2.僕は追放者

 エルフの住まう大森林の西部には立入禁止区域が存在している。

 集落からは徒歩で半日も離れたその場所は、大昔エルフが住まうよりも前に猛毒を持つ竜が巣を築いていたと言われている。その影響で、清純な湖は汚泥の溜まる沼と化し、竜の死後何百年と経っているのに未だに腐臭が立ちこめていて、呼吸をすればむせ返る程の悪環境だった。

 そして長年の毒素によって汚染された木々や動物達は、森本来の生態系から大きく逸脱してしまった。

 通常の作物は育たない。住まう動物も須く体内に毒素が巡っている。感覚が鋭敏で、空気から魔力を取り込んで体調を維持しているエルフには、到底住める環境ではない。


 そして、そんな森の中を闊歩するエルフの青年が居た。名をシムリと言う。

 その体型はエルフと言うには随分と太った、『ずんぐりむっくり』としたものであった。身に纏った獣の皮は年単位で洗われていない。その長過ぎる金髪も、垢と汚泥に塗れた顔も体も。洗える水がない環境なのだから仕方がない。慣れとは恐ろしいもので、シムリは最後に水浴びしたのが何時だったかさえ覚えていなかった。

 清潔にせずとも病にかからない。必要としない贅沢をする暇は、シムリにはなかった。

 背負った手製の歪な形をした籠には、紫や派手な黄色の笠を持ったキノコが折り重なって放り込まれている。もしもこれらのキノコを普通のエルフが口にしたなら、命を落とすまで一日もかからないだろう。


「……お、珍しい」


 シムリがしゃがみ込む。紫色の花が樹の根元に咲いていた。シムリはその華の名前は知らない。

 かつて住んでいたエルフの集落では、近所の夫婦が栽培していた。少し日に当てて乾燥させてから火で炙ると爽やかな良い香りがするのだ。シムリは「ありがたい」と口の中で祈り、一度花に手を合わせて拝み、摘み過ぎないように、五輪咲いているうち二輪だけをちぎって手の中に握り込んだ。

 今日はいつもの巡回ルートを少し外れた甲斐があった。神様からの贈り物だろう。少しだけゆっくり眠れそうだ。


 シムリの住処は、沼の脇の洞窟の中だ。小高い丘の上にぽっかり横穴が空いており、奥に進めば以外にも広くて、コウモリさえ追い出せば寝床には最適だった。

 洞窟の最奥は沼の臭気も届かない。今日はまだ日が高いが、食事は十分だろう。キノコは味気ないが、他に食べられるものがない。

 本当は肉が喰いたかったが、ここ最近は動物の数が目に見えて減っている。

 乱獲しないよう、肉を喰うのは一週間にいっぺんと決めていたが、最後にネズミと蛇の肉を喰ったのは一ヶ月近く前の事になる。

 今日狩りの巡回ルートを外れたのは、新しい狩り場の開拓も兼ねていた。罠を張るのに適している場所は見つけられなかったが。


 最近は良い事がない。こう言う時は、折角手に入った花の香りを楽しみながらゆっくり微睡むのも良いだろう。

 そう思って自分の住処に足を踏み入れたとき、ほのかに香る百合の花を感じて、シムリは溜め息を付いた。

 どうやら来客らしい。


「……マリ。久しぶりだね」


 シムリにとっては些か眩しすぎるランタンの明かりが、洞窟のカビだらけの内壁を照らし出す。

 そのランタンを掲げる黒髪の少女は、この不衛生な環境には似つかわしくない整えられた清潔な出で立ちをしている。森の獣の革を丁寧になめして作られた、エルフの狩猟用装備を身につけた軽装の少女は、返事をする前に軽く咳き込んだ。


「相変わらず酷い場所」

「そんな事言わないでくれよ、これでも結構整えてるんだ」

「そうね。イモリの骨やら蛇の生皮が転がってないだけマシかも」


 マリと呼ばれた少女は、床を見渡しながらそう零した。

 生活環境は整っている。食料の備蓄なのだろう、部屋の隅にはキノコが積まれている。鮮やかな紫、レモンイエロー、眩しいピンク……全て禍々しい色をしてはいるが。

 その脇にある戸棚には、狩猟に使うのであろう罠が置かれている。手入れはされているようだが、染み付いた獣の血がこべりついている。

 ねずみ取りもトラバサミも、形状こそ歪であるが、確かに機能する。

 寝床には、獣の皮や鳥の羽が縫い繋げられ何重にも折り重なっている。マリは先程まで腰掛けていたが、意外な程座り心地は悪くなかった。

 三年もこんな場所に放り込まれていれば、自ずと生活も安定するようになる、と言う事か。

 違うだろうな、とマリは嘆息する。なんのサバイバル知識もない普通の青年が、こんな所に放り込まれていたのだ。

 この男の生命力と環境適応能力には、目を見張る物がある。


「ごめんね、こんな場所に通わせちゃって」

「私が勝手に来てるのよ。シムリが謝る事は何もないわ」


 マリはこの場所に、およそ二ヶ月に一度の割合で顔を出していた。

 とは言え、エルフに取ってのこの場所に居座る事は、毒沼につかるに等しい行為。滞在時間は一時間もない。

 そんな場所に、マリは片道走って二時間かかるこの場所に度々訪れている。マリは家族想いの少女だった。義理の、とは言え幼い頃から共に育った自らの兄が、こんな地獄のような環境に放り込まれて心配で居られない訳がないのだ。


「元気そうなのは良いのだけれど……その、どうにかならないの、酷い見た目は。コケと泥に目が生えた案山子みたいな格好。髪の毛、私より長いんじゃないの? トロールの子供にでも擬態してるの?」

「たまには水浴びでもしてさっぱりしたくなるけどね」


 答えになってない答えを返すシムリ。マリもシムリの生活環境は分かっている。

 シムリは、体を洗うのも面倒臭がる物臭ではない。むしろ一緒に住んでいた頃は、シムリはマリを頻繁に集落の共同浴場に引っ張っていた程だ。

 慣れによる変化か、未だに我慢しているのか。冗談を言いながら表情を変えないシムリの顔からは、嘘は感じられないが、感情は見えなかった。


「ねぇ、今日が何の日か、分かる、シムリ?」

「暦を数えるのはもう諦めたよ。何か特別な日なの?」


 すっとぼけた顔をしているシムリに、少し険しく作った瞳を向けるマリ。

 どうやら特別な日である事には違いないらしいのだが、シムリは季節が春だと言う事くらいしかもう分からなかった。

 どうにもシムリには思い至らないようなので、諦めてマリは口を開いた。


「……誕生日」

「あぁ、そうか。君が生まれたのは、今日ぐらい暖かくて日が眩しい日だったって、義父さんも義母さんも良く言っていたっけ」


 だからなのかな。シムリは自分の手の中にある紫色の花を見つめた。ちぎってきたこの花は、エルフの集落にも見られるもの。これなら、持ち帰っても怪しまれる事はない。マリがここに来ているのを、集落の人間は知らないだろうから。

 神からの贈り物は、きっと彼女の為に。


「僕からはこんな出来損ないのプレゼントしか上げられないけれど……マリ、誕生日おめでとう」

「……ありがとう。でも良いわ、要らない。そんな花、集落に戻ればいくらでもあるもの」


 マリが受け取りを拒絶する。シムリはああ、そうだろうな、と自嘲した。

 二ヶ月に一度しか見ないが、マリは見る度に見違える程成長していた。美しく、そして逞しく。マリはあらゆる素質に恵まれていた。鋭い視覚と聴覚を持っていて、器用な指先を持っていて、しなやかな筋肉を持っている。魔術の才能にも恵まれた。獲物と外敵の気配には誰よりも早く気がつく。彼女の弓は百発百中で、その健脚に追いつける者はない。傷の手当さえも、彼女の魔術の腕前があればほんの数秒で済んでしまう。

 若干18歳にして、狩猟隊の隊長と警邏部隊の副長を兼任している女傑にして、それぞれの隊の紅一点。

 その鍛錬の厳しさと彼女自身の能力の苛烈さから、年上の隊員達からすら恐れられている程の存在だと言う。誇らしくもあり、疎ましい妹でもあった。幼い頃から歴然とした才能の差を見せつけられ続けているのだから。


 シムリの無骨で太い指は、エルフの細い弓の弦を上手く摘めない。エルフ一族が代々得意とする魔術さえも才能がない。視力と聴力も劣るシムリは、他の者が動き出してからようやく走り出す。だが、獲物に向かっているのか、外敵に向かっているのかも彼には分かっていなかった。

 逆に洞窟のような暗い場所ではシムリの目はよく見えた。夜になれば他の誰よりも遠くが見えた。それがいっそう、仲間から不気味に思われた。

 エルフとは到底思えない、と友人連中にそしられた。

 それでもマリだけはシムリを見捨てなかった。だからシムリは兄らしく振る舞う事を怠らなかった。彼女が家族を大事にするように、彼も家族を想っていた。


「勘違いしないで、シムリ。私は『貴方が集落に帰ったらその花を沢山ちょうだい』と、そう言っているの」


 マリの挑みかかるような挑発的な表情を見て、シムリは凍り付いた。

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