猫の恩返し
風 凛子
第1話
いつものようにバタバタと出勤の準備と、戸締りの確認をして、玄関に足を一歩踏み出すと、車庫から猫がパッと現れて、私の足元にスズメの死骸を置いた。
私は、その猫がいつもご飯をあげているターボであることはすぐに分かった。
ターボの気持ちはよく分かったが、この時間のない状況で、ただただ冷たい対応しかできなかった。
ターボは「どうしようかな」と悩みながらも、思い切ってやった行動に、興奮と満足の気持ちがあふれていようだった。
ただ、自分自身がどうしていいのか分からず、私の対応に目を背けたという感じでサーっと姿を決してしまった。
「ターボありがとうね」と心の中で言った。そして「ごめんね」とスズメに言った。
帰ってきたら軒先のタンブラーに埋めてあげよう。車庫の奥の棚にスズメを大事に置いた。
その健気さに抱きしめてあげたい気分だった。ただターボは絶対触れない。
その身のこなしは見事で、ご飯を食べに毎日何回かやってくるが、ぜったいに自分の体を触らせないのだ。
可愛らしい容姿とは裏腹に用心深くてしっかりしている。
心は許していないが、この人は信用できる、いや信用はしてはダメだという、どうにも解決のつかない感情に支配されていた。
ある日通りかかった女子学生が、一見すると、すり寄ってきそうな、可愛い仕草で歩いているターボの頭を撫でようとした時、絶妙な身のこなしでスルーと女子学生の手をすり抜けた。
その女子学生は一言「可愛くない。」と吐き捨て行ってしまった。
してやったりのターボー。
それからターボは何事もなかったかのように、私の足元に来てスルッと一回転すると、用意した猫缶を半分食べて、またあっけらかんと行ってしまった。
私は、「全部食べてよ」と残ったご飯を一旦下げて、今日もう一度来たら出してあげようとラップに包んで台所に置いた。
こんな日々をもう3年も送っている。何も変わらない日々は退屈だが幸せでもある。
電車に間に合うか間に合わないかで、余裕など全くなかったが、さっきのターボーの可愛らしい顔を思い出していた。
「あー、まずい、まずい」次の電車に乗らないと遅刻だ。息切れ切れで前に進んでいる気がしないほど脚が重たい。
「神様、どうか私を助けて」これはいつもピンチに陥った時に必ず祈るフレーズだ。
でも,消してばかにしたものではない。私はいつもこれで乗り切ってきた。
その時、うしろから「落としましたよ」と声がした。
振り返ると道路に私の鍵が落ちていた。
「すみません。」と声をかけてくれた人にお礼を言った。
「いいえ、こちらこそありがとうございます。」
「えっ、」何が何だか分からず、その女性の後ろ姿を見て茫然としていた。
何がありがとうなんだろうと思ったが、兎に角駅に急がないと。
でも、足が進まない、喉が痛い、息が切れ切れ、急げ急げそれからのことはよく覚えていない。
私は電車の中にいた。
これで遅刻は免れた。喉がひーひー鳴っていたが、遅刻した時の惨めな思いはしなくて済むという安堵の方が大きかった。
電車の心地よい揺れに、微睡みながら息が落ち着くと、さっきの玄関先から鍵の出来事までの事を考えていた。
あの慌ただしくて短い時間に色々あった。
会社までの数十分は、走り去る景色に和みながら、今後の自分の身のふり方の選択もしていた。
不思議と焦る気持ちは全くなかった。能天気も甚だしい。
5分前に到着。
更衣室に走っていき、服を脱いだまま放り込んで制服に着替える。
何事もなかったように9:00に自分の机に着席した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます