冒険家サム・モーティマー密林行

純丘騎津平

挑戦と生存


    1


 密度が濃く、かつ膝までの高さを備えた下草の列は、相手にとって絶好の隠れ蓑だった。


 真上からの太陽光が緑の色を薄くし、湿った草地を金色の水面に変える。肌にまとわりつくような温く、かつかたい風が、サム・モーティマーの眼前に黄金のうねりを作り出していた。


 当初、サムの目はそこに何の脅威をも見出すことができなかった。群を成す樹木。何百と垂れ下がった蔦と葉。紅い虫に青い蜥蜴。視界の隅から隅までを生命力に支配されたこのジャングルの只中にあっては、彼の両目はさほど危険の探知に向いているとは言えなかった。受け取るべき情報が多すぎるのだ。


 このとき彼を救ったのは彼自身の嗅覚というものであった。


 それは、ひどく生臭い血糊の匂いや、いかにも肉食獣らしい強い糞の匂いというような、目に見えぬ情報を知覚するための能力だ。鮮やかな黄色い体毛は隠せても、その毛皮に染みついた臭気までごまかすことはできない。


 敵の正体は一匹のジャガーだった。ただ、どうやらその獣はサムを獲物として狙っていたわけではないらしかった。


 もしもこのジャガーが最初から襲い掛かってくるつもりであったなら、風上からサムに近づくような真似は絶対にしなかったことだろう。察するに、今回はサムのほうから相手のテリトリーに踏み込んでいったということか。


 このジャガーは守らんがために立ち塞がっている。自らの生活圏たる縄張りの、その平穏というものを。


 手加減というのは望めないだろう。今や敵は牙を剥き出しにしてサムを睨みつけていた。警告はすでに済んだ、といったところである。


 このとき、今まさに踏み込まんとするジャガーのその両前足が、またそこに並んだ刃物のごとき爪の一本一本までもが、サムにははっきりと視認できるかのように感じられていた。


 呑気に頭脳を働かせるような時間はない。ここはとっさの判断がキモだ。


 そういう意識が上手く作用したか、サムはほんの一秒だけ、敵に先んじて動くことができた。自身の右手側に見えていた岩場に向かって、一目散に駆け出したのだ。


 ごつごつと厳つい巨石の並んだ地帯に飛び込めば、ひとまず敵からの視線を切ることができるかもしれない。相手がこちらを見失ってくれれば儲けものだが、そう都合よく事が運ぶかまでは、はっきり言って完全にわからなかった。


 ともあれ、サムは岩と岩との隙間を目掛け、急ぎその身体を滑り込ませた。


 そこは一本道の通路のようになった地形であった。道幅は約一メートル半、両側面に見える岸壁の高さはそれぞれ四メートルていどで、奥行きは一〇メートル弱といったところか。


 頭上を守る屋根はないものの、差しあたり逃げ込むには悪くない地形である。少なくとも、側面から急に組みつかれる心配はせずに済みそうだった。


 肉食の獣を相手に直線的に逃げるのは好ましくないが、しかしそう贅沢は言えまい。とっさの判断とはそういうものだ。不意を突いて現れる困難に、その場その場の環境と、自らが持ち合わせた道具と能力とで立ち向かっていくしかない。


 そこでサムは、あらかじめ用意してあった道具のうちの一つを、今この場で活用することに決めた。


 彼はそれまで手に持っていたナタを地面に投げ捨てると、続けざまジャケットのポケットからライターを取り出し、短い導火線のついた物体に火を着けた。するとすぐさま、シューッと軽快な音を立てはじめたその物体を、彼は自らの足もとに落とした。


 そこから二歩進んだところで片膝を突いたのち、続けて彼は、背負った荷のなかでもっとも大きな存在感を放つ道具に手をかけた。レミントンM700マグプル。高性能の銃床と装弾数五発の弾倉を備えたボルトアクション方式のライフル銃だ。


 前か、後ろか、それとも頭の真上からか――。


 圧迫感のある岩場の通路で、サムは身体中の全神経を緊張させた。敵はこちらの背を追って来ている。そのことに疑いはなかった。


 これまでの経験上、この手の危険に晒された場合には、彼の勘は外れたためしがなかった。こうした優れた直感というものは、優れた冒険家には欠かせない才能の一つだ。


 もし仮にその才を持ち合わせていなかったなら、彼はこの十年を生き残ってはこられなかっただろう。切り抜けた危機の数は数十にものぼる。いずれも、命にかかわるような危険な事態ばかりだった。


 サムは振り向きざまに銃を構えた。黒い銃身を高く掲げ、その前方に視線を置く。後は覚悟を決めるのみ。敵に先手を取られれば命はない。彼はやがて訪れるだろうチャンスに備え、背中と肩との筋肉をいっそうに強張らせた。


 直後、彼の予想したとおりにジャガーは姿を現した。


 最前にサムが通った道筋をなぞるようにして、稲妻のごとき速度で飛び掛かってきたのだ。その動きはどこまでもしなやかだった。


 柔軟かつ俊敏。ライフルの照準を合わせられないほどの急襲。このとき、両者間の距離は五メートルと離れていなかった。まさしく目と鼻の先といった具合である。


 そして、今にも猛獣が飛び掛からんというまさにその瞬間、火薬の弾ける強い音が岩場の狭路にこだました。それも、複数の爆発音が同時多発的に鳴りはじめたのだ。


 その音は、銃弾の火薬に由来するものではなかった。より軽やかで、より繁雑に絡み合った一連なりの爆発音。


 その音色の正体というのは、次から次へと絶え間なく爆ぜる爆竹の立てたものだった。さきにサムが着火し、彼自身の足もとへと放り投げておいたものだ。


 誇張でなく、つけ入る隙はほんの一瞬しか現れなかった。例のジャガーは紛れもなく反応を示したが、それはあくまでも反射的なものに過ぎず、はっきりと動揺と呼べるほどの強度は備えていなかった。たとえるなら、「顔の前に小石が跳ねてきたので思わず瞬きをした」というような、小さな小さなリアクションだ。


 いかに獣除けの爆竹といえど、一度攻撃態勢に入ってしまった獣に対しては、さしたる効果は期待できないらしい。


 期待したほどの影響はなかった。が、必要十分な効果はあった。ほんのわずかに二の足を踏んだ標的を照準器の枠内に収めると、サムは迷うことなく人差し指に力を込めた。途端、銃床のあたる肩に大きな反動が伝わり、上半身が強く後方に押し戻された。


 きらめく閃光と轟音とが周囲の空間を飛び回る。束の間に岩肌が白く染まる。


 そうして射出された弾丸がどこに、あるいは何に命中したのか、サムも瞬時には把握ができなかった。ただ一つ、たしかなのは、くだんのジャガーはなおも突撃をやめなかったということだ。


 サムは急ぎボルトハンドルに右手をかけたが、実際のところ、彼はこのときすでに自らの死というものを覚悟しはじめていた。「次の一撃はもはや間に合わぬか」という公算が大きかったからだ。


 最初の一撃で相手の勢いを止められなかったのであれば、その先の展開は目に見えている。完全に逆上した手負いの獣と、完全にしくじった一人の男。この後八つ裂きになるのがどちらかは、言うまでもなく明らかだ。


 果たせるかな、直後にはサムの左前腕に鋭い爪が食い込んでいた。


 まるでフックか三日月かというような、急角度の傾斜をそなえたハンターの爪が。あとほんの少しでも力がかかり、ジャガーの前足が実際に振り抜かれていたならば、サムの左腕はいともたやすく引き裂かれていたことだろう。皮膚は破れ、肉は裂かれ、血流はしぶきに変えられていたに違いない。


 しかし、そうした身も凍るようなイメージが現実になることはついぞなかった。獣の剛腕に満身の力が込められようかというその寸前、ジャガーの目にふっと影が差したのだ。直後、敵はどっと音を立ててその場に崩れ落ちた。硬く冷たい岩肌の上に、力なく倒れ伏したのだ。


 見ると、その眉間にははっきりとしたしるしが刻まれていた。赤くえぐれた円形の傷。それは射入口に間違いなかった。サムの決死の一撃は見事、敵に致命傷を与えていたのである。


(命拾い、九死に一生だ)


 無論、でたらめに撃ったつもりなど微塵もないが、幸運が味方したというのもまた、紛れもない事実ではあった。


 いくら強力な.300ウィンチェスターマグナム弾といえど、成獣のジャガーを仕留めるのは容易なことではない。しかも、たったの一発でそれを成したというのであれば、これはもう奇跡と言っても差し支えないほど幸運な出来事である。サムは己自身の強運に感謝を捧げつつ、言い知れぬ高揚感に胸を震わせた。


 当面の危機は脱した。とはいえ、無傷で済んだわけではない。あのジャガーが最後に繰り出した反撃、命尽き果てる直前の一打は、サムに手痛いダメージを負わせていた。


 このとき彼の左前腕には、つい今しがたできたばかりの裂傷が三つ、横一列に並んでいるのが確認できた。言うまでもなく、それぞれ一本一本の鉤爪が突き刺さることで生じた外傷である。激しい出血こそ認められないものの、一部には皮下組織まで達しているか、という部分もあるような具合だった。


 実際に起きた出来事からすればむしろ軽傷とも呼べる傷ではあるのだが、いかんせん周りはジャングルだ。どんなことが命取りになるかわかったものではない。こうした状況下で応急処置を怠るのは、得策とは言えないだろう。


 サムは巨岩の前でしゃがみ込むと、背負ったバックパックを自身の足もとに下ろした。続けて、自前のファーストエイドキットから清浄綿と消毒用エタノール、ガーゼ、さらには包帯というようないくつかの物品を取り出した。


 不幸中の幸いか、皮膚の裂け方を見るに縫合をする必要まではなさそうな感じだった。


 ちらと横に目をやると、そこには力なく大地に横たわったまま、ぴくぴくと手足を痙攣させるジャガーの姿があった。その獣の姿を目にした途端、サムは胸の奥にとげが刺さるような感覚を覚えさせられた。生物の殺傷に対する罪悪感、さらには後悔というものだ。


――これは無用な殺生だろうか。しかしこうなっていなければ、ここで命を落とすのは自分の側だったに違いない。


 さらに言うなら、さきに攻撃を仕掛けてきたのはこのジャガーのほうである。こちらは自分の身を守るために迎撃を行ったに過ぎないのだ。


 が一方、この争いのそもそもの原因という点においては、あくまでもサムの側に落ち度があった。


 なんといっても、彼が自分の不注意から相手のテリトリーに侵入し、野生の獣の警戒心を刺激してしまったことが、この闘争の発端にほかならないからだ。そういう見方をするならば、サムが行った事というのは、一方的かつ野蛮な侵略行為以外の何物でもなかった。


(おれの旅に、ここまでやるだけの価値は本当にあるのだろうか?)


 考えてから、サムは己自身の弱気に驚いた。そしてまた反射的に、彼の思考は、そう遠くない過去へと向かって遡りはじめた。

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