破れた革の財布

roar

第1話


「当たりだな。」

 そうカウンターの隅でつぶやいた鈴木はうっとりとした目でその液体を覗き込んだ。冬の夜のような深い黒い液体は次のように白いカップに並々と注がれている。その月を口元に運び夜を流し込むと苦味や酸味、コクがある香りが流星となり鼻から抜けてゆく。

 鈴木はこの時間が好きだった。閉店間際の喫茶店で誰にも邪魔されず五感でコーヒーを味わう。洒落た音楽ではなくAMラジオが流れているのもお気に入りのポイントだ。ラジオでは隣町で強盗事件が発生したと演技がかった神妙な声でパーソナリティが話している。

 女房と死別し出世道からも外れた鈴木にとって会社帰りに喫茶店を巡ることは唯一の趣味と言っていいものだった。

 残ったコーヒーを勿体ぶるように口に入れ、伝票を持ってレジに行く。ポケットから出した黒い革財布は所々ほつれ、酷いところは少し破れている。こんな財布でも鈴木は買い換えるつもりはなかった。7年前妻が最後にくれた誕生日プレゼントだった。

 中の小銭は鈴木が思っていたよりもすくなく、仕方がなく千円札を払って店を出た。

 鈴木は徐々に冷たくなる風に首をすくめながらボロくなった財布に想いを馳せる。

「あなたって本当に自分に無頓着よね。財布くらいいいもの持ったらどう。」

 わざと憎まれ口を叩きながら妻はこの財布渡してきた。

 ここ数年お互い誕生日を祝うことなどしてこなかったのでススキは驚いたことを覚えている。

「いいのか。高かったんだろ。」

「いいのよ。そういう気分だっただけ。でもそれ、本当にあなたらしいと思わない。その色あなたが好きなコーヒーと似ているんですもの。この財布があなたを見守ってるわ。」

 いつもは倹約家な妻が自分に贈り物をしてくれたことに明日世界が終わるのではないかと軽口を叩いた。。

 妻が亡くなったのはその3ヶ月後だった。しばらくは何もする気が起きず、会社でも簡単なミスが続いた。なんとか折り合いをつけれたのは妻に最後に貰った財布があったからだ。コーヒー好きな鈴木のため選んでくれたこの財布をみて鈴木は昔好きだった喫茶店巡りを再開したのだ。

 次の日、いつものように出社すると部長に呼ばれた。

「鈴木くん。大事な話なのだが。」

 から始まった部長の話というのは自主退職しないかというものだった。つまりリストラだ。

 会社が経費削減という名目でリストラをしようとしているというのは社内でも噂になっていた。そうなれば鈴木は真っ先にその対象になるだろうということは分かりきっていた。

「いや、今すぐにというわけではなくてだな。ゆっくり考えてくれたまえ。」

 鈴木は何も言う気が起きず、早退ということになった。

 癖とは怖いもので足は自然と喫茶店に向かった。こんな日もこの店のコーヒーは美味しかった。無性に情けなく涙が溢れそうになったので慌てて店を出た。

 泣いている姿を見られたくなかったのですぐ近くの路地に入ると、2人の男に出くわした。男達は驚いたようにこちらを見ている。涙を溜めた顔を見られたくなかったので引き返そうとすると突然後頭部に衝撃が走った。殴られたことに気づいた時にはアスファルトに倒れ込んでいる。目の前には2人の男の足が路地の入り口を通せんぼするように立っているのが見える。なんとか上体を起こすと今度は肩に鈍い衝撃が走った。蹴られたのだ。次の瞬間、体のあちこちに痛みを感じる。体がほのかに熱を持ってきているのがわかる。鈴木はどうして自分がこんな目に遭ってるのだろうと考える。思い当たる節はないし八つ当たりしたいのはこちらなのに、とどこか現実逃避のようなことが頭に浮かぶ。その間も休むことなく衝撃は続く。もうどこか痛むのか分からなくなったなあなどと他人事のように感じる。ふと視界の端に何かが光ったような気がした。衝撃がおさまったすきを見て転がるように立ち上がると男はカバンからナイフを取り出している最中だった。鈴木は無我夢中でカバンに目掛けて体当たりをした。男たちは予想外の反撃にカバンを落とす。

「動くな。警察だ。」

 男達の背後から聞こえて来た声に男達の動きが止まる。そこには屈強そうな警官達の姿があった。そこからはあっという間だった。鈴木から警官に攻撃対象を変えた男達はすぐに取り押さえられパトカーに乗せられていった。残された鈴木がしばらく呆然と立っていると初老の男性が話しかけて来た。

「大丈夫でしたか。」

 よく見るとさその男性は喫茶店の店主だった。店主はその後鈴木の差し迫った様子が気になったこと、追いかけようと店の外に出ると小銭が落ちていたこと、それを辿ると鈴木が襲われていたこと、などを説明し

「店に来るお客様を特別扱いはしないですが、あなたは本当に美味しそうに私のコーヒーを飲んでくれていたので気になったんです。」

 と話を締めくくった。

 鈴木はそこで初めて財布の底に穴が開いていることに気がついた。

 見守ってるって言ったでしょ。

 妻の声が聞こえた気がした。

 太陽に照らされ鈴木の視界は光に覆われた。

 

 目覚めると病院のベットにいた。数日で退院できるのとのことで、数日間、検査やら警察からの事情聴取やらで鈴木はこれでは治るものも治らないのではないかと思っていたが、そんなことはなく、4日後には退院していた。

 退院するとその足であの喫茶店に向かった。扉を開けると店主はいつもの笑顔で鈴木を出迎えてくれた。助けてもらったお礼を言い、リストラされたのでここへ来るのはおそらく最後になるだろうということを伝えた。

 店主は、穏やかに話を聞いていた。

「そうだったのですね。少し昔話を聴いてくださいませんか。」

 店主は穏やかに続けた。いつのまにか鈴木の前には淹れたてのコーヒーが置かれている。

「実は私も昔はサラリーマンだったんですがね、やる気はあったんですが仕事がからきしダメでクビになったんです。そこではじめたのが喫茶店でした。自分のペースでできそう。それだけで始めたんですが、だんだん可愛く思えて来て。コーヒー豆も食器も店も。そこで気づいたんです。私に足りなかったのはこれだと。どれだけやる気があっても仕事を慈しむ心がないと行けないことに。」

 それから店主はどれだけ苦労してコーヒーを入れているか、サラリーマン時代の失敗談など、とにかくたくさん話した。

「まとまらなくてすみません。なるようになるさとビートルズもいっています。よければうちで働いてみませんか。」

 鈴木はその申し出を断って店を出た。ポケットから財布を取り出し心を固めた。鈴木にとって1番慈しみを持っているのはコーヒーではなくこの財布だった。いつかこの財布を直してやろうと決意した。

 

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