狸と蜃気楼
月丘ちひろ
狸と蜃気楼
学生時代の夏休み。蒸し暑い河川敷からのジョギングを終え、家路に続く坂道を上っていると、近くの駐車場の物陰から動物が飛び出してきた。私が足に力を込めてその場に踏み止まると、その動物もその場に固まった。
モサモサした茶色の毛をした図体の大きな動物である。最初はこの付近を統べる野良ネコなのではないかと思った。だけどそれにしては、蛇に睨まれたカエルのように怯えている。では今時珍しい野良犬なのではないかと考えたが、犬にしては手足も尻尾も短く見える。
私は首にかけたタオルで額の汗を拭い、改めてこの生き物を確認した。
目の前にいたのは狸だった。
この狸と出会ったのは都内の閑静な住宅街。野良猫だってたまにしか見かけない場所だった。私はスマホで写真を納めようとポケットに手を入れたが、その気配を察した狸は弾けるように走り出し、私の目の前から姿を消した。
興奮した私は駆け足で家に戻り、くつろいでいた母に狸と出会ったことを話した。だけど母はこんなところにいるわけがないだろうと一蹴するのだった。あまりにあっさり流されたので、もしかしたら見間違えたかもしれないと、母に言って話を打ち切ったが、心の中ではあの生き物は間違いなく狸だと思った。
私はヤツの姿を思い浮かべた。だけど、記憶の中のヤツの姿はまるで真夏の蜃気楼のようにぼんやりとしていた。だから次こそはポンポコリンな姿をカメラに納めてやろうと堅く誓った。
そしてそのチャンスは意外とすぐに訪れた。狸と出会った年の秋、自宅から徒歩三十分程度歩いたところにある池を散策していた時の話である。夕暮れが早まり冷めていく空気にあたり、緑・赤・黄と多様に色づき始めた並木道を歩いていると、茂みがガサガサと音を立てたのである。
その茂みをなんとなく覗いてみると、モサモサとした茶色の毛に小枝をたくさんくっつけた狸の姿があった。
私はまた会ったな、と言わんばかりにスマホを取り出しカメラアプリを起動し狸に構えた。狸はこちらの存在に気づいたが、茂みの中は狭くすぐには身動きが取れない様子だった。
私はチャンスと言わんばかりにシャッターボタンを押下した。カシャリと音を立て、スマホのストレージに保存された画像が表示される。そこには狸の姿が写っている……が、ほとんど茂みと同化しており、これを狸の証拠写真だと言って見せつけるにはあまりにも心許ない出来映えをしていた。だから私は茂みの奥が見えるように姿勢を変え、改めてスマホを狸に向けた。
そのとき狸が茂みを飛び出した。私は姿を露わにした今こそ、シャッターチャンスだと思い、シャッターボタンを押した。だが私が納めたのはヤツの残像だった。芸術の秋という言葉が合う写真であったが、狸の存在を証明する写真にはならない。もう一度撮影しようにもヤツは頭に木の葉を乗せてドロンと消える忍者のように、景色に溶けてしまった。私は二度目の敗北を胸にこの場を後にした。
ところが狸との二度目の遭遇からわずか二週間後。幼なじみと古本屋へ続く大通りを歩いて談笑していると、ふいにとある一軒家の前に人だかりがあることに気づいた。
彼らの視線をたどると、そこには白い檻の中に格納された狸の姿がある。その家の主が言うには、庭に現れた、庭の作物を食べようとしていたところを確保したのだそうだ。
狸は人間を威嚇するようにソワソワと動いている。だけど当の人間はこんなところに狸がいるのかと楽しげに笑っていた。
今度こそシャッターチャンスだった。
私はスマホを狸に向け、シャッターボタンを押下しようとした。だけど、最後の抵抗と言わんばかりに檻の中でジタバタ動く姿を見ているうちに、どうしてボタンを押すことができなかった。
あの狸がこの後どうなるのか、私にはわからなかった。だけどもう二度と会うことはないのだろうと思い、私は幼なじみと古本屋への道を再び歩き出した。私も狸のことなど忘れ、あっという間に一年と数ヶ月の年月が経過した。
季節は立春。最寄りの隣駅にあるおいしい魚介豚骨ラーメンの店に足を運んだ日の夜、ポッポコリンに膨らんだお腹を慣らすために、河川敷を歩いていると、近くの駐車場からガサガサと音がした。
ネコかな、と思い駐車場の方を向くと、私に負けず劣らずポンポコリンな出で立ちをした生き物の姿があった。奴は駐車場から道路へ飛び出すと、生意気に私を見上げている。
私は無意識にスマホを取り出し、この見上げた根性をした狸にカメラを向け、シャッターボタンを押下した。ストレージに保存された画像には信楽焼に劣らず堂々した狸の出で立ちがある。
私はスマホから目を離した。そのときにはすでに狸は景色の中にとけこんでいた。
今の狸は蜃気楼だったのだろうか。私はスマホに保存された画像を確認した。そして母にチャットを送り、見慣れた家路を真っ直ぐ歩いた。
狸と蜃気楼 月丘ちひろ @tukiokatihiro3
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