選択と決着
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この日は太陽が昇る前に目が覚めた。
(どうせ暗いうちは何もできやしないのだから、もう少し眠っていよう)
そう思って再び瞼を閉じてはみたのだが、目玉の上がごろごろと気持ち悪いばかりでどうにも寝つけそうにない。
おそらく空腹のせいだろう。こうなれば仕方があるまい。サムはひとまず、座って焚き火を眺めることにした。
昨夜は最低だった。焚き火のおかげで寒さに凍えることはなかったし、見るからに頑丈そうな岩の屋根があるからか、一定の安心感というものは間違いなくあった。口が裂けても最悪だとは言えない状況だ。
とはいえ、最低だったという感想にも嘘はない。つまりは気分的な問題なのである。
惨めさというのか、打ちのめされた気分だというのか、ともあれそうした負の感情なるものに、昨夜のサムは苛まれていた。悪夢だけはどうにか見ずに済んだものの、実際にうなされたのとほとんど変わらないくらいの憂鬱というものを、彼は今朝の空気に嗅ぎ取った。
しかし反面、「いつまでも打ちひしがれてなどいるものか」という意地もまた、このときサムの胸中には存在していた。今日は大事な一日になる、と本能的に感じ取っていたからだ。
否定的な感情に流されて、身体や頭の動きまで鈍らせてしまうわけにはいかない。どれほどの不調に頭を悩ませていようとも、時が止まることなどないのだから。
一つありがたいのは、こうした気分的な問題の打開策については、もはや言うまでもなく熟知しているということだった。サムはだんだんと青みを増していく東の空を数分間、眺め続けたのち、ようやく重たい腰を上げた。
準備体操を終えると視野が広がり、然るのち朝の水浴びを済ませたころには、眩い太陽の光をはっきりと実感するようになった。虫たちの声が勢いを失くすのに反比例して、鳥の鳴き声がいっそうに騒がしさを増してくる。
いよいよ今日の一日が正式にはじまりを告げた。
何はさておき朝食である。ネガティブを追い払うもっとも確実な方法の一つが、食生活の改善だ。腹が減ると気が短くなるのは自明の理だが、無論のこと悪影響はそれのみに留まらない。要するに、慣れてしまうことが危険なのだ。
人間の脳は通常、ブドウ糖のみをエネルギーとして利用する性質がある。ところが、そのブドウ糖を外から摂取できない状態が長く続いた場合や、加齢による衰えや特定の疾病などを理由にブドウ糖を利用しにくくなったような場合には、脳は異なるエネルギー源を用いて活動をするようになる。
外部からではなく内側から、つまり、身体の中に蓄えられた物質に燃料を求めるのだ。
ここで用いられるのが、ずばり脂肪である。内臓脂肪か皮下脂肪かにかかわらず、それらが肝臓で分解されたのちに生じる物質の一部は、肝臓を除く複数の臓器と筋肉とで利用される優秀なエネルギー源となる。これがいわゆる、「ケトン体」と呼ばれるものだ。
一日に必要な栄養素をまるで補給できていないはずのサムが、今このときもどうにか行き倒れずに済んでいるのも、こうした人体の仕組みがあってこそのことである。
しかしながら、いくら優秀な仕組みであろうと万能ということはない。これは何事においても通じることだが、物事には限界というものがあるからだ。
この代替エネルギーの利用における限界の一端は、分解の速度と消費量との関係に見ることができるだろう。つまり、燃料が生み出されるペースを超えて、それを消費することはできないということだ。
そうすると必然的に、肉体はバランスを取る必要に迫られることになる。筋肉を減らして基礎代謝量を低下させるなど、身体全体で工夫を行うように強いられるのだ。
このときサムが恐れていたのは、そうしたエネルギーバランスの調整というものに、彼自身の感覚が慣れてしまうということだった。
すなわち、「時を経るごとに脳の機能が低下する」というような方向性の変化を、意識のうえで正しく認識できなくなることに、である。
焦りを感じているうちに手を打つべきだ。順序立てて対策を講じられるあいだに、何としてでも片をつけねばなるまい。
そうしたわけで、サムは今朝も朝一番から食料探しに精を出した。
が、残念ながら期待するような結果は得られなかった。川に魚影はなし、丘に恵みはなし、だ。くだんの低山への道行きを遅らせてまで探索を行ったというのに、実に甲斐のない話である。
どうあれ愚痴を言っても仕方がない。それに、いつまでも仮宿のもとでぐずぐずしているわけにもいくまい。時間と体力とは等しく有限だ。どうせ同じ歩き回るのであれば、食物を探すためだけに近辺を練り歩くのではなく、目的地に向かいながら獲物を求めるのがいいだろう。
結局、サムはこの日も大きな不本意を背負って歩きはじめることとなった。
仮のものとはいえ寝床を捨てるということは、それすなわち焚き火を捨てるのと同義である。出立前に温かい食事で英気を養っておきたかったが、どうもそう優雅な朝というわけにはいかないらしい。
(いいじゃないか。らしくなってきたってものさ)
サムは陽光と草木のざわめきとを全身の肌で感じながら、たしかな足取りで川路を進んだ。
(きっと、おれは食うだろうな)
サムはとある疑問に対し、そういう結論を出した。議題は、ジャガーの肉を食べるか否か、というものであった。
どうしてこのタイミングで罪悪感が蘇るのか。
その理由というのは定かでないが、察するに、食肉のために獲物を探し回るというこの行動が、かつて自分が殺めた相手の姿というものをサムに想起させたのだろう。
(いや、『きっと』というのは違うな。今のおれなら、間違いなくあのジャガーを捌いて食っていたに違いない。毛皮も何かに利用しただろうし、牙や骨なんかも、どうにかして活用できないかと考えたことだろう)
自身の身を守るためだったとはいえ、一連のサムの行為を正当化するのは難しい。猟銃の違法な携行、および生物の殺害。これが密猟でなくて何だというのだ。そのほかにも、立ち入り禁止区域への侵入などといった余罪もある。
つけ加えるなら、それらはことごとくサムの自己都合による行動である。もし仮に、正当防衛の可能性を論ずるのであるならば、彼自身が自ら進んで野生動物の縄張りに踏み込んでいったという事実を無視することはできないだろう。
たとえ本人にそのつもりがなかろうと、さきに相手を挑発したのは疑いようもなくサムの側であるのだ。
この点については言い逃れをしようという精神それ自体が間違っている。
以上のような違法行為に対する罪悪感は無論あるとして、このときそれ以上にサムを動揺させていたのは、ほかでもない倫理的な問題というものであった。
ジャガーは準絶滅危惧種に指定されている希少な動物だ。いたずらに殺傷するようなことは絶対に許されない。
しかしいったん、この事について思索をはじめると、ではナマズについてはどうなのだという疑問が自然と湧いてくる。なるほど生存する個体数の面では差はあるだろうが、野生動物の殺害という行為自体に変わりはないはずだ。
仮にこの二件についてサムが精神的な咎めを受けるのなら、それら二つの罪のあいだに、軽重の差を感じるようなことがあってはならないのではないだろうか。
さらに言うなら、そのようにジャガーとレッドテールキャットフィッシュとのあいだに個体数の差を設けないのであれば、その他の生物についても同様に扱うのが、正当な思考というものだろう。甲虫の幼虫についても、五匹のバッタについても同様に、だ。
こうした問題を看過すべきではない。
されど、さすがにそこまで思考の範囲を広げてしまうと、サムとしても手に負えなくなってくる。とてもではないが、今この場で答えが出せるたぐいの問題だとは思えない。むしろ、たとえ一生涯をかけて向き合ったとしても、納得のいく解答を導き出せるかどうかわからないほどの難題である。
現状のように平時とは異なる精神状態にあるなか、半端に考えてわかった気になるのでは、それこそ思い上がりもはなはだしいというものではないか。
当事者として無関心ではいられない。かといって、今現在の状況では正解を模索することすら躊躇われてしまう。何をどうしたところで結論を得ることは叶わない。
であれば、とにかくこの瞬間だけでも、今できることに集中するのが正しい選択だと言えるのではないだろうか。
そこにいたってようやく、サムは周囲の様子をあらためられるようになった。それと同時に、彼のなかで真新しい恐怖が首をもたげはじめた。
(これでは駄目だ、こんなにも……こんなにも注意力が散漫では……)
このとき、彼の右手側には依然として川の流れが見えていた。水流の速度というのは変わらず穏やかな調子であるが、川幅や水深といった規模の面においては、その限りではなかった。
流れの幅は一〇メートルは下らないかというていどにまで増大している。たしかな迫力を備えた雄大さが、それまでの親しみやすさに取って代わったというような感覚である。
しかしながら、川水に手を差し込んだ際の清涼感や、喉の渇きを潤す恵みそれ自体というものは、何一つ変わることなく、うねる水面の内側に存在し続けているようだった。
一方で、対する左手側のほうはというと、こちらには右手側のそれを上回るほどの大きな変化が現れていた。直前までそこにあったはずの樹木の壁面が、手ごろな広さの草原へとすり替わっていたのである。
無論、草原とはいっても、爽やかな春の野原というわけにはいかない。隙間なく地面を覆い尽くした下草は全体的に力強く、極めて密度が高かった。
また、それらの一本一本がすべからく生育旺盛であるらしく、サムの膝から腰の辺りまで伸びている背の高い草が多数を占めていた。
そうした「密度」と「高さ」とが天然の防壁を構成しているがゆえに、その草地の中にただ足を踏み入れようというだけでも、かなりの勇気が必要になりそうな具合であった。何が身を潜めているのかわかったものではないし、悪くすれば、地面に裂け目が隠れている可能性もあるからだ。
そういう意味では、頭の真上で枝葉が折り重なっているかどうかという点を除けば、この草原と密林とのあいだにさほどの違いはないのではなかろうか、とも感じられた。
たしかに気の抜けないロケーションではある。だが、最前にサムが恐怖を覚えたのは、なにもその地形のためというのではなかった。
問題は、そういう風景が左方いっぱいに広がっているということに、今の今まで気がつかなかったことである。
油断するつもりなど毛頭ない。が、現実として彼は気を抜いていた。
彼の記憶にある限りには、彼の左手側ではついさきほどまで、無数の木々が列を成して立っていたはずなのだ。それらが作り出す自然の日除けが、いつの間に真っ青な空の姿へと移り変わったというのだろうか。
探れど探れど求める記憶が見つからない。それもそのはず、サムはこの変化を意識のなかで認識せずに見過ごしてしまっていたのである。これほどまでにも決定的で、かつ明らかな変化をすら、彼はまったく素通りしていたのだ。
現状、サムが頼りにできるものはといえば己自身の知識と技術と、あとは度胸くらいのものである。
にもかかわらず、彼はこの瞬間、唯一の頼みである自分自身、ほかでもないサム・モーティマーに対する信頼感をさえ失うことになってしまった。
せめて同行者の一人でもいたならば、互いの精神状態を見張るなど対策を打つこともできただろう。立ち振る舞いに普段と異なる部分がないか。顔色や足取りに目立つ変化はないか。そういった種々の気づきを逐次、指摘し合うことで、大事にいたる前に心身の異変を察知する。
しかし、そのような助け合いもまた、このときのサムにとっては高望みであった。自分の頭が変になりかけているかどうか、訊ねる相手は自分以外には存在しない。
彼はなかば途方に暮れたような心持ちで、草原のほうへと目をやった。
遥か遠方から熱風が吹きつけ、黄緑色の大地を激しく波立たせる。そこかしこから伝わってくるざわめきの渦が、笑い声となってサムの頭上に降り注いだ。
途端、サムの脳裏に、「こいつらはいったい何を笑っているんだ」という言葉が浮かんできた。続けざま、今度は極めて冷静なままの彼の一面が、彼自身に対してこう告げた。
「あれはただ草木が擦れて鳴っているだけだ」と。もちろん、後者の言うことが正しい。
――今日はやけに息苦しいな。
そう考えた直後には、サムは川べりにへたり込んでいた。
強い目まいがあった。瞼を開けているか閉じているかにかかわらず、脳味噌が好き勝手な方向に転げ回っているかのようだった。
これと似たような症状を、サムは以前にも経験した覚えがあった。高山病である。
平地から高度の高い場所へと移動すると、気圧が低下するのにしたがって大気中の酸素量も減少する。この大気圧と酸素量との低下に身体が適応できない場合、全身の倦怠感や食欲不振、息切れ、睡眠障害などといった症状が現れることになる。これが軽度の高山病だ。
また、よりひどい場合には、脳や肺に深刻なダメージを負う可能性も存在している。いずれにせよ、軽く見るべき病ではない。
ただ、サム自身の記憶を信じるのであれば、直近の二日間で移動してきた経路のなかに、標高を大きく上げるような動きというのは含まれていなかったはずである。そうすると、このときサムを脅かしていた脱力感の正体というのは、気圧の変化に由来するものではなかったのかもしれない。
あるいはより単純な原因、たとえば、栄養不足に起因する不調だという可能性もある。
もはや後回しにするのも限界だ。今は何をさて置いても、食料の確保を最優先とするべきだろう。
目標達成の手法うんぬんも含め、優先順位というもののいかんを語れるのも、一つの前提があってこそのことである。満足に身体を動かすこともままならないようなありさまでは、優先も何もあったものではない。
(とにかく、ひとまず水分だけでも補給せねば……)
と、腰を浮かせたまではよかったものの、そこから先が上手くいかなかった。両脚ともが異常なまでに重く、膝に力が入らない。杖代わりにした銛がしなるほど体重をかけてようやく、サムはその足で立ち上がることができた。
右耳の聞こえ方に違和感があり、視界全体がやけに薄暗い。ひとたび目を閉じてしまえば、そのままうずくまってしまいそうな具合だった。
それでもどうにかたどり着いた川岸で、彼は思った。
(なんて顔を……なんてひどい顔をしているんだ、おれは)
このとき彼の両目は、足もとの水面に反射した像というものをとらえていた。無精ひげは伸び放題。首もとはすっかり痩せ細り、目もとはどす黒く変色している。湿気で額に張りついた前髪が、無分別な線を描いて四方八方へと跳ね回る。
これが屈強な冒険家のする顔か。野望を果たさんとする者の姿か。
そう自らに問うてみると、どうしても込み上げてくるものがあった。食道の奥のほうからと、それに両目の端からもだ。
彼は非常に多くのものを、それこそ正しさをすら犠牲にして今この場所に立っている。広大にして深遠なるアマゾン熱帯雨林の、その懐中に。
そのことを思えば、いつも同じ理由から力が湧いてきた。たとえ多くのことを犠牲にしてでも、それでも成し遂げたいことが、彼のうちにはあったからだ。眩いばかりの情熱の火あかりが、いついかなる時にも弱気を打ち払ってきたのである。
だが、今度ばかりはそれも上手くいかなかった。追いつかれたのだ。
罪悪感に。後悔に。怒りに。悲しみに。
ありとあらゆる負の感情に追いつかれ、捕らわれた。この瞬間、サムが強烈なまでの重苦しさに息を喘がせていたのは、そうした不可視の脅威に組みつかれているがゆえにほかならなかった。
そのとき、サムは不意に悟った。
(この森がおれを殺すんじゃない)
木立は行く手を遮るだけだ。白くきらめく川水も、まだ真の恐ろしさを見せてはいない。むしろ、片や寝床と果実と炎の熱を、片や多様な食料と飲み水をというように、これらの両者は生存のための恵みをもたらしてくれさえした。
無論のこと、この大密林が現実としてサムを脅かした部分もないわけではない。この地に生きる人間と獣たちは、等しくサムに敵意を向けた。横暴な侵略者に対する自己防衛のためにだ。
また、濁流に飲み込まれたことも忘れるべきではない。人体などやすやすと打ち砕いてしまうだろう破滅的な流れに弄ばれながら、それでもなお大した怪我もなく岸まで流れ着いたことは、これ以上ないほどに幸運な出来事であった。
実際のところ、仮に落水時にそのまま命を落としていたとしても、まったく不思議はなかったのだ。これぞまさしく二度とは望めぬ僥倖である。
善かれ悪しかれさまざまなことがあった。いくつもの過程を経て到達した「現在」のなかで、彼は独り思う。
(この森がおれを殺すんじゃない。少なくとも、今回に限っては……。おれを殺すのは、この弱気だ。おれ自身の諦めだ)
浅い川底に両手を突いた格好でサムはうずくまった。
危険な状態だというのは当然理解していた。万が一、近くに飢えたワニの一匹でもいたならば、彼はいともたやすく捕食されていたことだろう。
というのも、脱兎のごとく逃げ出す力も、また勇猛果敢に敵に立ち向かう力も、いずれもこのときの彼には残されていなかったからだ。
――もはや精根尽き果てた。食わば食え。喜んで餌になってやろう。
自棄的な感情が次から次へと沸き起こり、サムの精神を痛めつける。失望が彼の胴体を力づくに折り曲げ、諦念が手足を呪縛する。刻一刻と視界が狭まる。その敗北感は耐えがたいほどに痛烈で、かつ甚大であった。
いよいよ自分の番がやってきたのだ、とサムが腹を括りかけた、まさにその直前。彼の意識に新しい気づきが訪れた。朦朧となった視野の隅に、うごめく影が見えたのだ。
単に目を向けただけでは、その影の正体を掴むことができなかった。今や彼の目に映る風景の一切が、白く霞んでしまっていたからだ。
ゆえに、サムは動きの鈍い頭をぐるりと回し、そのうごめく影が顔の正面に来るようにした。
やがて、ぼんやりとそこに浮かび上がってきたのは、繰り返し口を動かし続ける一匹の魚の姿であった。それほど目立つ風貌ではない。全長のほどは約一五センチメートル。胴体は上下方向に幅広く、やや寸が詰まったような印象である。ちょうどピラニアに近いような体形だ。
ただ、ピラニアのそれとは違って、この魚の体色はいかにも地味なものであった。全面が深い緑の一色のみで構成されているので、水中では殊に見え辛いに違いない。
このとき、サムはじっくりと時間をかけてこの魚を観察した。そうするだけの時間的な余裕があったからだ。というのも、この魚はほとんど死にかけていたのである。
それは横っ腹を水面に突き出した格好で、力なく岸辺を漂っていた。一見したところすでに事切れているようにも見受けられたが、注視してみるとそうでないのがわかった。前述のように、えらと口の辺りとがかろうじて動いていたからだ。
そうして相手の顔の辺りを見つめていたときのことだった。目が合った、という感じがした。魚の目玉がどの方向を向いているのか正確に判ずるのは難しいが、ともかくサムの気持ちのうえでは、彼と魚とは互いの顔を睨み合っているという状態にあった。
(どこまでなんだろう)
とサムは考えた。いったいどこまで、こいつとおれとは同じなのだろう、と。
また同時に、どこまでが違っているのだろうか、とも。
川岸に波が打ち寄せる。勢いの弱い、滑るような感触の揺らぎであった。その柔らかい波に体を押され、くだんの魚は、ほとんど岸に打ち上げられるようなかたちにまで追いやられてしまった。この小さき放浪者の命運も、いよいよここで尽きたらしい。
サムは魚に手を伸ばした。彼も、野生の魚類を素手で捕獲しようなどと本気で考えたわけではなかったのだが、しかし彼の意に反して、魚はいともたやすくサムの手中に収まった。最後の抵抗というのか、身じろぎをするだけの体力すら残されていないようだった。
何よりもまず、頭を潰すことにした。長く苦しめたくなかったのだ。
サムは手の平大の石を拾い上げ、頭上高く掲げたのち、ついで勢いよくそれを振り下ろした。河原に赤いしぶきが飛び散る。ほんのわずかな量、それこそ数滴というような新鮮な血の飛沫。断末魔すら上げられぬ一匹の魚が、最後にこの世に残した色。
相手の体から完全に力が抜けたのを認めると、サムは即座に、側面から魚体に噛りついた。鱗や内臓を取る時間すらもどかしい。寄生虫など気にしていられない。この魚の生物学的な種別がどうのこうのというのも、とにかく今はどうでもいい。こうしてじかに食らいつく以外の選択肢を、彼は思い浮かべることができなかった。
それにしても、人間の歯というもののなんと頼りないことか。ひれに勝てず中骨に勝てず、ただ肉を噛み千切るだけでも苦労が絶えない。
顎の力だけでは魚体から身を切り離すことができないので、肩や腕の筋肉まで使って力づくに引き剥がすような調子だった。
加熱調理された魚肉とは大違いだ。ひとたび大きな肉片を口に入れてしまえば、それを噛み砕いて飲み込むのも一筋縄ではいかなくなる。その肉片が無理なく喉を通り抜けるサイズになるまで、何度も何度も奥歯ですり潰さなくてはならなかった。
その間に口内を占領する風味というのは、癖の強い川魚独特の香りに、河川の青みと、血液の鉄臭さとを足したようなものであった。
その組み合わせをどう感じるかは人それぞれというものだろうが、サムはたとえ己が心中だけのことであろうとも、それを不味いとは評することはしなかった。そうしてしまうのは忍びないと感じていたからだ。
そのまま無心で魚肉を貪るうち、ふと、前方から川水の跳ねる音が聞こえてきた。このときサムがいた場所のすぐ近くで、波と波とがぶつかり合ったのだ。
その音色に気を引かれ、彼は間を置かず音のしたほうへと目を向けた。しかし、付近の水面に目立つ動きは見られなかった。
それもそのはず、物音が聞こえてから視線を向けたのでは手遅れなのである。音の源となった動作というのは、往々にしてその響きとともに過ぎ去ってしまうものであるからだ。
このとき、代わりにそこに見えていたのは、少しだけせり出してはまた引っ込むというのを繰り返す、澄んだ苔色の水鏡のみであった。
その揺らめきの表面に、サムは今一度、己自身の姿を認めた。最前とまったく同じ、弱り切った男の姿をだ。ただ一点だけ、異なっていたのは、その男の両手と口元とに新しい色彩が加わっていたということだ。
それは赤い色であった。言うまでもなく、直前まで例の魚の血管を流れていた液体の色だ。
その血は、決して広い範囲を濡らしているということはなかった。両手といっても指先のみ。口もとといっても口の端のみ。
見た目のうえでの変容はさほど大したものではない。だが、サムが受けた印象という面においては、その限りではなかった。その鮮やかな紅の色は、サムの目を完全に釘づけにしていたのだ。
直前まで一心不乱に食事を続けていたところに、突然に矢を撃ち込まれたような心境だった。続けて、薄い膜に包まれた彼の意識の表層に、懐かしい言葉が這い出してきた。
(いざというときだ、サム・モーティマー。いざというときだ……)
途端、「恐れることはない」と背中を押されたような感覚があった。どちらの方向へ、というのではなく、たとえどちらに進むとしても、だ。恐れることはない。本当にどうしようもなくなったときには、「そうした手段」も存在しているのだから。
サムの顎を雫が伝い落ちる。まだらに赤い水滴が、いくつも連なって緑の川面に落下する。やがて、水中に揺れる薄紅のもやをしばしのあいだ見つめたのち、彼は今度こそ、この日最初の食事に没頭しはじめた。
その食事が済んでのち、いったいどれほどのあいだ移動を続けたのか、サム自身にも正確なところはわからなかった。むしろ、どれくらいの時間をかけ、またどれほどの距離を進んだのか、推し量ることさえ叶わないというようなありさまだった。
ただ間違いないのは、まだ日は沈んではいないということと、このときサムの行く手に、規模の小さな山が立ちはだかっていたということである。
しかし小さいとはいっても、それはあくまでも、天を衝く雄大な山稜と比較してという話である。
したがって、ここから先の道のりが楽なものであるというような見通しは、サムの胸中にはまったくもって存在していなかった。結局のところ、緑の隘路がどこまでも続くばかりである。
しかし矛盾するようではあるが、「この苦行もそう長くは続かないはずだ」という思いもまた、彼の胸の中にはあった。
なぜなら、今ここに見えるこの低山こそが、サムが当面の目的地として定めていた場所にほかならなかったからである。
もし仮に、この山が本来目指すべき終着点、すなわち〈望みの間〉の所在地であるならば当然、満足であるし、仮にここが単なる原野の一端に過ぎなかったとしても、それならそれでも構わない。あとは何一つの思い残しもなく、生還のすべを求むるのみだ。
ところで、これはつい最前の出来事であるが、サムはそのとき、とある機会というものを得ていた。つまり、この山が備える佇まいの全体像――サムから見て裏側になる面を除く――を熟視する機会というものをだ。
周囲に背の高い樹木が少なく、視界を妨げる物がない。そうした開けた場所に出たことを契機にして、彼は例の低山を事細かに観察しはじめた。
口さがない言い方をすれば、実に面白味のない山容であった。鬱蒼たる密林の一片から上り坂がはじまり、そこからなだらかな傾斜が少々続いたのち、ほどなくして頂点に達すると、今度はまた同様の角度で木立の中へと下っていく。やはり、嫌味も面白味もない放物線だ。
ただ、ピラミッドに類する建造物を想起させるという意味においては、なるほどそれらしい空気感を漂わせていないこともなかった。まったくの自然物にしてはいささか傾斜角が均一に過ぎるのではないか、といったところである。
ともあれ、そうした観察の機会から幾ばくかの時を経た今この瞬間。サムはようやく、実際にその低山の斜面まで到達することができた。
まず最初にすべきなのは、ここからどういうふうに調査を進めていくのか、その手順を決めるということだ。
差しあたり山頂まで登ってみようか、と願望半分の思いつきが脳裏に浮かんだが、あまり耳を貸さないほうがいいだろう。何がなんでも山頂へというほどの必然性がない限り、軽々しく登はんに臨むべきではない。せめて、外周の様子を確かめてからでも遅くはないはずだ。
そうしてもしその道中で、手掛かりになりそうな要素をなんら認められなかった場合には、あらためて勾配と重力とに抗う算段を講じればいい。
幸い、山のふもとの辺りをぐるりと一周するだけなら、さほど時間はかからないような感触だった。およそ半時間もあれば一回りできるかというのが、サムの直感的な印象である。
そういうわけで、彼はさほど迷うこともなく、斜面の勾配を横目に見ながら山裾の道を行きはじめた。道といっても、現実にはほとんど藪を突っ切るような状態であるのは言わずもがな。ここまでくると彼自身、抵抗なく身体が入り込む通路などハナから期待しなくなっていた。
(それにしても、上のほうはまたいっそうに緑が深いんだな)
彼は歩き出してからすぐに、そういう感想を抱いた。
山裾のほうには、どうにか立ったまま進めるだけの空間的な余裕があるのだが、そこから視線を上げるにつれ、いよいよもって植物の密度が桁違いのものになってくる。
乱立する巨木が思うままに枝を張り巡らせるなか、その無数の枝の一本一本にすべからくつる草が絡みつき、全体として一つの巨大な屋根を構成している。そうすると、並び立つ高木はその天井を支える柱ということになるのだろうか。
どうあれ、強烈な熱帯地域の陽光をすら完全に遮断するほどの力強さというものが、その集合体のなかにはあった。
(何かの拍子にあんな場所に飛び込んでしまったら、それこそ二度と出られなくなるんじゃなかろうか……もしや、それが狙いなのでは?)
と、遥か頭上のことながらも、サムはそこに見える風景に対し、ある種の危機感を抱かずにはいられなかった。植物たちが密かに結託し、獲物を捕らえるべく罠を張っているのではなかろうか、というような危惧をだ。馬鹿馬鹿しいことこの上ないが、それだけに罪のないアイデアではある。
と同時に、このとき彼の頭の中には、また別の種類の気づきもあった。
(一見した限り、この山はどう見積もっても人工物ではないぞ)
山の外周の三分の一ほどを見終わったか、というころのことだった。細部まで詳しく調べればまた違ってくるのかもしれないが、ともあれこの時点までに限って言うなら、人の手が加わっていると一目で判ぜられるような特徴はただの一つも見あたらなかった。
たとえば、なんらかの加工を施した石材様の物体であるとか、その手の材料が利用されないまま放置された跡であるとか、何かしらの信仰をはじめとした文化的な痕跡、すなわち壁画や彫像や柱だとかいうような物品が、何一つ見つからなかったのである。
もしもこれが偽装なら、まさに完璧な仕上がりだと言えよう。しかしその可能性は低いだろう。やはりというべきか、察するに、ここは手つかずの自然そのものなのではないだろうか。
と、そういう公算が大きいのは認めざるを得ないところだが、だからといって歩みを止めるわけにはいかなかった。
もはや二度とは立てぬかもしれない大地だ。納得のいくまで調べ尽くさなければ、帰り支度などはじめられようはずがない。それゆえサムは、順調にいけば三十分ていどで一回りできるだろう道のりを、たっぷり二時間以上もかけてのろのろと歩み進んだ。
その道行きのさなか、突然に訪れた決定的な発見に対し、サムは「いかなる感情を抱くべきなのか」と戸惑った。
しかしその直後には、彼自身の理性が判断を下すよりさきに、より率直な情動というものが、直接に彼の肉体を突き動かしていた。サムの心臓が早鐘を、それも、祝福の鐘を打ち鳴らしはじめたのだ。
数秒のうちに何度も我が目と我が正気を疑わなくてはならなかったが、ともあれ彼はたしかに見た。完全に自然のままであったはずの山肌に、突如として扉が現れたという、その光景をだ。
「扉が現れた」とはいっても、金属製のノブがついた現代的なドアが唐突に出現したということでは無論ない。最初に目に入ってきたのは、その扉の横っ面とでも呼ぶべき部分であった。
このときサムは、山の斜面を彼自身の左方に置いた状態で前進を続けていた。その斜面と自らの足もととに七対三の割合で注意を払いながら、慎重に歩みを進めていたのだ。
そうして道なき道を行くうちに、彼は自身の前方になんらかの異変というものを感じ取った。詳しく何事かというのはすぐにはわからなかったのだが、何か、おぼろげな違和感のようなものがあったのだ。
そこでいったん立ち止まり、前方の景色を注視してみたところ、ほどなく彼の意識はその異変の正体へとたどり着いた。緑に染まる山肌に沿って、一本の石の円柱が立っていたのだ。立っている、というよりは、なかば埋まっているというほうが正しいような感じだった。
その石柱は、地面に対し垂直に立った状態の山肌に接するかたちで、そこに固定されていた。山肌と接触している側の側面を土の中に埋めたような格好である。
それゆえ、正確にはそれが円柱かどうかは断定できないところなのであるが、まさか石でできた壁が、山に突き刺さるようなかたちで納まっているいるとは考えにくい。よって暫定的に、サムはそれを柱であると認識しておくことにした。
どうあれ調査だ。この発見を喜んだり驚いたりするよりさきに、まずは例の物体が紛れもなく人工物であるという確証を得ておきたかった。この期におよんでぬか喜びはしたくない。ぬか驚きもだ。
そう思って、石柱に正対するような位置にまで移動したとき、そこで彼はさらなる展開と相まみえることとなった。そこにある柱は一本だけではなかったのだ。
さきに見つけた一本と横並びになるように、同様の石柱がもう一本、配置してあった。それぞれ高さは五メートル前後、直径は七、八〇センチといったところである。ちょうど、自動車のタイヤを横倒しにして積み重ねたような太さだ。
それら二本の柱は、それぞれの高さと同じ五メートルていどの間隔を置いて設置されていた。また、石柱同士の上部は緩いアーチ状の梁でつながっている。となると自然、この梁は、石柱同士の距離と同じ長さを備えているということになる。
あわせて、それらの建築物すべてを支える土台の部分というのも、単純に土の地面そのままというのではなかった。一言で言えば石畳である。直方体に切り出した石を敷き詰め、整備してあったのだ。
素材の均一性をはじめ出来栄えのほどはそれなりといったふうではあるが、ともあれしっかりと機能はしている。その台上に立つ建造物が無事健在であるのなら、多少のいびつさなど然したる問題ではないはずだ。
以上のような状態で、その左右を二本一対の石柱に、またその天地を梁と石畳とに囲まれた枠の内側に、くだんの扉はあった。一目見ただけでそれを扉だと理解することができたのは、その壁面の中心を縦に走る一本の裂け目と、その裂け目の左右に等しく配置された取っ手らしき部品のためだった。
扉はその他の部分と同様、石を素材として作られた物らしかった。
だが、その石材の詳細な種別というのは、サムのもつ知識では判別することができなかった。それゆえ、どういった手法を用いて施したものかは定かでないが、その扉の前面は巨大な彫刻によって彩られていた。質素ながらも力強い明確な彫りである。
その彫刻は門全体の中央部に位置していた。人なのか獣なのか、あるいは獣の顔をした人間か、人間という種類の獣か。
どうあれ、そこに見えるのは歯を剥き出しにした生き物の相貌というものであった。かっと見開かれた目と曲がりくねった鋭い牙とが、それと相対する者のすべてを威嚇し、脅しつけるかのようでもあった。極めて攻撃的で、かつ感情的なエネルギーに満ち満ちた風体である。
ただ、それにしては突き放す感じというか、不安を煽る空気感というようなものは不思議と漂わせてはいなかった。
というのも、これはこの彫刻に限った話ではないが、それらの石材の表面を広く覆ったアクセントが、全体にほどよい温かみを加えていたからだ。つまり、経年による変化がある種の「丸み」を演出しているのである。
絡みつく蔦や雑草などが生み出す曲線であったり、風雨のために生じた表面の欠損であったりというものが、文字どおり石材の角を取り、この門の姿かたちにしなやかさを与えている。
人の手によってこの森に作り出された石門が、数百から数千年におよぶであろう長い年月を経たすえに、ついに森の一部となって定着した――。
そうした想像を自然に掻き立てられる趣だ。
サムは、彼自身のほうを睨みつける石の両眼を前に、少しのあいだ呆然と立ち尽くした。そうしているだけでも額や首もとに汗が滲んでくる。周囲を樹木に囲まれているおかげで直射日光に晒されることはなかったが、それでも充分以上に蒸し暑かった。
この高温多湿の気候というのは、彼がここアマゾンの熱帯雨林に足を踏み入れて以降、変わらずに頭を悩ませ続けてきた問題である。同じく、毎日毎日ひと時も休むことなく鼓膜を揺らす鳥獣の声というのも、時と場合によっては実にわずらわしく感じられるものであった。
頭痛さえ感じるほどの熱気と騒音。半永久的に継続する無限の責め苦を、されどこのときのサムは忘失していた。はっきり言ってそれどころではなかったからだ。
今すぐ飛び上がって踊りだしたいという欲求がある反面、これは本当にたしかなことなのか、と不安に思う気持ちもあった。「自分は今夢でも見ているんじゃないか」だとか、「もしかして映画のセットか何かなのではないか」といった慎重かつ弱気な考えが、彼の脳周辺で渦を巻いていたのだ。言うなれば、混乱状態にも似た様相である。
この騒動を治める方法は一つしかないだろう。すなわち、検証あるのみだ。
サムは震える膝を無言のうちに叱りつけると、くだんの門の手前まで一直線に近づいていった。
途中、例の石畳の上に立ったとき、彼は自らの足下に見える眺めに対し、感動の念を抱いた。その石材の並びには幾分か不揃いな感があるものの、しかしそこには、人の目的意識というものの名残りが間違いなく存在していたのだ。
精密性という意味での完成度は別として、この雑然たる大地の上に人間流の秩序をもたらさんとする行為、ひいてはそうした意思の痕跡そのものが、このとき孤独な冒険家を何より強く励ました。
加えて言うなら、ぱっと見てすぐにそれとわかるようなゴミが落ちていなかったということも、非常に喜ばしい事柄であった。
もし仮にこの門が映画撮影のためにこしらえられた物であったならば、必ず、何かしら目につくものが近くに転がっていたことだろう。現代的な資材の一部であるとか、スナックのパッケージであるとか、たばこの吸い殻であるとかいうような物体がだ。
弥が上にも期待が高まる。胸郭どころか、こめかみにまで強い脈動を感じるほどにサムは興奮しきっていた。
然るのち、いよいよ実際に門前までいたりつくと、彼は何より先にまず扉に触れた。罠が仕掛けられているという可能性が頭になかったわけではないが、だからといって眺めるばかりではいられない。もとより少々の危険は覚悟のうえである。
ちょうど陰になっている位置であるからか、扉の表面は幾分か冷やりとしていた。しっかりとした硬質感があり、ざらついた石肌の感触が手指に心地よい。
それにしても、こうした両開きの扉を備えていることからすると、もしかするとこの門はそれほど古い建造物ではないのかもしれない。一千年というほどには遡らず、直近の数百年あたりが本命ということになるだろうか。
何にせよ、現状では年代について確実なことは何一つ言えなかった。いざ蓋を開けてみれば数百年どころか五十年も経過していなかったという可能性もあるし、あるいは反対に、これが南米大陸における扉の歴史を刷新するような歴史的発見になるという期待もまた、同時に存在していたのである。
つけ加えるなら、こうした遺物の発見に際し、その対象物が古ければ古いほどいいなどといった考え方をすることが、どれほどまでに浅はかであるかというのは、まさしく言うまでもないことだろう。優先されるべきは常に真実だ。それこそが、学問の正義というものであろう。
無論、功名心や功績それ自体も重要であることには変わりないが、そのために真実を捻じ曲げるというような不正な行為を働くことは、誰であれ絶対に許される行いではない。
たとえ肩透かしな結果に終わったとしても、それならそれで構わないのだ。「そこに肩透かしな結果が存在していた」という真実が明らかになったのなら、それはそれである種の勝利だと言えるのである。
さておき、調査は続けなければならない。最初に確かめるべきなのは、ともあれこの扉は本当に扉で間違いないのか、ということである。溝と取っ手――らしき物――がついただけの単なる壁画だということも、まったくないとは言い切れないのだ。
この謎を解く方法は一つしかない。ゆえに、サムはすぐにその方法を実践してみることにした。横並びになった二つの取っ手を左右それぞれの手で掴み、動かすことはできないかと試してみたのだ。
すると驚くべきことに、岩戸は鈍い地響きを立てながら、やがて完全に開かれた。
戸の向こう側に控えていた薄暗い洞窟内に、外界の光が光芒となって差し込む。と同時に、洞内に向かって強く吹き込んだ突風が、もうもうと土ぼこりを舞い上げた。
灰色に濁った冷たい空気。そうした冷気を自らの首筋に感じ取った瞬間、サムは肌が粟立つような寒気を覚えた。
これは側面から見てはじめてわかったことだが、例の扉の厚みはおよそ三〇センチメートルかというところであった。
これまでに判明していた事実と考え合わせると、その扉一枚あたりの大きさは、縦の長さ五メートル、横が二・五メートル、厚さ三〇センチということになる。ざっと計算して、その重量は大体八トン弱くらいかといった具合である。
それだけの重量を誇る岩石の塊を、今の弱り切った状態のサムが自力で動かしてみせたという事実は、実際、驚愕すべきことである。何かしらの補助的な機構が働いているのは間違いない。扉の外部にはそれらしい物が見あたらなかったので、おそらくは洞の内部に仕掛けが存在しているのだろう。でなければ地下か、ひるがえって頭の上かだ。
どうあれ、これ以上調査を続けるつもりなら洞内を行くよりほかにない。延々と岩戸ばかりに注目していても仕方がないし、かといって、ここまで来ておいて引き返すという選択を取るつもりは、このときのサムにはまったくもってなかった。今は何より前進あるのみだ。
とはいうものの躊躇いがなかったと言うと嘘になる。眼前に望む洞窟は見るからに不気味であるし、まともな光源がないため極めて視界が悪かった。手製の銛一本のみを頼りに進む道として、これほど不適当な場所もそうはあるまい。
よってサムは、これまでにないほど慎重に慎重を期した足運びで、一歩一歩と時間をかけて暗闇の中を進んでいった。
背後から差し込む日光を頼りにしつつ、漂う湿気をかき分ける。
そうしてしばらく歩を進めるうちに、サムは自身の足裏にとある変調を感じ取った。靴底の向こうに感じる地面の感覚が、ある地点を境に大きく変化したのだ。つまり石畳が終わったのである。
以降はまた、外界の大部分と同じく土の地面が続いているようだった。
地面もそうだが、洞内の壁面部分にしてみても、大掛かりな補強は施されていないらしかった。
暗さのせいで気づけないだけかもしれないが、ともあれ手探りで壁を伝ってみる限りには、苔むした岩のような柔らかく、かつ硬い感触が多いようにも感じられた。それも、不規則な凹凸を繰り返すかたちで、である。らしさという意味でいうなら、これ以上なく天然らしい風情であった。
このときサムの胸中には、大きな不安と興奮とが半々の割合で並立していた。それはあたかも、この巨大な二つの勢力が、一揃いの肺を左右それぞれに分断し、各々で占領するかのごとき様相であった。
のみならず、そこには第三者的とも称すべき感情もまた混在していた。こちらはたとえるなら心臓に値する位置にである。今その位置を占めている感情をもっとも素直な言葉で表すなら、それは平穏という一語になる。
――何をどう考えても矛盾している。
暗たんと熱狂とに両肺を占拠されているようなこの状況にあって、なぜゆえに、この心臓に微かであれ安らぎが息づいているのだろうか?
その問いかけに対する回答を、サムは彼自身の耳から受け取った。より正確には、彼は「聞こえない」という事実から察したのだ。
つまり、この洞内を隅から隅まで支配した静寂なるものに対し、彼は心癒されるものを感じていたのである。
鳥であれ獣であれ虫であれ、この通路に騒がしい鳴き声を発する生物はいない。このときわずかな粘度をもった空気を震わせていたのは、孤独な冒険者の足音と、彼の押し殺した呼吸というもののみであった。
とはいえ、当然ながら彼も、音もなく周囲を這い回る者たちの気配を皮膚感覚で認識しないわけではなかった。
それらの大部分はムカデや蜘蛛などの節足動物を正体とするものなのだろうが、なかには蛇であるとか、あるいは蝙蝠といった手合いも含まれているだろうことは想像に難くない。いずれにしろ、大なり小なりの危険性をはらむ相手である。
ところがサムは最前から、本人としても不思議なほどに冷静な心持ちで、この暗い横坑をたどっていた。
それは地雷原にも似た道のりだった。仮に一歩でも踏み込む位置を誤れば、たったそれだけで命を落とす危険性もあるのだ。
無論、実際に地雷原の中を行くのとまったく同じというわけではない。なんといっても、地雷には意思がないのだ。
そうした兵器というものは誤作動の場合を除き、適切に機能するよう、常に何者かの手によって調整を施されることではじめて効力を発揮する物である。
この点こそが、危険生物と兵器との決定的な差異の一つであるという主張は、おそらく多くの場合、認められうることであろう。兵器は道具だ。危険生物とは、そうした道具をその身に備え、かつ意のままに操る生き物のことである。
そういう内容を考えるでもなく考えていたとき、どういうわけか、いかにも大都会然とした巨大な交差点の情景が自ずからサムの脳裏に浮かび上がってきた。
太陽光か、あるいは街灯のもたらす光明の下、一度に数十を超える数の人間たちが、あるいは徒歩で、あるいは自動車でと、思い思いの方法でそれぞれの進路へと向かって発進せんとするさまが。分け隔てなく集められたありとあらゆる意思のその一つ一つの個体が、束の間に一ところに押し込められ、しかしながら決して合一することもないままに再び離散したかと思うと、また次なる個体群が十字路に流れ込むという、その循環それ自体で一個体たるべき光景が、である。
なにゆえにそうした光景が思い浮かんできたのか、その理由というのはわからなかった。当事者であるサム本人ですら戸惑いを覚えるような出来事だ。
試しにいくつかの案を検討してみるも、まさしくこれだと本心から納得できる理屈には、とうとうたどり着くことができなかった。というのも、そうなるより前に、彼はよりいっそうに心騒ぐ事象と相まみえることになったからだ。
彼はこのとき、新たな光を目にした。それも、想像ではなく現実の世界の中で、だ。
いよいよ後方から――出入口側から差し込む自然光も乏しくなり、これ以上は松明でもなければとても行けないぞ、と焦りが募りはじめたころだった。
それまで、空間の奥行きを認識する機能が不具合を起こしそうなほどの暗闇で満たされていた洞の奥が、にわかに明るくなってきた。通路が緩やかにカーブしているのだろう、いくらか先に進んだことで、前方の見通しがきくようになったのだ。
このことが意味するのは、すなわち、彼の進行方向に光源が存在しているということである。
(さあサム、いつまでも些事にかかずらうのはよそうじゃないか)
彼は、弱った甲虫がそうするのとそっくり同じ調子で、ただ誘われるがまま、その光を目指し進んでいった。
その先でサムを待ち構えていたのは、中央に焚き火が置かれた部屋というものであった。室内の高さ、幅、奥行きのすべてが同じ長さで統一されているらしい、非常に均整の取れた印象の一室だ。何より、目視で状況を確認できるのが気に入った。
ざっと見た限り、二つたしかなことがあった。そのうちの一つは、この部屋はあるていど換気がなされているということだ。これは煌々と燃ゆる炎の存在から判断されることである。
室内で盛大に炎が上がっているわりには、頭痛も吐き気も感じない。察するに、一定量の酸素が継続的に供給されているため、不完全燃焼に伴う一酸化炭素の発生が防がれているのだ。
また、もう一方のたしかなことというのは、それすなわちこの場所で火を焚いた人間が存在しているということだ。
このときサムの眼前にあった火は、直接に地面に置かれたものではなかった。それは石を組んで作った焚き火台の上に納められていた。こうした焚き火台を用いることの利点というのは、地面の上で直接火を焚いた状態、いわゆる直火の状態に比べ火勢が安定しやすいということのほかに、周囲環境の保全に役立つという点も挙げられる。
ただ、焚き火というものはその火力が増せば増すほど、経過時間に対する燃料消費量も増えるのが常である。
この焚き火台の中にどれだけの燃料を設置しておけるのかはわからないが、さすがにそう長い期間、たとえば何日も放置できるようなものではないはずだ。なにせ明々と火が燃え上がっているのである。灰の中で火種を保存するのとはわけが違う。
思うに、ここ一日のあいだに何者かがこの部屋を訪れ、火の手入れをしたのは間違いない。
しかしその〝何者か〟の正体が掴めない以上、サムとしてはこの現状をどう受け止めたものかと戸惑うばかりである。「ともあれ人間が近くにいるぞ」と喜ぶべきなのか、「ともあれ人間が近くにいるぞ」と恐れるべきなのか。
そうした薄霧のごとき当惑はしかし、ほどなく千々に砕け散った。まるで突然の辻風に襲われでもしたかのように。
その変化の原因というのは、このときサムが聞き取ったとある問いかけにあった。「問いかけのなかに」ではなく、「問いを発する」という行為そのものが、サムにとっては思いがけぬ突風となったのだ。
「おまえの望みを言え、悪しき来訪者」
はじめ、サムはその言葉の意図をはかりかねた。他人の発する言葉を、もといサム自身にも理解できる言語にのっとった他人の言葉を、もう十日間近くも耳にしていなかったからだ。
くだんの声はこの部屋の突きあたり、揺らぐ火炎の向こう側から聞こえてくるらしかった。
注視してみると、サムが直前に通ってきた洞窟とこの部屋とをつなぐ出入口から見て、その対面にあたる壁の下方部分に、扉が設置されていることに気がついた。最前に見かけた獣面の石門を、造形をそのままに二回りほど小さくしたような格好である。
そのとき、またしても扉の奥から何者かの声が響いてきた。
「わたしの言葉がわからないか? わたしは、おまえはいったい何を求めているのか、と訊ねているのだ」
遠方の地鳴りか瀑布の音か。とにかくそういう音色である。低く、抑揚がなく、聞いていると不安感が煽られる。否応なく警戒を強いてくるような声色だった。
恐怖心がなかったと言えば嘘になる。ゆえにサムは、その怖気が唇や舌先から滲み出てこないようにと、一度強く奥歯を噛みしめた。
そうしてから彼は言った。
「おれの名はモーティマー、サム・モーティマーだ。この辺りの土地にあるという、『望みの間』を探してここにやってきた。それ以上、詳しい話をしたいのであれば、その前におまえの素性を明かしてもらおう」交渉ごとは最初の一手が肝心だ。のっけからあまり下手に出ないほうがいい。
強気な姿勢を見せるサムに対し、扉の向こうにいる人物はこう言葉を返した。
「よろしい。ならばわたしは、わたしこそがその『望みの間』の番人であると、そう答えよう。するとおまえは、おまえが目指したというその場所に見事、到達したということになる。ところで、これは果たして、おまえにとって満足のいく回答であるだろうか?」
「それは…………それはなんというか、なんだか腑に落ちない。そもそもどういうたぐいの質問なのかもよくわからん」
「わたしの話すことが真実だと、わたしが正直者だと、そう証明しうるものというのはここにはない。わたしが今、わたしをどこの誰だとするにせよ、おまえは完全には納得できないし、満足もしない。おわかりか?」
「要するに、素直に話すつもりはないって言いたいんだろう」
「どうだろうか……たしかに、わたしがするつもりであること、しないつもりであることという意味なら、そうだ。おまえの言うことは正しい。ただしそれは、『今のところは』といったところだ」
また随分と回りくどい喋り方をする奴だ、とサムは思った。単語の扱い方に妙な癖がある。会話がしづらい。
「じゃあその、『今のところは』っていうのは、後にならないとまともな話をするつもりはないぞと、そういう宣言だと受け取っていいんだな?」
「『わたしがどこの誰であるか』という内容が、おまえの言う『まともな話』の内容であるなら、よろしい。わたしは今その話をするつもりはない。だが、わたしがどこの誰であるかなど今は重要でないことをおまえが理解してくれれば、わたしはうれしい。そうすると、また別の『まともな話』ができる。わたしとおまえのあいだでなされるべき会話がなされる」
「……つまり……どういう……?」
「わたしはこう思う。まずはおまえの望みについて話をしたい。そうしたうえで、もし本当にその必要があるようなら、わたしはわたしについて話をしよう。とにかくおまえしだいだ。おまえの望みしだいで、わたしの話すことが決まる。わたしとおまえが話すべきことが決まる。だから、まずはおまえの望みについて話をしたい」
「ああ、なるほど…………わかった。じゃあとにかく、少しだけ時間をもらえないか。頭のなかを整理させて欲しいんだ」
「よろしい、じゃあとにかく、待とう」
そうしてひとまず同意を得たうえで、サムはいろいろなことについて考えを巡らせはじめた。
するとその直後には、無数の疑問が雨あられのごとくに彼の頭に降ってわいてきた。
――奴は本当に〈望みの間〉の番人なのか。ここは本当に〈望みの間〉であるのか。仮にそれらが真実であったとして、おれはいったい何をどうするべきなのか。
またあるいは、もしそれらが嘘であるならば、なぜ奴はそんな嘘を吐いたのか。おれをからかって面白がっているのか。しかし、あの変わった喋り方というのはさておくとして、奴の声に面白がるような調子はない。相手はいたって真剣だ。真剣に、おれの要求についての話し合いを望んでいる。
ということはやはり、奴は真に〈望みの間〉の番人なのか。どうあれ真偽のほどを確かめるすべはない。
だいたい、可能か不可能かという点に重きを置くのであれば、今のおれにどれほどの選択肢が残されているというだろうのか。
つまるところ、彼は自分で思っていたほどには自由ではなかった。
この場所が本当は何であるのかにかかわらず、相手のテリトリーであることには違いない。同様に、たとえ相手の思惑がどういうものであろうとも、それに抵抗するだけの体力も、また道具というのも、このときのサムは持ち合わせてはいなかったのだ。
やはり、ここは素直に答えるしかない。この〈望みの間〉の番人なる男の質問に。
「…………たとえば、という話ではあるが」
と、切り出したのはサムのほうであった。
「たとえばおれが、『今すぐおれをおれの家まで連れ帰ってくれ』と言ったとしたら、どうする?」
「うむ、そうだな……わたしは、『それはできない』と答えただろうな」
「なぜだ?」
「おまえの家を知らないからだ。わたしの知らない場所におまえを導いてやることは、わたしにはできない。ただ、そのための手助けをすることならできると思う。そう……たとえば、わたしが知っている近くの集落まで、おまえを連れて行ってやること。そういうことならできる。わたしが知っている人間たち――これはおまえと同じ世界の人間たちという意味だが、その者たちに、おまえを託すことならできると思う。そうすれば、おまえはいずれ、おまえ自身で家に帰る方法を見つけることができるだろう」
つまりこの番人なる男が言わんとしているのは、「現代的な文明社会のもとへと導いてやる」ということであるらしい。少なくとも、サムは男の言葉をそう理解した。なるほどこれは魅力的な提案ではないか。
サムは血の滴る肉を前にしたジャッカルさながらに、嬉々としてこの提案に食いついた。
「だったら――」
「ただし! ただし、だ」
そのとき、男はそれまでにない強い調子でサムの言葉を遮った。
「思い違いをして欲しくないことがある。わたしは、おまえが『おまえたちの世界』に帰って行くのを、喜んで手伝うわけではない。それがいいことだと思うわけでもない」
「どういうことだ?」
「わたしはおまえを歓迎していないし、おまえと同じ世界の人間たちが、むやみにここにやって来ることはまったく望んでいない。だからわたしは、本当はおまえを生きて返すのは好ましくないと考えている。おまえの望みが本当にそれであるのなら、できることなら、わたしは今ここでおまえを殺してしまいたい。それは時として、本当に必要なことだ」
「じゃあ、もしも……」
どこまでだろうか。この男が口にしたことはどこまで本気で、どこまで実行するつもりがあるのだろうか。
「もしも、おれがほかの連中を連れて戻ってくる算段をしているのなら、そうなる前にいっそのこと、おれをこの場で始末してやる。と、おまえはそう言いたいんだな?」
「そうだ。それに、おまえは多分、そうするつもりであったはずだ。この場所のことをほかの誰かに伝えるつもりであった。違うか?」
「いやしかし、それは……」
口の中がからからに乾いている。そのせいか、舌が上手く回らなかった。
言い淀むサムの様子に何を感じたのか、ともあれ番人の男は意外なほど冷静に、かつ粛々と語りはじめた。
「わたしと、わたしが暮らす集落の者たち。これらを『わたしたち』とした場合、わたしたちには、わたしたちなりの世界というものがある。わたしたちなりの大地があり、空があり、風や水の流れがある。そしてわたしたちには、その世界で生きるための知恵がある。わたしたちは無力ではない。世界と戦う力がある。戦ってなお生き残る力がある……そう、わたしたちは強き者、知恵もつ者だ」
そこでいったん間を置いてから、男はまたゆっくりと言葉を続けた。
「ただおまえたちは――これはおまえ自身や、おまえと同じ世界に生きる人間たちという意味だが――あまりに強い。あまりにも……強力すぎるのだ。わたしたちは大地に『負けないこと』ができる。しかしおまえたちは、大地を『打ち倒すこと』ができる。つまり、できてしまう。木々を倒し、山を崩し、川を埋める。この大地を人間にとって好ましいものに変える。おまえたちは、あっという間に世界の形を変えられる。それは本当に途方もない力だ。
それゆえ多分、おまえたちがその気になれば、大地を『殺すこと』もできるのだろう。この世界のはじまりからずっとそこにあって、常にこの世界そのものであった、この大地を……ああ、当然のこと、おまえたちがそれをしないつもりであることは、わたしも知っている。できるが、しない。おまえたちのなかには、この大地を守りたいという意思が強く、強くあるからだ。それに、おまえたちが愚かだということは絶対にないから……ああ、なんという言葉だったか……するべきことと、するべきでないことを理解して、そのうえで行動すること、ううん……」
「…………ああ、分別がある、とかなんとか」
「おお、それだ。多分それだ。おまえたちにはそれがある。絶対に愚かではないし、完全に邪悪でもないから、無茶苦茶なことはしない。いたずらに大地を殺すようなことなどは。だが……」
「だが、何だ?」
「だがもし、本当にそうする必要があるときには、おまえたちは何もかもを変えてしまう。わたしたちの世界をおまえたちの世界に変えてしまう。大地と、空と、流れと、わたしたちとを、おまえたちの一部にしてしまう。そしてどういうわけかこの点については、分別があるはずのおまえたちは、ほとんどまったく容赦がない。『自分たちの考え方こそが正しいのだ』と信じて疑わず、そうしたことを行う。おまえたちの一部でないものに対し、有無を言わさず変化を――」
「それはおれたちが知っているからだ。おれたちが正しい……いや違う、なんというか、そう……正確、であるということをだ。たとえば、おれたちは世界というものが唯一無二の存在であることを知っている。世界なんてものは二つも三つもありはしないんだ。同じく、それを動かす理屈っていうのも、やはり突き詰めれば一つだ。
つまりおれたちは、その世界を動かす理屈っていうものと真正面から向き合って、正しく理解しようと努めてきたからこそ、おまえの言うような『強力』な存在になることができたんだ。そういう努力の結果に基づいた行動をそんなふうに悪しざまに言われたんじゃあ、こっちだっていい気はしないぞ」
サムは反射的に言い返した。興奮からか、あるいは体力の消耗からか、彼の息は弾んでいた。その声はたしかな熱を帯びていた。
言葉を遮られたかたちになった番人の男は、しかし特に気分を害したふうでもなかった。
むしろ、その声の調子や話の内容から察するぶんには、彼はどうやら、最善のサムの言葉を好意的に受け取ったようでもあった。
「うむ。たしかに、おまえの言うとおりかもしれない。すまない、サム・モーティマーよ。わたしは少し感情的になっていたらしい。だが、どうかわかってくれ。わたしたちにもいろいろあったのだ。ただ、これはまあ、今話すことではない、とわたしは思う。
とにかくいったん話を戻させて欲しい。そうだな……そうだ、おまえたちは本当に強大だ。おまえたちは、今のわたしたちには到底、計り知れないほどの大きな力を、意のままに操ることができる。それができるのは、今おまえ自身が言ったように、その大きな力を操る『道理』というものを知っているがゆえのことだろう。あるいは、たとえそうした道理を知らぬ者であっても、その力を操ることができるようにする何かしらのすべというものを、おまえたちがもっているからだ。
わかりやすくたとえるなら、たとえ弓の作り方や、弦の張り方などを知らない者であっても、狙いどおりに矢を放つすべさえ心得ていれば、ともあれ獲物を仕留めることはできる。また一方で、なぜ火が点くのかという理屈を知らぬ者であっても、そうするための道具の扱い方さえ心得ていれば、ともあれ火を起こすことはできる。そういうことではないかと、わたしは考えているのだ。だから……あ、いや、そうだな……」
男はそこで不意に口をつぐむと、そのまますっかり押し黙ってしまった。「どうかしたのか」と問うサムの声にも、まるで反応を示さなかった。
「しからばこのあいだに」とサムは扉に近づき、その向こう側の気配を探るべく耳をそばだてるなどしたものの、しかしながら得たものはなかった。ともすると孤独感すら覚えるほどに、サムの周囲は静まり返っていた。
ゆえに、例の番人の男がまた唐突に対話を再開させたとき、サムは驚きのあまりのけぞってしまった。足がもつれ、あわや尻もちをつくかという具合だった。
「ああ、すまない、驚かせてしまったか」
男は何の気なしに言った。この一言ではっきりしたことだが、この男は間違いなく「来訪者」の様子を盗み見ている。どうやら、あまり妙なことはしないほうがいいらしい。気を許すことも、だ。
そういうサムの思案を知ってか知らずか、番人の男はさらに続ける。
「どうも、わたしは少し喋り過ぎたようだ。許してくれ。実のところ、おまえのような外の世界の人間が自力でここまでやって来るというのは、この百年間で一度もなかったことなんだ。ならば、わたしが興奮するのも無理はないだろう? これは本当に珍しい出来事なんだ。この、会話は」
「ううん、それはわかったが、しかし喋り過ぎたというのはどういう意味だ」
「まとまりのない話をしてしまった、と言いたいのだ。わたしはもっと要領を得た話をするべきだろう。それが、おまえのためにも、わたしのためもなる」
「なるほど。じゃあ、その要領というのはずばり何だ?」
「放っておいてほしいのだ、わたしたちは。つまり、わたしたちは強い。この場所で生き続けていくための力をもっている。だが、おまえたちはそれ以上に強い。強く、そして正しい。おまえたちは時に、わたしたちをおまえたちの一部に変えてしまう。おまえたちの世界の一部にしてしまう。ここまではいいな?」
「ああ、理解しているつもりだ」
極度の疲労と栄養不足とに侵された脳みそで、ではあるが。
「よし。では続けよう。ともあれおまえたちの目には、わたしたちは幼い子どもか、未熟な生き物か、古きに固執するばかりの愚者として映っているのかもしれない。ただ一つ、わかって欲しいのは、わたしたちはそれで満足しているということなのだ。すなわち、満足するということを知っている、ということだ。この場所で、しかと生きていくことができるのなら、それ以上多くを望むことはない。それがわたしたちの基本的な考え方だ。
しかし、この場所がおまえたちの世界に変わり、おまえたちが出入りするようになれば、わたしたちはおまえたちの存在を警戒しなくてはならなくなる。そうして万が一にも、おまえたちがわたしたちに対し悪意をもって向かってくるのであれば、わたしたちは抵抗しなければならなくなるだろう。わたしたちをいともたやすく打ち倒すことができるだろう、途方もなく強力な者たちを相手取って、だ」
「おれたちを一方的に悪者にするのはよしてくれ」
「ああ。さきにも言ったが、おまえたちは完全に邪悪ではない。それはわかっているとも。ただ、おまえたちのなかにも悪党はいるはずだ。おまえも、そのことを否定するつもりはないだろう? それに、言うまでもないことかもしれないが、この点についてはわたしたちの側も同様だ。結局のところ、幾人もの人間を一つの塊として扱うからには、必ず善と悪との両者が混在するものだ。人間は必ずしも善良ではない。そうあるためには努力が必要なのだ。
ところで、わたしは今ここで人間の善悪を語るつもりはない。今わたしが問題にしているのは、あくまでも強弱についてということなのだ。この点は理解してもらえるとうれしい。
それで、話を戻せば、もしもおまえたちのなかの悪党が向かってくるのであれば、わたしたちはそれに応じなくてはならなくなるだろう。つまり、武器を取って戦うのだ。そして戦うからには当然、相手に負けないだけの力をもっていなければならない。途方もなく強力なおまえたちに負けないだけの力を、だ。それだけの力をわたしたちが手にするのは、まあ、簡単なことではあるまい。思うに、方法は一つしかないだろう。すなわち、おまえたちのもつ『道理』を学び、理解し、実践し、我が物にするということだ。自分たちより強大な存在を手本にする、ということだな」
未知なるものとの遭遇、理解、吸収。そうした試行錯誤こそが文明を発展させてきたのではないか、という言葉を、サムはしかし飲み込んだ。この番人をはじめとする「彼ら」が問題にしているのが、まさにこの一点なのだということを薄々感じ取ったからだ。
ゆえに、彼は別の言葉を発することにした。
「そうか……だんだんとわかってきたぞ。だからおまえは、強いだの弱いだのをあれだけくどくどと語っていたのか」
「本当にわかったか?」
「ああ、多分な……いわば勝負の前から、おまえたちはある一面において敗北を喫しているんだ。相手の力を学ぶという、その行為がすでに、相手との同化の第一歩であるからだ。自分たちにとって本来、不要なまでの過剰な力――少なくとも敵勢に対抗しうるだけの力――を、否応なく手にしなければならない。たとえそれが、自分たちにとって望まない方向の変化であったとしても」
「そのとおり。だが、それだけではない。おまえたちのもつ『正確さ』の力強さも忘れるな。正確であること、すなわち真に正しいということは、時として驚くほど抵抗なく、広く人々に受け入れられるものだ。もちろん、そうした正確さが必ずしも常に歓迎されるとは限らないが、しかしそれも遅かれ早かれというものであろう。
おまえたちの世界にたとえて言うなら、コペルニクス何某というところになるだろうな。そうして、そのような正確な事柄がひとたび、人々の口に上るようになれば、それ以前の状態に戻ることは二度とない。正確さ、正しさ、および真実なるものというのは、それほどまでに強いのだ」
特に、なんらかのかたちで客観的に証明された真実というものは――。論を俟たない事実とは、それほど強大な存在であるのだ。
「だからこそ、だ。だからこそ、わたしたちは放っておいてほしいのだ。善意からにしろ悪意からにしろ、いずれの場合でもおまえたちは、否応なくわたしたちをおまえたちのうちに取り込んでしまう。それも、たとえおまえたち自身がそう望まなくとも、だ。それはおまえたちが、いかなる力をもってしても動かしがたいほどに正しく、また対するわたしたちが、今この瞬間も何かを間違ったままでいるからこそのことだろう。この二者を隔てる莫大な強弱の差はつまり、そっくりそのまま正誤の差なのではないかと、わたしは考えている」
「そうまで思っているのなら、どうしておまえたちはよりよくなろうとしないんんだ? より真実に近く、より強力な一団に?」
サムのこの質問に対し、番人の男は大きく頷いて見せた。らしかった。相手の姿や動作が目視で確認できない以上、その仕草というのは、声の雰囲気などから推察するしかない。
「うむ、当然の疑問だ。同時に、その問いに対する答えというのは、わたしはすでに伝えてあったはずだと思う」
「なんだって?」
「満足することを知っている。それがわたしたちの答えだ。要するに選択の問題なのだ、ここから先は。正誤を超えた先というのは。言うなれば…………おまえたちの生き方は魚のそれだ。川の流れに沿って前進を続ける生き物、より広い世界を目指す種だ。より強くあることを絶えず求めつつ、ひと時も休むことなく自らの限界に挑み続ける。我先に我先にという強烈な熱意のもと、一つの水流の中で、熾烈極まる競争を繰り広げる。途切れることのない連続的な挑戦と発展。それがおまえたちの選んだ生き方だ。
対するわたしたちは、まあ、水草に近いのかもしれないな。おまえたちと同じ川の流れの中にはいるが、自分から望んで先を急ぐことはしない。流れの先を目指すこともない。ただいるべき場所にいて、生きるべき一生を生きる。もしくは、いるべき場所にいることを望み、生きるべき一生を生きることを求める、とそういったところかもしれん」
「敗北主義的発想だ」
「それは、よくわからない」
「実際に戦う前から負けを認めている、という意味だ」
「ははは、そうか……難しいな、伝えるということは」
その言葉を契機にして、番人の男は再び口を閉ざしてしまった。ただし今度はさきほどとは違い、濃密な気配というものが、扉の向こう側に残り続けたままだった。
その静けさのなかにサムは感じ取った。何か、寂寞の匂いのようなものを。
「ともあれ、だ」
と小さな声で言ったあと、男はこう言葉を続けた。
「わたしは多分、わたしが言うべきことはすべて言ったと思う。すまない。長々とつき合わせてしまった」
穏やかな言葉とは裏腹に、その声は少し冷ややかな調子であった。冷たく、かつ空疎な響きだ。つい直前までこの男の大部分を構成していたある種の熱量が、途端に鳴りを潜めたような感じだった。
対するサムは、番人の男の言葉に軽く頷いただけで、すぐに先を促した。時を経るごとにしだいに体力が失われていく。気力の消耗からくる脱力感のために、彼は一段と無口になっていた。
「わたしがこれまで話したのは、わたしがおまえ個人やおまえたちをどう思っているのか、今この場にいるおまえの存在をどうすべきだと考えているのか、くわえて、わたしたちがおまえたちをどういうふうに見ていて、またどういう理由から忌避するのか、という内容だった」
「ああ。それはわかっている」
「うむ。それで、どうしてそういう話をしたのかという理由についてなんだが、それはひとえに、納得のためなんだ」
「納得? それは誰の、何に対する納得だ」
「それはおまえの、おまえ自身の死に対する納得、すなわち納得のいく理由というものだ」
その瞬間、サムは顔を拳で殴られたような衝撃を受けた。無論、実際にそうされたのではない。同様に、身体に大きな外傷を負っていたわけでもなかった。だが苦痛は紛れもなくあった。それは、彼自身の失望から生じた痛みであった。
――おれの命運もここで尽きたか。
頭の中で思っただけか、それとも実際に声に出したのか。サム本人にもはっきりとはわからなかった。目の奥が痛くてたまらない。まったくひどいありさまではあるが、それでもどうにか話すくらいのことはできるらしかった。
「つまり、おれはもうすぐ死ぬんだな? いや殺されるんだ、おまえに、おまえたちに」
「そうする必要があるならば、だ。とにかく、わたしから伝えるべきことは、もう充分以上に伝えたと思う。後はすべて、おまえのこれからの行いしだいだ」
「警告はしたぞ、ということか」
「そのとおり。これでおまえは、もしこれから先、あまりに唐突な『不幸』に見舞われることになったとしても、きちんと納得したうえで最期の瞬間を迎えることができる。安心するといい」
「しかし仮にだ、仮に、おれがここから生きて帰ったとして、おれがその後どこで、誰に、この出来事を伝えるのかなんていうのは――」
「わかる。わたしたちは、おまえが思うほどには孤独ではない。詳しいところまで明かすつもりはないが、協力者がいるのだ。目や耳の役割を請け負ってくれる者。手足の役割を担ってくれる者。おまえたちの世界にも、少なからずわたしたちの生き方を尊重し、手を貸してくれる者たちがいるということだ。意外なことだと思うかもしれないが、何にでも特例はあるものだ。ところで、この点においても、おまえしだいだと言えるのは面白い。すなわち、今のわたしの言葉を信じるか、それとも信じないか、だな」
男は笑い声こそ出さなかったが、さきのやり取りからなんらかのユーモアを含んだ着想を得たことは、どうやら間違いないらしかった。
とはいえ、このときの男の態度には茶化すような軽薄さというものは認められなかった。彼はあくまでも、「おお、そういう見方もあるのか」と、単純な気づきを面白がっているようだった。
「なんというか、『口外するかしないか』という二者択一の構図は、表面上のことに過ぎないのではないだろうか? つまり、その選択が最終的な結論、必然的に重要視される決断であるからことさらに目立つだけであって、実のところその真なる姿とは、大小さまざまな選択肢が複雑に絡まり合った一つの集合体なのではないかと、わたしはそんなふうに思うのだ。互いに関連性をもった幾多の決断だ。要するにおまえは――」
「ちょ、ちょっと待ってくれ、頼むから」
早口でまくしたる男の言葉を、サムは遮った。右耳の具合がおかしかった。自分自身の呼吸の音が、耳を聾せんばかりの騒音に感じられていた。もしかすると耳管が閉じられなくなっているのかもしれない。
「頼むから、少し待ってくれ…………」
サムと番人は揃って沈黙した。するとすぐさま、橙色の火あかりに照らされた室内に、無色透明の静寂が広がった。絶えず強弱を繰り返す炎の揺らめきが、次から次へと岩壁に影を投げかける。
この部屋の中心部分、焚き火台の直上で膨張しはじめた何かに押され、サムはやがて壁際まで追い詰められた。
例の扉にほど近い壁に身体をもたせかける。そうした格好で少しへたり込んだのち、サムはようやく口を開いた。
「今のおれの姿がおまえの目にどう映っているのかは知らないが、おれの状態は万全ではない」
正直なところ、「万全ではない」どころの話ではない。
「文化的な話し合いはやぶさかではない。が、これ以上は無理だ。これ以上はもう、おれの体力がもたん。だから頼む、おまえにそれができるのなら、どうか、どうかおれを近くの人里まで連れて行ってくれ。おれには時間が必要なんだ。体力と……自分自身を取り戻すための時間が……」
それからまた少しのあいだ――数秒か、でなければ二、三分ていどか。時間の感覚すら失われつつあった――沈黙が続いたすえに、それを破ったのは番人の男のほうであった。
「……よかろう。おまえの望みを叶えよう、サーマ――悪しき来訪者よ。それでは、その焚き火台の下の辺りを探ってみるがいい」
いったいどこにそんなことをする必要が、と思いはすれど、こうなればとにかく相手の指示にしたがうよりほかにない。よってサムはただ言われるがまま、くだんの焚き火台まで近づいていった。やけに重たい身体を引きずって、どうにかこうにか這うようにして、だ。
目的の物というべきか、それらしい物体はすぐに見つかった。というより、「これか」と思う物がそれ以外には見あたらなかった。
その石製の台の下方にあったのは、なんらかの液体で満たされた竹筒らしき容器と、手の平に収まる大きさの小さな葉の包みという物であった。
確信に近いものはあれど、サムは念のため訊ねてみることにした。
「これでいいのか? この竹筒と、包みで」
「ああ、そうだ。その包みを開いてみろ」
やはりそうなるか、と頭の中で考えつつ、サムは手早く包みの中身をあらためた。折りたたまれた葉の中には、黒色の粒状物体が四つ、横一列に並んで収められていた。ちょうど、東洋の漢方薬に似た印象の粒である。
サムはこの物体に見覚えがあった。それも、あまりいいとは言えない記憶と結びついた覚えが。その覚えにしたがって、彼は再度訊ねた。
「まさか、これを飲めというのか?」
「おお、察しがいいな」
「いやしかし、おれは…………いや、実のところ、おれは以前にもこれと同じような物を飲まされたことがあってな。それは今から五日ほど前のことなんだが、その日おれは、どこの誰かもわからない奴らに突然に襲撃されたんだ」
「うむ」
「それでその後、むりやりにその物体を服用させられた。あの時は生きた心地がしなかったぞ。で、それからどうなったかっていうと結局のところ、おれはその出来事の直後に気を失ってしまったってわけだ」
「うむ」
「それを踏まえたうえで答えてほしいんだが、おれはこれを、この見るからに危険な薬物を、絶対に、飲まなくてはならないんだな?」
「うむ、そうだ」
サムは、その言葉の後にどういう語が続くのかと相手の出方を伺ったが、生憎と番人の男のほうには、それ以上を語るつもりは全然ないらしかった。
男は一言も発さぬまま岩戸の向こう側で待っている。サム・モーティマーが意を決し、次なる行動を起こす、その瞬間を。
(どうかしているな、おれも)
手中の物体を見つめながら、サムは思った。後戻りができる段階はとうに過ぎている。この成分も製法も一切不明の怪しい丸薬を、今度は自らの手で服用しなければならない。
当然、以前のものとは異なる薬物だという可能性もなきにしもあらずだが、おおかた、最前と同様に意識を失わせてから、またどこかへと移送する算段なのであろう。あるていどここから離れたどこか、高度な文明のある土地へ、だ。
とにかくそれはそれとして、このとき、サムには一つ気がかりなことがあった。彼の記憶が正しければ、以前飲まされた薬の数というのは全部で三つだったはずである。
しかし今現在、彼の手の上には、合計で四つの黒い球体が存在している。不審に思って調べてみると、四つある粒のうちの一つだけが、ほかのものとは少し異なっていることに気がついた。ほかより色が薄いというのか、純粋な黒一色ではなく、深いえんじ色をしていたのである。
「追加されたのはこの一粒か」というのは察しがつく。とはいえ、だからどうしたという話でもある。たとえどれだけ怪しくとも、とにかく今はそれを飲むよりしようがないのだ。今さらサムに拒否権などないのである。
――いっそ飲み込んだふりでもしてごまかしてやろうか。否、それも得策ではあるまい。せっかく相手が「見逃してやる」と言ってくれているのだ。ここでいたずらに反抗せんとするのは、それこそ悪手というものであろう。そんなことをしても誰一人として得をしない。
やはり、ここは大人しくしたがうのが最善だ。そういう結論に達したうえで、サムはとにかく未練を残さないようにと、この一連の対話における最後の質問を口にした。
「ところで、もし本当に何でも願いを叶えるっていうのなら、仮におれが『一生遊んで暮らせるような大金が欲しい』なんて言っていたとしたら、おまえはどうするつもりだったんだ?」
そこで番人の男は少しのあいだ考え込んだのち、こう返事を返した。
「『それはできない』と答えただろうな。わたしの持っていないものを、おまえにくれてやることはできない。それに、それだけの金を今すぐに用意しろというのは、あまりに無茶な要求だ。ないものはない。できないことはできない。そうしたものを求めるのは馬鹿げている。それで思ったのだが……なんというか、おそらくおまえは誤解をしているんじゃないかと思う」
「誤解?」
「ああ。ここはたしかに『望みの間』ではあるが、ここはおまえの思っているような場所ではない。人知を超えた魔法が眠る場所だとか、そういうのではないのだ。要するにここは……まあ、相談所みたいなものだな。日々の生活のなかで、もし何か困りごとがあるようなら、その解決のために頭と手とを貸してやる。とまあ、それがこの『望みの間』という場所なのだ」
――まあ、そんなところだな。
さほど大きくはない失望感と、必ずしも小さいとは言えない達成感とに背中を押され、サムは一息に薬を飲み込んだ。
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