いつか、清き者と呼ばれるまで
ずび
第1章 毒沼のエルフ(1-15)
1. 満月の晩には
その日、夜空には不思議な程に蒼い空色の月が浮かんでいた。
降り注ぐ蒼い光が森を、大地を染め上げる。宵闇に包まれるよりも不気味な月夜だった。
「お願い、この子を預かってほしいの」
「なんだって?」
その大陸北部に広がる大森林は、森とともに生きる民、『エルフ』の住まう森として知られている。尖った耳と細面。透き通るような白い肌と宝石のように美しい瞳。白魚のような指が引く弓は静かに獲物と外敵を狩る。
エルフは変化を嫌う。魔術の発展による技術の進展から隔絶された、狩猟と農耕による森の生活を享受する事こそを喜びとする。
エルフはよそ者を嫌う。美しい民と知られて以来、文明社会はエルフを見世物として欲するようになったからだ。
だが、例外はある。
エルフにも好奇心はある。外界への興味を募らせて集落で燻る者は決して少なくないだろう。そこから実際に森を抜け出す者は、ほんの一握り程度だ。
エルフの青年、カザイーは困惑した。
目の前に居る幼馴染みのエリンは、もう五年も前に集落を飛び出した問題児中の問題児だった。幼少の頃から魔術の実験に興味を持ち、カザイーも良くそれに付き合わされた。効能不明な薬を飲まされたり、新たな攻撃魔術の的にされたり、あまり良い思い出とは言い難かったが。
それでもカザイーはエリンの事を友として慕っていた。
薄曇りに差す、つかの間の晴れ間のような彼女の笑顔に憧れがあった。そしてそんな彼女が、いつまでも閉塞感の漂う集落に居る筈もない。
エリンは、集落の誰にも告げる事なく、ひっそりと出て行った。カザイーは寂しさに涙をこぼしたが、それを全く驚くことはなかった。
恐らく二度と会う事はないだろう。そんな思い出の君であった女性が、こんな夜分に、何の前触れもなく。音沙汰も手紙も寄越さなかった癖に。エリンはカザイーの記憶に違わず、美しい女性のままであった。強いて言えば髪が短くなって、眉間の皺が深くなった程度だろう。
「挨拶もなしに、しかもこんな夜中に、随分な来訪じゃないか。僕やシルキーがどれ程心配したと思っている」
「あ、そう言えばアンタら結婚したんだね。おめでとう。子供は?」
「来月の予定だ。どこで聞いてきたんだ?」
「ちょうど良かった。この子をお願い」
胸に抱いた赤ん坊を指すエリン。カザイーは耳を今一度疑った。この子を預かれ? 誰に?
「これから家族が増えるって時に、何だっていきなり」
「一人も二人も一緒でしょ? 時間がないの。ここは安全な場所で、貴方は信頼出来る。だから、ここしかない」
「一緒っておい……この子は君の子かい? 全く事情が読めないぞ」
「いつか私がまたここに帰ってきた時に全部説明する。手間賃が必要なら私の家の家財を売っても構わない。だから今、早く、お願い」
「いつかって君、それ一体いつに……!」
慌てふためくカザイーの腕に、強引に赤ん坊を押し付けるエリン。
カザイーが手を伸ばすのをまるで避けるように、エリンは宙に舞った。風の魔術の扱いは、幼い頃から随一だった事を思い出す。文句の一つも出なかった。カザイーは、エリンの濡れた瞳から涙がこぼれ落ちるのを初めて見た。
誰にどんな誹りを受けようとも、笑って躱してきた器用な彼女が。
「その子は一人で生きていく力を持っている。例え荒野に放られようとも、例え深海に沈められようとも。愛を知らずとも死ぬ事はない。それでももし、貴方がこの子を愛してくれたなら、それは望外の喜びよ」
震える声でそれだけ言い残し、エリンの姿は月に重なってみるみる小さくなり、やがて消えていった。
残されたカザイーは腕の中にいる赤ん坊を見る。
赤ん坊らしくまるまるとして、穏やかな寝息を立てていた。そして……エリンとは似ても似つかぬ、エルフにしては浅黒い肌の色を見て、カザイーは一抹の不安を覚えた。
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