ファーストコンタクト
帝京地下鉄本社 会議室・現地対策本部
資料とは言うが、実際はプリントアウトされた紙3枚をホチキスで留めただけの簡素なものだ。必然的に情報量も少ない。それをどれだけゆっくりと目で追った所で10分、いや、5分も掛からずに終わってしまうのは明白である。
それでも尚、現段階で自分に出来るのは、この少ない情報を脳へ刻み込ませる事だけだった。1字1字を丁寧に、小声で小さく呟きながら自分の中に浸透させていく。
状況にもまだ大きな動きはない。さっき小耳に挟んだのは、東京側の終点である中野駅と千葉側終点の西船橋駅よりそれぞれ向こうへ車両の一時退避が終了し、線路上がクリアになったと言う事だった。そこまで動かせなかった車両に関しては退避スペースや相対式ホームで快速用の線路が設置される部分へ誘導。当該車両がまた通った際に退避させる方針らしい。
恐らく首謀者と思われる男。自ら偽名と公言して"金本"と名乗っている。SNSでもアカウント名を"トレインジャック中@金本"と設定し、車内の状況を逐一アップロードしていた。特に恐ろしいのは、書き込まれるコメントに対して全て返信している点である。その殆どはのらりくらりとしたものが多いが、中には辛辣に言い返している場合もあり、狂っているようでも何所かに付け入る隙があるように見受けられた。
無論、それすら演じてやっている可能性も高い。こちらがその綻び目掛けて飛び込んで来るのを誘っているのかも知れない。だからあえて、ネット上でそんな事をしているのも考えられる。でなければここまで平然とやる意味もない筈だ。これを気分だけでやっているとしたら、間違いなく狂人である。取り付く島なんて存在しないし、機嫌を損ねるような事があればエレベーターのボタンを押すぐらいの軽い気持ちで自爆を慣行するだろう。
どっちに転んでも、難しい事件であるのは間違いない。
だがここで、資料に犯人グループの要求が詳しく載っていない事に気付いた。【運行に対する姿勢の改善】としか書かれていない。
「…………警部」
「どうした」
「相手の要求を詳細に纏めたのはありますか。これには大まかな事しか書かれてないんですが」
「あぁ、ちょっと待て」
小松警部がテーブルに散らばった紙の中から1枚を取り出した。かなり字が歪んでいる。
「そもそもが手書きな上にコピーのコピーで読みにくいぞ、必要なら打ち込んだものを用意するが」
「ではそれのコピーをお願いします。さすがにこれはちょっと」
「分かった。おい、誰か隣の社長室から要求が書かれたのを借りてコピーしてくれ」
数分後、若手の捜査員が新しくコピーしてくれたものを受け取った。そこには、考えていたよりも遥かに多くの要求が連ねられていた。
一時の感情に任せている部分も感じられないではないが、読み進めていく内に帝京地下鉄を利用する1人の人間としては普段から思っている事も多い事に気付いた。特に一旦遅延が発生すると定型文の放送しかせず、何も罪悪感を持ってなさそうな所には自分も苛立ちを覚える。
何がどうなってこうなったから、明日はもう少しどうこうしよう。そんな姿勢が見られない所も共感出来た。「遅延は仕方ない事」として割り切り、特に改善へ向けた動きが感じられないのも1ユーザーとして思う所がある。「朝は遅れるんだから、それが嫌ならもう少し早いのに乗ればいい」と暗に言われている気にもなる。だからこそ連中は、行動を起こしたのだろうか。
(……職場の縁の下、とはまた違うかな)
恐らく、金本は規則や仕事に対して厳しく意識も高いが、直接的には評価されにくい人間なのかも知れない。特に社内で無駄に在職期間の長い人間は、口先だけ下に異様な意識の高さを求めるくせに自分は適当に過ごしている者も多い。そういう存在と普段から接し、「自分はちゃんとやっているのにどうしてコイツは適当で何もしないのに評価されるのだろう」と考えていた人間の可能性が高いように感じた。
だからこそ、せめて出勤退勤だけはスムーズに。そんな小さな願いをよく分からない遅延やトラブルで踏み躙られる。駅の職員たちは慣れ切ってなぁなぁに対処。聞き飽きた定型文を言葉を繰り返し、改善の兆候すら見られない。自分は必死に仕事をしているのに、どうしてコイツらはこんなだらけて仕事をしているのだろう。やる気がないなら辞めちまえ。それで仕事をしていると言えるのか。それで給料と賞与を貰っているのか。それでサービス業を語っているのか。それで責任を果たしているつもりか。ふざけるな。
と、ここまで深く考えてみた辺りで、犯人側の気持ちへある程度は寄り添える気になった。そうやって思い切った行動に移せる所は称賛に値するし、何だったら自分も混ぜて欲しいなんて思えて来る。
だが自分は警察官だ。服務の宣誓にある通り、守らなければならない事がある。そして今、進行しつつある乗っ取り事件が最悪の結末を迎えるかどうかは、自分の手に掛かっていた。
(こんな方法をやったら怒られそうだなぁ……)
1つの案を思い付いた。到底褒められたものではない。下手すればこの場から放り出され、2度と警視庁の門を潜れない可能性もある。しかし、悪戯に正義を振り翳せば金本を刺激するだけだ。
向こうに取っ掛かりがないなら、こっちからそれを誘い出すしかない。取りあえず、小松にだけは言っておこうと思い、立ち上がった。
「警部」
「ん?」
「……ちょっとお話しが」
2人で本部から抜け出し、非常階段までやって来た。ビルを叩く風が心地いい。
「警部。もしかしたら突破口になるかも知れない方法を思い付きました」
それを聞いた小松は目を見開いた。周りには誰も居ないのに周囲を見渡す仕草がちょっと面白い。癖になっているのだろう。
「どうやるんだ」
「…………すごーく言い難いんですけど、思い切って犯人側に同調して見ようと思うんです」
小松が顔をしかめる。だが、これで感情的に罵声を浴びせるようなら特殊犯の人間は務まらない。三嶋の言わんとしている事を小松なりに考えているようだ。
「……現状、連中を止める手段は経営陣の判断を待つしかない。SATにせよSITにせよ、強行突入をすれば乗客諸共、いや下手をすれば周辺住民ごと消し飛ぶ。下手に投降を求めるよりは安全かも知れんが」
「おまけと言ってはなんですが、もしかすると経営陣の決断を早められる可能性もあります。何となくですけど、金本は基本的に業務マニュアルへ沿った仕事が好きなんだと思います。だからこそ、どういう時にどんな事をするべき、こういう場合はこうして対処、そんなしっかりした業務マニュアルがもし出来上がれば、納得して貰えるんじゃないかと思うんです」
「だがそんな簡単に事が運ぶとは思えんな。さっき少し隣を覗いて来たが、誰も何も言おうとしない感じだったぞ。運転指令からは矢継ぎ早に情報が舞い込むだけじゃなく、具体的にどうするのか再三に渡って連絡が来ている。それにすら今は待てとしか返してない状態だ」
「ええ。ですから、あえてそこに踏み込みます。自分の首が最後にどうなるかはお任せします。取りあえず、この事件がどうにかして着地する事を優先させたいんです」
かなり遠回しに「辞めてもいいですか」と言ったつもりだった。恐らくそこまで感付かれてはいないだろうが、もしクビでなくても閑職になるなら、それはそれで悪くないと思った。いや、それこそ自分に相応しいポジションだと、三嶋は信じていた。
「…………分かった。成川課長には俺から言っておく。何をどうやるか、しっかり筋立てしながら考えてくれ。まかり間違っても、連中にボタンを押させてはならんぞ」
「はい」
秘密のやり取りを終えて会議室へと戻った。本庁に連絡を取り出す小松を尻目に、三嶋は資料の裏を使って金本との交渉をシミュレーションし始めた。
「三嶋、課長が少し話したいそうだ」
「分かりました」
まぁそれはそうだろう。成川課長は滅多に声を荒げる人でない事は知っているが、この場合はどうなるか分からない。
恐る恐る小松から受話器を受け取り、電話口に立った。
「三嶋です」
「小松から大まかには聞いた。もう少し詳しく聞かせて貰えるか」
詳しく。実際の所、三嶋の中にもまだ細かい事は出来上がっていなかった。取りあえずでも言葉にしながら説明を試みる。
「まず金本の行動から感じた事として、極めて冷静にこの事件を動かしていると思ったんです。SNSでも分かるように全ての投稿へ丁寧に返信していますし、何かに怒り狂っているのであればそんな事をする余裕は無いと感じました。であれば、自分の行動をしっかり自覚しながら、その場に臨んでいるんでしょう。自爆テロと言う最大の武器を携えての脅迫です。下手な懐柔より、私個人が向こうに寄り添うような交渉が有効ではないかと考えました」
成川からの返事は暫くなかった。数分後、電話の向こうからようやく声がする。
「個人と言う事は、警視庁としてではなく、自分自身はあくまで警察官だが、金本を肯定する立場として交渉を行い、より良い着地点を目指す。そんな解釈でいいか」
「……概ね、その通りです」
また暫くの間、声が消え失せた。無言且つ、受話器を持ったまま直立不動の三嶋を、その場に居る全員が静かに見つめている。
電話の向こうで何かのやり取りをする声が聞こえた。それが終わると、再び成川の声がする。
「分かった。犯人との交渉経験のない私が口を挟んでも説得力は生まれない。経営陣へ金本の要求に沿ったマニュアル作りを至急進めるよう、警察庁を通じて国交省からも圧力を掛けて貰うように試みる。それと現在、SAT及びSITの混成チームが実物の車両を用いた制圧シミュレーションをしている最中だ。だが、かなり難航していると聞いている。もしかすると実力での制圧は不可能な可能性も高い。しかし何も手出しをしない時間が長引けば、どうなるか誰にも分からない状況だ。慎重に頼むぞ」
「承知しました」
通話が終わる。受話器を置いた三嶋は振り返り、こう言い放った。
「指令センターに金本の電話番号がある筈です。それを聞き出して貰えますか」
「分かった、大至急に手配する」
小松が部下に指示を始めた。もう後戻りは出来ない。それと同時に、一番交流の深い後輩へ千円札を手渡す。
「申し訳ないけど、コンビニで牛乳と菓子パンを適当に買って来てくれるか。何でもいい」
「分かりました」
飛び出して行く後輩を見送り、座っていたソファを手近なテーブルまで移動させる。そして違う場所にあった電話をそのテーブルの上に移した。
ソファへ腰掛けるとスーツの上を脱ぎ、ネクタイも外す。ボタンも2つ開けた。窮屈だった感じが消え、楽になるのを感じる。
「番号だ」
「ありがとうございます」
小松から差し出された紙を受け取る。程なくして、後輩が買って来てくれた物を受け取り、牛乳を傍に置いた。
その横にペンとノート、金本の電話番号が書かれた紙を置く。こうなったらぶっつけ本番だ。下手に策を幾重にも張り巡らすと、こちらが意図している事を悟られる危険性がある。ここは1つ、共犯になるぐらいの気持ちで乗っかってみようと思っていた。
「……ふぅ」
電話を前に精神の統一を図る。だが、どれだけ気持ちを落ち着けても、潜在意識にこびり付いた何かは許してくれなかった。喉の奥から吐き気を伴う強烈に不快な咳が飛び出す。
「ヴォエッ」
咳の後に空嘔が襲う。胃が収縮するのを感じた。咥内が唾液で溢れ返り、目尻には涙が溜まる。
「三嶋?」
「いえ……大丈夫です」
買って来て貰った牛乳を流し込んだ。少しだけ楽になり、もう1度その身を整える。ゆっくりと深呼吸を終えてからダイヤルを押し始めた。呼び出し音が鳴り続けるこの時間が苦痛だ。
20秒程度の時間が流れる。もしかしたら出ないつもりだろうかと思い始めた矢先、走行中の車内らしき環境音が聞こえて来た。
「恐れ入ります。警視庁特殊犯捜査第係、三嶋と申します」
「金本です。偽名なのは既にご承知かと存じますが、よろしくお願い致します」
穏やかな声色だ。普通に仕事をしている感じのテンションである。しかしこの男、警察からの電話を直接受け取っても動揺が一切見られない。それだけでも、手強い相手なのが分かった。
「こちらこそ。私は所謂、交渉担当と呼ばれる者です。これより、其方と帝京地下鉄の間を取り持たせて頂きます」
「ありがとうございます。現在の進捗はどのような感じでしょうか」
まず真実を伝える。そして同時に、ここから仕掛ける。
「それが目立った動きが見られないんですよ。こちらからも早く方針を固めるように再三申し上げているのですが、一様に下を向いたまま押し黙っておられまして」
「何と不甲斐ない。それで経営陣が勤まるなら、帝京地下鉄はバカでも社長が出来る企業なんでしょう」
更にもう一歩。こんな事を言わないだろう、と相手が思っている事を口にする。
「全く同感です。これで1日の利用客数十万を支えているんですから、もう少し利口な人たちなんだと思っていましたよ。こういう時でなければ実態なんて見られませんしね」
「おや、警察官の割には良い事を仰いますね」
「私も東西線ユーザーですからね。其方の要求は常々思っていた事でもあります。どうしてこの程度の事をさっさと決断して実行出来ないんでしょうね。物事を判断する力がそもそも備わってないんじゃないかとさえ思いますよ」
同僚や後輩たちが目を丸くしている。それもそうだ。こんなのが交渉の訳がない。だが、これに賭けるのが近道だと思ったのだ。普通でない相手には、あえてこちらも普通でない事をする。それも選択肢の1つと言っていい筈だ。
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