滑り込んで来る。けたたましいブレーキ音を木霊させながら、先頭車両が停止位置で停まった事で260号車全体も停車。コンプレッサーの音が鳴り終わるとホームは静寂に包まれる。運転士の交代要員も用意はされていたが、ホームに上がる階段の手前で二の足を踏んでいた。
260号車運転士 赤澤
無事に電車を停車させた事で赤澤の全身から力が抜ける。しかし、後ろで未だにが鳴り立てている犯人のお陰で心が休まる事はなかった。
交代要員については事前に運転指令から報せが入っていたが、一向に姿を現さないのが赤澤の焦燥感を掻き立てて行く。指揮所に問い合わせるため無線機のスイッチを入れようとした瞬間、仕切りの窓を凄まじい力で叩かれた。
「いつまで停まってんだ、早く出しやがれ!」
あまりの恐怖で声も出なくなるが、何とか捻り出した声量で説明を試みた。
「交代が来ます。それまでお待ちを」
「じゃあさっさと寄越せ! この車両ごと吹っ飛ぶ前にだ!」
弾丸が弾き出されるを体現するかの如く、赤澤は指揮所に問い合わせた。既に交代要員がホームへ向かっていると説明を受けるも、それがやって来ない事を伝える。
「いつ来るんですか! 早くしないと車両ごと吹っ飛ばすって!」
「落ち着け。こっちも急いで確認を取る」
「来ないならお前が最後尾に行ってもう1度運転しろ! ここ開けろおい!」
扉を蹴り上げて来た。鉄板か何かが入った安全靴でも履いているのだろう。蹴り方に容赦が一切感じられない。扉を蹴り上げる音が赤澤の心を締め上げる。
「早く来させて下さい!」
それは悲鳴と言って差し支えなかった。涙交じりの声が指揮所にも届く。
だが指揮所では問題が浮上していた。交代要員の運転士が半狂乱に陥って逃亡を図り、改札機にしがみ付いて泣き喚いているとの報告が中野駅より飛び込んでいたのだ。急な事態のため交代要員をその運転士1人しか用意出来ておらず、更なる交代要員を運ぶのには時間が掛かる。
電車の運転は高度な訓練を受けて且つ専門の資格を保持した者のみが行える事だ。事務所の駅員をあてがう訳にもいかない。しかし事態は切迫している。そこから導き出される答えは、1つだった。
「大迫だ。赤澤運転士、聴こえるね」
「は、はい」
急に運転指令が無線に出たため、赤澤は驚いた。同時に、嫌な予感が膨れ上がっていく。
「交代要員だが、先ほど中野駅からの連絡で、泣き喚いて使い物にならないと報告があった。そのため、260号車を運転出来るのは現状において君しか居ない。西船橋ではベテランの運転士を用意させる。済まないが、もう1度だけ頼む」
絶望が赤澤を支配する。大迫指令は何を言っているのだろうか。使い物にならないなんて知った事ではない。いいから早くそいつをここまで寄越せ。
「何なんですか……こっちは泣きたいのだって我慢してるんですよ、逃げたいのだって我慢してるのに」
「横槍を挟んで申し訳ありません。金本です」
指揮所と赤澤の間に強い緊迫感が生まれた。犯人グループのリーダーである自称"金本"が無線に割り込んで来る。
「やり取りはお聞きしました。泣き喚きたくなる気持ちはよく分かります。ですが大迫指令、最初に申し上げた通り、電車を停める事は許しません。要求は満たされないものと判断します。しかし、赤澤さんの疲労も無視出来ません。ここは1つ、その運転士に駅長さんを随伴させる事で手を打ちましょう。であれば運転士の方も心強いんじゃないでしょうか。5分以内の行動をお待ちしております」
金本の提案は大急ぎで中野駅駅長に伝えられる。最初は困惑するも、覚悟を決めた駅長は件の運転士を改札機から引っぺがし、2人で階段を駆け上がった。
帽子も被らず制服の上着も脱げてしまっている半べその運転士と共に駅長こと
この時の鷹田は逃げようと思えば逃げられたが、当然の如く金本に「まぁ分かっていますね」と含みのある言い方をされていた。それがイコールで自爆テロ決行になる事は説明されずとも分かっていた。
こうして新たな運転士を得た260号車は千葉側終点の西船橋に向けて再び走り出した。一連のやり取りは指揮所に居た特殊犯を率いる須貝警部補のチームが記録。対策本部が設けられている桜田門に伝えられた。
因みに仮想射撃の結果は芳しくなかった。位置取りや角度の問題もあり、確実に撃てるのは1~2班程度と判明。それも中央付近の車両のみである。
深川車両基地
この深川車両基地は江東区に存在する帝京地下鉄の施設だ。整備、検査、留置などの業務を行う専用の場所であり、一編成分の車両が丸々と収まってしまう巨大な屋根付きの車庫も存在する。
その車庫の中では今、警視庁及び千葉県警のSAT、SITの混成部隊による実物の車両を使用した制圧シミュレーションが行われている最中だった。
「各班、前へ」
一応はホームの形を模した検査場に鎮座する同型の車両。その昇降口が開くと共にMP5を携えるSAT隊員たちと、拳銃や各種の非致死性武器を構えたSITの捜査員が車内へ雪崩れ込んでいく。
「1班、制圧」
「4班制圧」
「慣れては来たか……」
隊員たちの声を聴きながら腕時計を見ていた警視庁SAT隊長の古代がそう呟く。1回目よりは制圧に掛かる時間が明らかに短くなって来た。
しかし問題は、現段階においても尚、上層部では犯人の検挙か射殺のどちらを目指すかで押し問答が続いていた。早い所その辺を明確にして貰わないと現場は動けない。だが古代自身、この事件の犯人グループを検挙する事など不可能に近いと考えていた。
本人たちは口にしていないが、ここにSITが居る事自体も考えてみればおかしな話だ。手数が足りないのが大きな理由ではあるものの、最初から射殺する事を念頭におくのであれば居なくて構わない。
古代の考えとしては恐らく主犯格のみの検挙が目標となり、残りの方は射殺する動きになりそうだと予想していた。主犯格以外が抱えるそれぞれの事情はあれど、この事件を引き起こしたであろう金本さえ逮捕が出来れば八方丸く収まる。そんな気がしていた。
「上からは何か言って来てるか」
「まだ何も」
そもそも、どの駅で制圧行動に出るのかもまだ決まっていない。万一に自爆テロが決行された事を想定するなら、地下よりは地上駅の方がまだいい。地下で爆発なんておきれば最悪は道路が崩壊して駅一帯は陥没。地下を走る水道管やガス管などのライフラインが影響受けるだけでなく、周辺施設への被害も大きい。
地上駅ならばホームが吹っ飛んで周辺施設もある程度の被害を被るだろう。だが地下に比べればマシな筈だ。
「失礼します。中野駅で撮影された映像と画像データが届きました」
警備部の調整要員が姿を現した。小脇に抱えるファイルには画像データをプリントアウトした物が挟まっており、それもテーブルに広げていく。
「映像はこっちで頼む」
「はい」
ノートPCから伸びるケーブルがモニターに繋がれて映像が再生され、千葉県警SAT隊長の早藤もそれを目にした。停車中の260号車各車両に陣取る犯人グループの位置がこれで判明する。
そして、運転士の赤澤を含めたやり取りの事や、新しく電車に乗り込んだ半べその運転士と松本駅長の件も伝えられた。だが一連の事情よりも、各車両の何所に犯人グループのメンバーが居るかの方が最も重要な情報だった。
「……こことここと、こっちはこの辺ですね」
「よし、この情報を基にシミュレーションをやり直す。これで乗客の位置関係も分かった。少しはやりやすくなるだろう」
隊員たちにもメンバーの位置情報が伝達される。こうしてシミュレーションは再開され、具体的なメンバーと乗客の位置関係を含んだ突入の段取りが組まれていった。
最も、古代だけでなく早藤にしろ、射殺か検挙のどちらを目指すかは速く決めて欲しい事だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます